渡り鳥 Ⅱ

 ロスティヴォロド及び従士たちは、歓待の宴で疲れを癒した後、トラスィニの従士団とともに約束の地へと発った。

 ロスティヴォロドがトラスィニ公であった頃と比べると、トラスィニは遊牧民が多くなっていた。現に、追加されたトラスィニの従士団には、少なからぬ数の定住した元草原の民が混じっている。息子が片言ながら草原の言葉で――草原は部族の数同様、言葉も様々なのだが――彼らと意思を通わせている様には、時代は変わったのだと実感させられた。

 ロスティヴォロドが子供だった頃、草原の言葉を話せるようになれと勧めてくる大人はいなかった。外国語に対する認識は、西南のシャロミーヤ語も理解できれば便利だろう、程度だったのだ。

 もしかしたら周囲の者もロスティヴォロドも、無意識に草原の輩を見下していたのかもしれない。文化的にもこちらの上を行くシャロミーヤならばまだしも、家すら持たぬ蛮族の言葉など習得する必要はないと。

 ロスティヴォロドの父祖であるイヴォリ人が、この地に入植するよりも遙か昔。辿りようがない昔から草原の民と敵対してきた南部の民は、とみにその傾向が激しかった。イヴォルカ南部において遊牧民とは、暴れるだけしか能のない、獣同然の――いや、獣にも劣る存在なのだ。

 ロスティヴォロドの長年の策略が功を奏し、父の最初の妻の出身部族はシャロミーヤに目標を定め出した。雪豹の末裔が抜けた穴を埋めるかのごとく頭角を現してきた部族のような悪魔の末裔なら、南部の民はなおのこと恐ろしかろう。

 大昔に身罷った祖母曰く、現在は大陸東部の中ほどまで生息域を広げているサグルク人の故地は、祖母の出身部族の住まい周辺らしい。即ちリャスト周辺から広がっていったサグルク人は、特に南に進出するにあたって、名称すら伝わっていない先住民を徹底的に迫害したのだという。激しい抵抗に遭い、多数の同胞を喪いながら。

 流された血を恨んでか、はたまた自分たちの所業から目を逸らしたいのか。サグルク人は自分たちとは違って紅い目をしていた彼らを、悪魔だと信じているのだという。イヴォルカ南方の最初の住民など影も形もなくなっても、ずっと。

 追い出したといっても、知らず知らずのうちに彼の民の流れを汲む者は、無論存在する。その証拠に、ごく普通の目の色をした男女の間に、紅い目の赤子が生まれることもあるらしい。さすれば子は殺され、母親は悪魔と密通したあばずれとしてやはり殺されると聞いた。赤子殺しをなんたる蛮行と憤慨する天主正教の宣教師が、やめよと説いても。大公の名の下において禁じても、なお。

 他の部族ならまだしも今回の敵のような者たちと、自分の民が相いれる日は、もしかしたら永遠に来ないのかもしれない。

 降り注ぐ星の光の下で様々な想いを巡らせながら辿り着いた、トラスィニ最南端。この地域は、敵対する遊牧民がしばしば出没する最前線でもある。ために、自分たちを除けばイヴォルカ人など影すらも見当たらなかった。集落どころか人家すら存在しないこの一帯でなら、大規模な戦を行っても民に被害は出ないだろう。

 ようよう辿り着いた目的地は既に夏の匂いを漂わせていた。サリュヴィスクではようやく雪が融けただしたばかりだろうに。

 どこに源を発しているのかは定かではないが、東西に流れる河が、トラスィニにおけるこちらとあちらの境だとされている。緑の平原の上で蛇のごとくのたうつ青い流れを越えた地点には、サグルク人曰く悪魔の末裔が既に集結していた。

 ロスティヴォロドとしては、奴らを攻略でき土地が増えるのなら、息子のいずれかと奴らの姫を娶せてもよいつもりである。しかし、配下の諸族の長が赦すまい。だいたいシグディースも、武力で奪うのではなく計略でもって掌中に収めた土地に興味は示さないだろう。あれほどイヴォリ人伝統の価値観に忠実な者は、もはや片手の指の数程しか残っていないのではないか。

 悪魔にも、こちらが陣を敷いている間は攻撃してこない程度の倫理観は備わっていたらしい。もっとも彼らからしたら、自分たちイヴォルカ人こそが悪魔の末裔なのだろうが。

 頭の中で皮肉を垂れつつ、いつかと同じ鳥の翼の形の陣を敷く。ただし今回は中央を少し厚くして。

 あえて中央の先頭の後ろに、手練れの戦士とともに配した息子の目に、自分は亡き父イシュクヴァルトのごとく頼もしく映るだろうか。いや、情けないと呆れられる結果に終わっても良いから、この子を守れるだろうか。

 エレイクの一族の男子として生を受けたからには、戦は避けられない。だが、どうか三男が初陣を無事に切り抜けられればと祈りながら、一番槍を放る。戦闘開始の合図に、いずれの陣営からも雄叫びが上がった。

 ざっと確認したところ数はこちらの方が上だが、残念ながらやや勝る程度でしかなかった。しかもこちら側の兵、特にサグルク系の戦士は、敵に恐れをなしているようである。代を経るごとに支配下に置いた民に近づいているイヴォリ人にも、顔色を無からしめている者がいた。地下の国、あるいは戦の神の館にいる父祖が見れば、雷にも勝る罵声を浴びせかけそうな体たらくである。

 口伝さえ朧にしか伝わらない古代を除けば、追い払ったはずの悪魔と対峙するのはこれが初めてなのだ。配下が敵を恐れるのも無理もない。だが、奴らとの初陣を敗北で汚してなるものかと、宴で騒いでいたのは他ならぬサグルク人だったのに。あの戦意は、実物が目の前にいないからこその楽観。あるいは空元気だったのか。

 麾下の戦士を叱咤したい気持ちはある。しかしそれも全て、彼らの虚勢を見抜けなかった自分や、息子の咎だ。どんなに数が多く、補給にも事欠かない軍とて、士気が奮わねば勝てる戦にも勝てまい。

 怖気ずく配下を鼓舞したくとも、矢は間断なく飛来し、大地を揺るがすかのごとき勢いで敵が迫ってきている。こんな状況で、自分の激励に耳を傾ける余裕のある者などいるだろうか。

 ロスティヴォロドも経験があるが、戦の最中は命のやり取りに集中するあまり、感覚が遮られる。自分に向かって飛んでくる剣や槍の先以外は何も見えず、自分に狙いを定めた敵の雄叫び以外は何も聞こえなくなりがちだというのに。

 丁度鏃の――こちらを鳥だとしたら、その身を射抜くかのごとき陣を敷いていた遊牧民は、突如として撤退する素振りを示しだした。

 勝機は彼らの方にあったのに、なぜ。こちらの数に恐れをなしたのだろうかと驚きはしたが、安堵するにはまだ早すぎた。危うく率いていた従士団が壊滅しそうになった、若かりし頃の恐怖が蘇る。

 あの時ロスティヴォロドはまだ十六になったばかり。若さゆえの血気と、婚約者を喪ったという自棄が合わさった無謀を、寸でのところで止めてくれたのは伯父であった。

 あの日の敵は、ついに武具の装飾の有無や、その技術の程度すら判ぜられるほど近くなった遊牧民ではない。しかしどうして目前の敵が往時の敵と同じ手を使わないと断言できる。

 とうとうこちらに尻を向けて逃げ出した敵を、配下たちのいずれかは嘲笑っていた。さすが悪魔、こちらを守護する神の威光に恐れをなしたに違いないと。中には、今度こそ悪魔を殲滅しようぞと、馬に鞭を当てて逃げる敵を追いかける者もいた。その中心にいたのが、ロスティヴォロドの後ろで精鋭に守られていたはずの三男であった。あいつは見た目も中身も自分そっくりだが、こんなところまで似ずとも良いだろうに。

 慌てて三男の名を呼び、留まれと、こちらに戻って来いと叫んでも、三男を乗せた葦毛は止まらなかった。

 撤退すると装い、敵を有利な場所におびき寄せ反撃に出るのは、遊牧民の得意技だ。やつらの戦術を三男に教える者はいなかったのか。もしくは、教えられたが今の三男の頭からは抜け落ちているのかは定かではない。しかし一つだけ断言できることがあった。

 三男を留められなければ、ロスティヴォロドはあの子を喪うだろう。絶対に生きたまま帰すとシグディースに約束した息子を。そう考えると、動かずにはいられなかった。否、考える前に、身体が動いていた。

「――大公様!」

 何をなさるのですと騒めく古参の戦士をくぐりぬけ、男は馬を走らせる。御子息は他にも沢山いらっしゃるではありませんか、と絶叫する者たちは、ロスティヴォロドの目的を見抜いているのだろう。

 確かに部下たちの言う通りだ。大公であるロスティヴォロドはただ一人しかいないが、公子は三男の他に六人もいる。だが、だからと言って、あの子を見捨ててよいはずがない。公子は七人いても、ロスティヴォロドの三男はたった一人しかいないのだから。

 いったいどれほどあの子を探していたのか。戦場での半刻は、時に一瞬で流れる。ようやく我が子の姿を見つけた際には、三男は案の定遊牧民どもに囲まれていた。もしかしたら敵は最初から、大将であるロスティヴォロドもしくはトラスィニ公である息子をおびき出そうと画策していたのかもしれない。だとしたら自分は、おめおめと敵の計略に嵌ったことになるが、後悔はなかった。

 まずは、息子に槍を向けている敵の首目がけて矢を放つ。馬術でも弓の腕前でもイヴォルカ人を凌駕しているだろう遊牧民が、唯一こちらに敵わないのが防具の質であった。

 革で守られてすらいない首筋は、穿たれるやいなや赤い滴をほとばしらせ、逞しい身体は馬の背から大地に叩き付けられた。主を喪い恐慌した馬は、幸いにも敵の方へと無我夢中で駆けてゆく。

「――説教は後でするから、まずここから逃げろ!」

 どうにか息子と馬首を並べ、涙を双眸一杯に溜めた少年に向けて叫ぶ。すると息子がこくりと首を縦に振ったのと、敵がロスティヴォロド目がけて弓を引いたのは、ほぼ同時であった。

 近くで炸裂したはずの息子の絶叫すら遮断した身体が捉えられたのは、飛来してくる矢の恐るべき姿だけ。しかし放たれた矢は、身体でほとんど唯一鎖帷子に守られていない手の甲を擦っただけで、突き刺さりはしなかった。決して浅い傷ではないが、これならば馬を操るのにも支障はない。

 己を追ってきた従士たちと敵を蹴散らし、茫然とした三男を無事救出して味方の許に帰還した頃のロスティヴォロドは、思わぬ幸運を噛みしめていた。だが数日後、それは決して幸いではなかったのだと判明したのである。

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