渡り鳥 Ⅰ

 白い指が月の金色の滝の間を滑る。さらさらと流れる金の糸も、けぶる睫毛に囲まれた切れ上がった瞳も、溜息が出るほど幻想的だった。

 夫婦の務めの後、乱れた髪を編むというただそれだけの行為すら、妻が行えば美しい。シグディースは今年で三十六だし、七人の息子を産んだ身だというのに、滴るような色香は相変わらずだった。

 彼女との間に儲けた子はいずれも健康な男児で、病にも怪我にも苦しめられることなく、すくすくと育っている。七人の息子に恵まれたのももちろんだが、子を喪う悲しみを自分たちが未だ経験していないのは、とてつもない幸運であった。それに息子たちはいずれも、親の欲目が入っているのかもしれないが、文武に秀いた良い子だ。

 彼の地の民の求めに応じ、老いた伯父と交代する形でサリュヴィスクに派遣した長子は、立派に務めを果たしているらしい。確かにサリュヴィスクからは、こちらが定めた額の貢税が、毎年指定の時期にきちんと届けられていた。次子もまた、任地であるイヴォルカの西の果ての原住民と友好を築いているのだと、共に送った従士団の長から耳にした。親として誇らしい限りである。

 今年トラスィニへと派遣した三男は、何かに熱中すると周囲の物事が目に入らなくなるきらいがある。だがまだ年少の身ゆえ、折につけ指導してゆけば勇敢な指揮官となるだろう。

 シグディースの心情はともかく、生意気ではあるが可愛らしい息子たちの笑い声で溢れた家庭を与えてくれた妻に、不満などあるはずがない。しかしただ一つだけ我儘を言わせてもらうとしたら――

「前々から思ってたんだけど、お前男腹だよな」

「あの子たちと、そなたの息子を七人も産んだこの腹に何か不満があるのかえ?」

「いやな、やっぱり一人ぐらい娘が、それもお前にそっくりな娘がいたら面白かったんじゃないか、と思ってな」

 一人ぐらいは娘もほしかった。シグディースによく似た娘が生まれれば、配下の諸族の長どころか、近隣の国の支配者がこぞって求婚に訪れる、自慢の姫となったろうに。

 可愛らしい娘に抱っこをせがまれ、「将来はお父様と結婚する」などと強請られるのが、ロスティヴォロドの密かな夢だった。けれどもこればかりは諦めるしかない。

 ロスティヴォロドは今年で四十一。四十を越えて子を作った男など腐るほどいるが、三十も半ばを越えたシグディースに、欲しいから子を産めなどと無理強いさせるわけにいかない。そんなことをしたら、下手を打たなくても彼女は落命してしまう。

「……そなたはまこと阿呆よのう」

 妻は眼差しで、ならば他の女に産ませればよいではないかと語っていた。だが、ロスティヴォロドが欲しているのはシグディースとの娘なのだから、諦めるしかない。

「寝るぞ」

 何やらもの言いたげな様子の妻を促し、細い身体の温かさ柔らかさを噛みしめながら眠りに落ちる。

 春になり雪が融ければ、ロスティヴォロドは三男と共に南の遊牧民に戦を仕掛ける心づもりでいた。表向きは、子らに分割して相続させる領土を増やすために。しかし実際は違った。

 己の腕の中ですやすやと眠る妻の、白い寝顔を眺める。シグディースは昔からずっと強い男を好んでいた。ならばロスティヴォロドがより力を、富を、土地を手に入れれば。さすれば彼女は自分を愛さずとも、笑いかけてくれるようになるのではないか。我ながら笑い飛ばしたくなるぐらいに愚かしい理由こそが、ロスティヴォロドの真実だった。


 小屋に閉じ込められ枯草を食むのに食傷していた家畜が放たれ、青々と生い茂る草目がけて駆ける頃になると、人の往来も可能になる。雪解け水を啜って泥濘んでいた大地をやっと渡れるようになったのだ。

 上溝桜ウワミズザクラの爽やかさと、紫丁香花リラ の甘さ。花々に加えて若草の青臭さが僅かに入り混じる香気が、鼻をくすぐる。この春の香りはどこから運ばれてきたのだろう。若さとともに張りを失いつつある頬をくすぐる風は優しかった。

「おとうさま、ちゃんとかえってきてね」

 まだ四歳の末子は、声こそ潤んでいるものの、行かないでと駄々をこねはしなかった。この子が生まれ、長子をサリュヴィスクに派遣してからロスティヴォロドは領土を広げるべく度々南に向かっている。だから、父親の不在には慣れているのだろう。

「もちろんだ。土産も持ってくるさ」

 なにが欲しいかと抱えた末子に訊ねると、馬をと返された。そろそろ自分も兄たちのような専用の馬が欲しいのだと、末子は強請る。ならば遊牧民の馬を一頭生け捕りにしようと約束すると、稚い末子はきゃっきゃと笑った。小さく柔らかな身体を大地に降ろした後も、ずっと。

「あの子のことは任せとけ。たとえ俺が死んでも、あいつだけは生かして帰還させるからな」

 四男以下の手元に残っている子供たちと、抱擁としばしの別れの挨拶を交わした後、男は妻を抱きしめた。大公邸の庭に咲き誇る花々を背に佇むシグディースもまた、ロスティヴォロド同様に若いとは言えない齢になっている。しかし彼女は相変わらず香り立つように美しかった。

「――ふざけるな。そなたも必ず生きて帰って来ねば赦さぬ」

 臈長けた貌の下に秘めた意思の激しさもまた、若かりし頃と変わりない。

「約束を忘れたのかえ? そなたを殺すのはこの私ぞ?」 

 子供たちの耳には届かぬ声量で突き付けられた決意に、胸が痺れた。もちろんロスティヴォロドとて彼女と交わした約束は覚えているし、いつかシグディースに殺されてやるつもりでもある。だから、むさ苦しい遊牧民の戦士に囲まれて落命するつもりなど欠片もない。けれども考えもしない事態が起きるのが戦場というものなのだ。

 ゆえにシグディースは覚えがある限り始めて、ロスティヴォロドの身を案じる言葉を発したのだろう。しかしそれがこんなにも血が滾るものだったとは。雪を欺くかのごとく白い妻の頬も、心なしかうっすら赤らんでいて。七竈の実さながらの唇を僅かに尖らせたシグディースは、美しいというよりも可憐だった。

「な、なにを、」

 たまらず、一部は年頃の子供たちや配下の前だというのにくちづけると、妻は当然抵抗した。が、か弱い彼女の抵抗を封じるなど造作もない。無論ロスティヴォロドは交わした約束を守るつもりだし、守るために最善を尽くすつもりでもある。それでも、これが妻と交わす最後の接吻になるかもしれないと覚悟すると、歯止めが利かなくなったのだ。

 本当は金糸のごとき髪の香りを胸が膨らむまで吸い込みたいのだが、公衆の面前なので断念せざるを得なかった。シグディースが髪を露わにするのは、夫である自分の前だけでよい。

 代わりに若かりし頃よりも肉付きが良くなった臀部や太腿を撫でまわしていると、密着した柔肌は次第に上気していった。もうそろそろ終わらなければ、後が少し面倒になる。

「――そ、そなたといううつけは! 何ということをしてくれたのだ!」

 案の定、妻は腕の力を緩めた途端にするりと抜け出し、拳の雨を降らせてきた。細腕から繰り出される攻撃を回避するのは容易いし、直撃したところでさして痛みは感じない。ロスティヴォロドが妻の拳を躱すのは、ひとえに彼女の痛みを慮るがゆえだった。

「じゃーなー。戻ってきたら続きさせてくれよ」

「誰がさせるか!」

 艶めかしい罵りに聞きほれながら馬の腹を蹴ると、雄馬はひんといなないた。蒼穹の向こうの神にも聴かせるつもりなのかと尋ねたくなるほど雄々しく。威勢のいい掛け声は、麗しの春の盛りを言祝いでいるようでもある。

 グリンスクの土塁も抜けると、そこから先は大公である自分すら何が潜んでいるか断言できない危険地帯である。草陰に隠れているのは、捕らえれば晩の主食にできる野の獣かもしれないし、徒党を組んだ野盗かもしれない。いや、野盗ならばまだ良い。自分たち一族からイヴォルカの支配者たる地位を奪わんと画策する、誰ぞの手下であるよりは。

 幼き日。頼れる父や祖母の庇護下を離れる不安を悟られまいと虚勢を張りつつ、一方で皆の期待に応えなければと頬を上気させながら進んだのは、無論この野である。けれども現在でも記憶に残る風景と視界に映るそれがかけ離れているのは、ロスティヴォロドが齢を重ねたからなのか。

 休憩のために馬から降りる。脚をくすぐる草は、あの頃は己の背丈ほどにも感じられたものだった。特に夕暮れになると、草が揺れる音が狼の遠吠えに聞こえて、心細くてならなかったものである。だが今のロスティヴォロドの耳には、恐るべき獣の遠吠えの幻聴など届かない。

 長靴に包まれた足が踏みしめる土は黒い。つまり肥沃な土壌は、雑草だけでなく麦や野菜も豊かに育むだろう。南の遊牧民どもが相次いで侵入してくるのも頷ける話ではあった。

「もうすぐ御子息の許に到着いたしますね」

 食事の準備をさせつつ熾された炎を見つめていると、同じ年頃の従士に声をかけられた。

「そうだな。お前も久方ぶりに我が子に逢える。嬉しかろう」

 高位の従士であるこの男の子の一人は、三男に付けた従士団の一員であったと朧に記憶していたが、正解だったらしい。髭に覆われた顔は、火影に照らされているということを差し引いてもぱっと赤らんだ。

「俺の子もお前の子も、これが初陣になるな」

「ええ。恐怖のあまり、漏らさなければよいのですが」

「でもまあ、初陣ってのはそんなものだろう」

 親しく言葉を交わしたのはこれが初めてである従士とは、存外に話があった。

 大公と従士が炎を挟み、炙った干し肉と黒麺麭を貪りながら交わすのは、互いの子の話題のみ。

 ちゃんと食べているか、周囲に迷惑をかけていないか。若さのあまり危険な真似に奔っていないか……。子を想う気持ちに身分は関係がないのだと、改めて実感できた。

 それから更に数日馬を走らせ到着したトラスィニの公邸では、もてなしの宴の準備がきちんと整えられていた。

「おう、親父!」

 久方ぶりに顔を会わせる三男は、背が伸び、肩幅もやや広くなっていた。しかしまだ身体の厚みに乏しい若造であり、守るべき子であるのに変わりはない。三男が、昔のロスティヴォロドそのものの顔に、疎らながら髭を蓄えるようになっても、ずっと。

「別に、来なくても良かったんだぜ? 遊牧民なんて、俺だけでも追い払えたのに」

 大人ぶりたい年頃になったのだろう。いささか舐めた口を利く三男は、それでも万感の想いを込めて抱きしめると、くすぐったそうに微笑んだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る