自分はバッドエンド至上主義者ですが
この物語を拝読して感じたのは
『世の中は本当にハッピーエンドに満ちているのか?』
という痛切な疑問だ
だっていままで、己のバッドエンド執筆に夢中で
そんなこと考えもしなかったからだ
読者たる我々は
主人公と先輩との日々を追う中で
バッドエンドの是非について考えるようになるだろう
そして最後まで読み切った時
読者たる自分は
彼の怒りを感じた
派手さはない静かな怒りだ
だが静かゆえに
どうしようもない現状への問題提起を
とても『リアル』に我々に伝えてくれる
この『気付き』はとても大切にさせてもらおう
バッドエンド至上主義者だけでなく
ハッピーエンド至上主義者に対しても
金言となりえるのだから
考えない賢者よりも
考える愚者たれ
満開の桜も、青空と入道雲も、
鮮やかな紅葉も、凛とした雪景色も、
この世を彩る全てが、色を失い。
どうでも良いと思う瞬間がありますか?
それら全てを、
殺したいと思う事がありますか?
この世の中が、
どうしようもなくつまらなく思えて、
馬鹿らしく思えて、白々しく思える。
綺麗事を並べる奴らに反吐が出て、
理想論をのたまう奴に嫌気がさす。
でもそれはきっと、
意気地のない自分への苛立ちだ。
絶望すらできず、
悲しみすら得ることの出来ない、
踏み出せない自分への苛立ちだ。
虚無感だ。
僕が本当に殺したいのはなんなのか?
新代ももさんの『小説家を殺したい』を読んで、僕はそんなふうに思いました。
あなたも読んで、感じてみてほしい。
おすすめです(●´ω`●)
思春期のあれこれを通りすぎて変わっていく先輩と、それを留めたい後輩。殺したいのは「時間の流れ」。移ろい変わっていくものを、その息の根を止めてでも留めたい、そんな気持ちの表れなのかなと思いました。
会話の間の取り方、地の文で表現される言葉選びと想像力の豊かな「静寂」の描写がとても秀逸で、全5話あっという間に読ませて頂きました。
個人的にはこの後輩が言う「殺す」は三島由紀夫の最初期の散文『中世に於ける一殺人者の遺せる哲学的日記の抜萃』における「殺人」を彷彿とさせるものだと思いました。
三島が10代の前半にこれを書いたように多感な思春期だからこそ、強烈な愛着を表現する言葉が、死に近づいていく。
変わっていくこと許せないから、そのときのまま、時間を「殺したい」。本当は、そこで「死んでいたい」のではないかと思うのです。
予定調和の物語が嫌い、という年頃、私にもありました。
というか今も、若干その傾向があります。
ハッピーエンド、大団円、めでたしめでたし――作者の脳内だけで組み上げられた「よくできた幸せなお話」。世に溢れるそれらが、集まると一種の「型」となり、重圧として自分を締め付けてくる……そんな風に感じていた年代が、確かにありました。特に中高生頃。
とはいえ本作において、それは必ずしも本題ではないように思われます。
かつて感じていたそれらの感覚は、いつしか過去になっていく。けれど、過去になりきらないものもある。
本作が主眼としているのは、むしろそちらであるように自分は感じました。
世に溢れる「型」に順応したり、適合したり、単に忘却したり……そうしていつしか忘れていく生き辛さ、息苦しさ。けれど、すっかり忘れ去れるものでもない。
そういったものへの郷愁めいた何かを、感じました。
名状しがたい情感を含みつつ、細やかに配された事物の数々も、鮮やかに情景を彩ってくれています。
繊細な感情の揺れを、存分に堪能できる作品だと思います。