渡り鳥 Ⅲ
自分の手の甲を掠った矢には、どうやら毒が仕込まれていたらしい。
癒える気配のないどころか、悪化する一方の傷の様子。及び支えがなければ立ち上がることすらままならなくなったロスティヴォロドの様子から、配下がトラスィニの公邸まで慌てて連れてきた医者は、あと一月持つかどうかと重々しく告げた。
「貴様、医師であろうが! ならば弱音を吐く前に、悪魔の毒をはよう大公様の御身体から追い出さぬか!」
激しやすい従士たちは、ロスティヴォロドが横たわる寝台の横で不運な老人に怒鳴り散らしているが、煩いので止めてほしい。この医師がロスティヴォロドに毒を盛ったのではないのだから。それに、叫び声が聞こえると頭痛が酷くなる。
「それにしても悪魔の末裔どもは、なんと卑劣な真似をするのか! 今からでもきゃっつらを追いかけ、大公様のお恨みを奴らに返さねば!」
部下の中には、ひとまずイヴォルカから退散した敵への敵討ちに燃える者までいた。ロスティヴォロドはまだ生きているのだから、仇討ちを企てるには早すぎやしないだろうか。それに、少しぐらいは今回の結果から学習して、逃げる敵を深追いするのは場合によっては命取りだと理解してほしい。
それにそもそも、ロスティヴォロドが床に伏せざるを得なくなったのは、本当に遊牧民どもの企みのせいなのかも定かではない。ロスティヴォロドは、些細な傷が元で命を落とした配下を沢山見送ってきた。だからこの症状の切っ掛けは甲に受けた矢傷であれども、毒によるものではなく、ただ運が悪かっただけかもしれないではないか。だとしたら、此度の敵相手にロスティヴォロドの敵討ちなどしたら、とんだお笑い草だ。
「なんにせよ、これからどうすればよいだろうか?」
「そうだな。まずはサリュヴィスクからイジュスヴァル様を呼び寄せるべきだろう。ロスティヴォロド様がお亡くなった時、グリンスクにイジュスヴァル様が居なければ、幼少の公子さま方を担ぎ、良からぬことをしでかす輩も出て来るだろうからな」
ロスティヴォロドがトラスィニ公であった時分から苦楽を共にしてきた、歴戦の従士たちは流石に冷静に、突然の事態の対処に当たっていた。まだ年若いイジュスヴァルも、彼らの支えがあれば立派に大公としてやっていけるだろう。だからロスティヴォロドはこのまま絶命したとしても、三男を庇ったことに悔いはない。
「……ごめん。俺が、あんな見え見えの罠に引っかかったから、親父が……」
だが、自分の枕元で涙どころか鼻水まで流す三男の様子は気がかりであった。
ろくに食べていないのだろう。三男の頬は日々こけていくばかりで、今日などは足元も覚束なかった。お前が無事で良かった、人間はいつか皆死ぬ者なんだから気にするなと、もう何度も声を絞って告げているのに。けれども三男もまた自分とともにグリンスクに送られると従士たちの会議で決まったので、不安はなかった。
懐かしい屋敷で兄弟たちに慰められれば、三男の哀しみもいずれ薄れよう。だから、いま最もロスティヴォロドが案じているのは――
「それにしても、大公妃さまをいかがする? あの方は七人の公子をお産みあそばされたとはいえ、かつて大公さまのお命を狙っていた
シグディースとの約束を破ることになるかもしれないという、一点だけであった。
あの勇ましい女は、衰弱したロスティヴォロドの様子を確認するなり、喜々として常よりも熱が上がった身体に刃を突き刺すだろう。そうしてこの命と引きかえにしても良いとまで願った彼女の笑顔を拝めるのならば、ロスティヴォロドはそれで構わない。
「左様。大公妃さまを今の大公さまに近づけるのは、あまりに危険すぎますな。たとえ毒に打ち勝てても、短剣でぐさりとやられでもしたら……」
しかし従士たちは、ロスティヴォロドの抗議も虚しく、彼女を自分から遠ざけんとしていた。家臣としては当然なのだが、ロスティヴォロドにとっては不必要極まりない配慮である。
どうせ亡くなる命ならば、シグディースにくれてやってもいいだろうが。お前ら、俺の命令が聴けんのか。
幾度となく身を起こして配下を怒鳴ろうとしても、身体がついていかなかった。ロスティヴォロドは熱に魘されるうちに、呻き声しか出せなくなっていたのだ。
朦朧とした意識を荷車で揺さぶられていると、ロスティヴォロドはいつしかグリンスクに帰還していた。
この頃になると傷は膿み爛れ、我ながら鼻を摘まみたくなる悪臭を放つようになっていたのだが、ロスティヴォロドは大公であり戦士だ。戦場に散乱している亡骸から立ち上る腐臭や、腹からはみ出た臓物の中身の臭いには慣れている。
むしろ常に高熱に苛まれ、寝台から起き上がることすらままならないという状況の方が、余程応えた。ロスティヴォロドの身体の丈夫さは誰もが驚くほどで、物心ついてからは熱を出すなど、片手の指で数えられるぐらいしかなかったのだ。
「……とうさま。うまなんてもういらないから、げんきになってよ」
「帰ってきたらいっしょにあそんでくれるって約束してたのに!」
六番目と七番目の、まだ幼少の公子たちは父の側で泣き叫ぶ。稚い公子の悲痛な様子に、大公の看病のために配された医師と女奴隷もまた眦を濡らした。しかしこの場には子供たちをなだめあやし、大きな瞳から涙を引かせられる者はいない。病床の大公の許に集った公子たちのうちでは最も年長の四男さえ、まだ十を幾つか越えたばかりなのだから。
「……シグディース、は? 従士たちの言うことは無視していいから、あれも入れてくれ」
病み、溢れるほどに漲っていた覇気を喪失した男が、余力を振り絞って紡いだ名の女の代わりになれるはずがない。
「お袋は、おふくろは……」
親父が傷を負った経緯を知ってから、おかしくなった。
四男の頬を伝う一筋の涙は、死に瀕する父親の姿と、母親の狂乱と、どちらの苦痛によって流されたものなのだろう。
痞えながらの四男の説明によると、シグディースは三男の口から直接ロスティヴォロドが倒れた経緯を知らされて以来、錯乱している。また衛兵に止められてもこの部屋に入ろうとしたため、現在寝室に軟禁されているのだという。
「今のお袋は、正直怖い。いや、前からそんな優しい母親じゃなかったけど」
特に、兄貴の頬を張って、茫然とする兄貴を睨みつけるお袋は、悪鬼みたいだった。
重すぎる溜息を吐いて締めくくった四男は、ぽつりと付け加えた。兄貴が落ち込んで、部屋から出てこなくなったのももっともだ、と。道理で三男が、大公邸に戻ってからまだ見舞いに訪れないわけだ。
「親父はさあ、怪我を治すことだけ考えてろよ。大丈夫。親父が元気になれば、お袋だって元に戻るって」
あからさまな作り笑顔を母親譲りの顔に浮かべると、四男は父と一緒にいたいとぐずる弟たちを促して病室から出て行った。ロスティヴォロドをゆっくりさせてやろうという腹積もりらしい。回復するなどという期待は欠片ほども抱いていないだろうに、健気な奴である。
医師や女奴隷たちも四男と同意見なのか。急に静まり返った室内で熱と傷の痛みに苛まれていると、四十年と少しの人生の様々な場面が脳裏に過った。
幼き日に、満面の笑みを浮かべた母に、焼き立ての鳥の形の麺麭を渡された春の日。とっておきの悪だくみをしている祖母の、悪辣だがこの上なく頼もしい瞳の輝き。ロスティヴォロドの御機嫌取りに徹する伯父と、そんな父親に冷めた視線を投げつける亡き従兄の姿。思い出は、洪水のごとくとめどなく溢れだしてきた。
馬に独りで乗れるようになってすぐ。調子に乗って手綱を強く引いたら馬の機嫌を損ねてしまい、背から振り落とされた瞬間。あの時はたまたま近くにいた父が抱きとめてくれたから、ロスティヴォロドは次兄と同じ道を、次兄よりも先に進まずに済んだ。
ロスティヴォロドは、もうすぐ再会することになる父イシュクヴァルトほど優れた人間ではなかった。父親としても、大公としても、戦士としても。その上、まだ小さな子供たちを遺して旅立たなければならないのだ。長子の双肩にかかる負担を鑑みると、申し訳なさがこみ上げてくる。
「父上。話には聞いておりましたが、なんとお労しい……」
だが、ようやくサリュヴィスクから戻って来た長男に、長兄に連れられて見舞いにやってきた三男の前で、お前には迷惑をかけるなどと謝るわけにはいかない。そんな真似をしたら、三男はずっと己を責め続けるはずだ。
「……よく、戻った」
お前はこれからグリンスク大公として、弟たちや従士たちと力を合わせ、よく国を治めるように。三男はこれまで通り南の防衛に尽力するように。お前は勇敢だから、きっと民や配下に慕われる勇士になれるはずだ。
どうにか遺言を伝えると、負傷していない方の手に生温かな雨が降り注いだ。力が抜けたロスティヴォロドの手を取る三男は、大粒の涙を零し、幼子のごとくしゃくりあげている。
「ただし、命は、大事にしろ。名誉も大切だが、もっと大事なものがあると覚えておけ。……俺からお前に言えるのは、これぐらいだ」
返事の代わりのつもりなのか。三男は、濡れたロスティヴォロドの手を、鋼色の髪がかかる額に押し付けた。
「さあ、そろそろ弟たちの様子を見に行け」
イヴォルカの西の果ての、大陸の中部と東部を分ける大森林地帯の直ぐ側。つまりはサリュヴィスクよりも遠い任地からグリンスクに戻るのに、次男はいささか手間取っているらしい。だから現在グリンスクにいる一族の中で長子に継ぐ年長者は三男であった。
長子はこれから、ロスティヴォロドの代わりに政務や此度の戦の後始末、何よりロスティヴォロドの葬儀や埋葬の準備に追われるはずだ。埋葬が終わっても、即位式が待っている。サリュヴィスク公の後任も選ばなくてはならない。
しばらくは多忙を極める長男に代わり、弟たちの面倒を任せられるのはお前しかいないと励ますと、三男はやっと笑顔を見せてくれた。まだ十代半ばの少年に辛気臭い顔は似合わない。だからロスティヴォロドが死んでも悲しむのはほどほどにして、喪が明けたら肉でも食って笑っていてほしいものである。
少年は未だ涙で曇った目を手の甲で擦ると、腐敗する肉だけでなく、終焉に近づきつつある生命が発する臭気が立ち込める部屋から出る。しかしなおも横たわる父と、その傍らの兄を注視していた。
「私はまだ父上と相談したいことがあるからな」
弟の様子に、長子は苦笑を漏らす。本当はロスティヴォロドこそが長子に頼みたいことがあって、眼差しでそれとなく伝えたのだが、本当に嘘が上手くなったものだ。
「……そっか。そうだよなあ」
三男は兄の言葉と微笑をそのまま受け取った。
「父上が案じられているのは、母上のことでございましょう?」
やや軽くなった足跡が聞こえなくなった後。色彩だけは母親譲りの長子は、ロスティヴォロドの脳裏を埋め尽くす過去の情景の洪水の中で、もっとも鮮やかな光を放つ女に言及した。
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