渡り鳥 Ⅳ
どうして分かった。
もはや声にすることすらままならない驚きに、男は深紫の目を見開く。
「子としての、勘ですかね」
青金の髪に縁どられた青年の面で、矢車菊の青の瞳がにっこりと微笑んだ。熱で視界がぼやけていても、長子の顔立ちはシグディースとは似ても似つかない。何よりシグディースは決して、ロスティヴォロドに笑いかけない。氾濫する思い出の中の妻の姿にも、口元をほころばせているものはただ一つしかなかった。
「従士たちの報告によりますと、母上は未だ錯乱されておられるとか。昨日など、外に出ようとした母上に縋りついて止めた女奴隷の首を絞めたそうです」
すっかり図体も大きくなった長子がシグディースの腹に宿ったと判明し、この屋敷に連れてきて最初の宴の際。彼女を貶めた女奴隷を斬り殺した際に盗み見た、滑らかな頬に付着した血飛沫よりも鮮やかな微笑。それが、ロスティヴォロドが知るただ一つのシグディースの笑顔であった。あの顔を自分に向けてくれたらと欲したのも。
「私も後で様子を窺ってみるつもりなのですが、軟禁を解くのはともかく、母上をこの部屋に入れるのは控えるべきかと」
それでもお前たちの母親を連れて来てくれ。自分があいつに殺されてもこのまま病死として処理してくれ。
男は長子に懇願したのだが、望みは聞き入れられなかった。今こそまさに、シグディースが罪に問われることなくロスティヴォロドを殺す、絶好の機会であるのに。
「私は今サリュヴィスク公であり、父上の次にグリンスク大公となる者です。だのに、母親だからという理由で大公殺しの実行犯を赦していては、下々の者に示しがつきません」
シグディースが宿願を果たした後も、お前たちはシグディースを変わらず母として敬うようにと伝えても、跳ね除けられるばかりだった。
長子は、既に自分たち夫婦の過去のほとんどを知悉している。シチェルニフがエレイクの一族の掌の中に落ちた日の出来事も。生き残りはしたものの慰み者とされた姉を救うべく、シグディースがロスティヴォロドと異母兄の戦闘の最中にまで乗り込んだのだとも。ロスティヴォロドがシグディースの目の前で、彼女の姉にとどめを刺したのだとも。あまつさえ、男を知らなかった体を公衆の面前で無理に押し開いて、妾としたのだとも。そうしてロスティヴォロドがシグディースを弄んでいるうちに出来たのが自分なのだとも。
ロスティヴォロドは、自分たちの出会いの詳細を直接我が子に語りはしなかった。しかし代わりに長子に自分たちの過去を吹き込む輩など、腐る程いるだろう。長子がグリンスクを離れてからは、どんな悪口だって言いたい放題だ。
「だいたい母上も母上です。今更血の復讐を果たして何になるというのか。父上を殺したところで、前のシチェルニフ公一家が生き返るはずはないのに」
だのにこの言い草は母に冷たすぎる。健常な状態ならばロスティヴォロドは息子を
しかし冷静になって振り返ると、イジュスヴァルも下の子供たちも、母親の笑った顔を知らないのだ。どころか、ふらと様子を見にくることもあるものの、概ね懐妊中なのでとか産後の身体を労わるためという名目で部屋に籠る母親に、壁を感じるなと言う方が無理なのかもしれない。
現に息子たちはある程度成長してからは、実の母よりも乳母や女奴隷たちに親しみを持っていたようであった。もしかしたら長男は、懐妊中に産着を縫う母親の姿さえ、大公であるロスティヴォロドに取り入るためだと解していたのかもしれない。しかもシグディースは、サリュヴィスクへと発つ長子を見送る際も、涙の一粒も零さなかった。どころか、温かい言葉一つかけなかったのだ。
傍から見れば薄情極まりない行為もロスティヴォロドならば、シグディースが長子の器量を信頼しているがゆえなのだと理解できる。が、長子の心が母親から離れたのもやむを得ないのかもしれない。けれどもその咎は全て、子供たちをシグディースの家族の仇の子として誕生させてしまった自分にあるはずだ。
「……畏まりました。なるべく父上のご期待に添えるように、尽力はしてみますが」
だから、あいつを赦せ。あいつは俺を殺すためにこれまで生きてきたのだから、好きにさせてやれ。
切れ切れの声で訴えると、長子は眉を寄せながら頷いてくれた。だのに結局、いつまで待ってもシグディースは枕元に現れないままで。
「間に合って、良かった」
西の果てから戻った次男の安堵と絶望が入り混じった涙が、ロスティヴォロドの不精髭が伸びた頬に滴る段になっても、妻は訪れない。
木に何かを打ち付けるくぐもった音や、武具が擦れる音と共に自分を呼ぶ艶めかしい声が度々轟きはしたのだが、それは現か幻か。次子の到着を境として、一層熱に苦しみだした男には、判断が付かなかった。辛うじて側に誰かがいるぐらいは感じられるが、それが誰なのかを確かめられもしない。
全くの健康体だろうに日々窶れてゆくばかりの医者の見立てでは、ロスティヴォロドは死の一歩手前にまで進んでいるのだという。今日はなんと司祭まで呼ばれた。
「大公妃さまがおられませぬが、宜しいのですか?」
「母は良いのです。あの人はもうどうしようもありませんから」
もしかしたらシグディースは、三男だけでなく長男とも一騒動起こしたのかもしれない。ロスティヴォロドが楽園に逝けるようにと、この者の罪を赦したまえと祈りを捧げるべく呼ばれた神の僕に応える長子の応えは冷淡ですらあった。
あるいは、長子のシグディースへの態度は、世代の――与えられた教育の差によるものなのかもしれない。
生まれながらの天主正教徒である子らと違い、十年に満たない間とはいえ、ロスティヴォロドにはイヴォリ人の神々の徒して生きた期間がある。ゆえにロスティヴォロドは、シグディースが復讐の義務に懸ける想いのほどを理解できた。されど子供たちにとっては父祖の定めなど、時代錯誤な蛮行でしかないのかもしれない。
結局のところ、夫婦として過ごした年月を抜きにしても、シグディースの思考をこの世で最も理解できるのは自分なのかもしれなかった。彼女は正妻の子で自分は庶子であったという差異はあれど、自分たちは共にイヴォリ人の君主の子として生を受けた。ゆえにロスティヴォロドだけが、シグディースという女を完璧にとはゆかずとも理解できる。ならば自分亡き後、妻はどうなってしまうのだろう。
自分の死後、子供たちにすら遠巻きにされて生きねばならないとしたら、シグディースがあまりにも哀れだった。だったら、シグディースにはロスティヴォロドの死を――定めを果たしたという誇りを余生を照らす灯として、彼女らしく気高く生きてほしいのだが。
「ありがとうございます。これで父も、思い残すことはないでしょう」
祈祷も終わり、司祭に礼を述べる長男に、待てと叫びたかった。
ロスティヴォロドが最後に見たかったのは、穏やかな心根が滲み出ていて感じが良い髭もじゃではない。求めるのは雪の膚と矢車菊の青の瞳と七竈の実の唇をした、臈長けた美女。二十年近い歳月を共にした妻であり、子供たちの母である女の顔なのだ。
「さあ、皆夕食を食べるぞ。ちゃんと食べないと、父上を心配させてしまうからな」
長子を筆頭に子供たちがわらわらといなくなり、最後に残っていた医師の姿も消えた直後。
「ロスティヴォロド! 私だ!」
待ち望んでいた妻の声を捉えた瞬間は、涙さえ出そうになった。もしかしたらこれが好き勝手にやってきた自分に神が下した報いなのやもと、覚悟していただけに。後は、シグディースによってあの短剣を胸に突き立てられれば、ロスティヴォロドの望みは叶う。
「ならば、俺の妻を通してやれ。最期に、伝えたいことがある」
「しかし、」
「……これは命令、だ。貴様ら、大公の命に逆らうのか?」
子供たちが戻って来ないうちにと、逡巡する衛兵に圧力をかけ、妻を中に入れさせる。久方ぶりに目の当たりにする妻の美貌は相変わらず。天上で煌めく星のごとく冴え渡っているが、憔悴は隠しきれていなかった。
「……お前、大分、騒いだだろ? 時々聞こえてたぜ」
どうにか絞り出した軽口に対する反応から、時折聞こえてきた物音は自分を呼ぶ妻がたてたものだったと、男は確信した。そういえば白く美しいはずの繊手は、赤く腫れあがっていて、所々血が滲んでさえいた。
「ガキ共から聴いたが、お前、あいつを叩いたそうだな」
シグディースが我が身を傷つけてまで、ロスティヴォロドの許に突入しようとした理由など、問い質すまでもない。このままロスティヴォロドが落命すると、シグディースは永久に復讐の義務を果たせなくなる。三男を責め立てたのも、あいつのせいで家族の恨みを晴らす機会がなくなってしまうと、焦燥したためだろう。
「頼むから、あいつを赦してやってくれ。俺に死なれて、お前には赦されないままだったら、あいつはきっと、一生苦しい」
ゆえにシグディースは狂乱したのだろうが、彼女の仇はこうして苦しみ、無様に死んでゆくのだ。もうそれでよしとして、三男を赦してほしかった。だのに妻は今にも涙を零しそうな張りつめた顔のままで。鮮やかな紅唇は、分かったとほころびはしなかった。
待てども待てども、妻は短剣を取りださない。
「布を取ってくれねえか。……最期に一目お前の髪を見て、触ってみたい」
ならばせめて、もう一度彼女の髪に触れ、月色の毛髪の匂いを土産にあの世に逝きたい。我ながら欲望塗れの願いは叶えられた。
「……やっぱり、お前は綺麗だな」
さらさらと流れる黄金色は、シグディースと二度目の邂逅を果たしてから共にした歳月そのものだ。そう考えるとなお一層、乾いた唇に押し付けた真っ直ぐな毛先が愛おしくなった。
本当のところは、もっとこの髪の持ち主と共に生きていたい。しかしこれこそが、神がロスティヴォロドに与えた運命なのだろう。愛した女には家族の仇と憎まれ続け、長年の望みは結局叶わないまま息絶えるというのが。
だが、それだけで終わるのはやはり嫌だ。醒めぬ眠りへと落ちつつあった男は、最後の力を振り絞り、鉛と化した目蓋をこじ開ける。
「お前を愛している」
同じく重くなった舌で紡いだ告白を、目の前の妻は熱に浮かされた末の戯言としか受け取らないだろう。そもそもシグディースが、ロスティヴォロドにこんなことを言われて喜ぶはずがない。それでも伝えたかったのだ。
もう嘲笑でも構わないから、笑ってくれないだろうか。僅かな望みを込めて光を失いつつある深紫に映した顔は、泣きそうに歪んだ妻の顔だった。
ロスティヴォロドが死ぬというのに、シグディースは笑ってくれない。男が最期に思ったのは、そんなことだった。
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