第4話 アリスな私に、キスをしないで。
学祭前日。
この日も私はビラ配りをしていた。
心理学部棟の前で。成実は文学部棟の前。この間の逆パターンだ。
逆パターンでも名木橋先生にアピールしてやろう。そういう魂胆だ。
名木橋先生は一五時から九〇分の講義を受けて一六時四〇分頃心理学部棟に戻ってくる。そのタイミングを狙う。
「劇団『レインツリー』、『アリスのドッペルゲンガー』よろしくお願いしまぁす」
ビラ配り。一枚一枚手渡し。
多分、文学部の人間ほど『不思議の国のアリス』を読んだ人がいないからだろう。
心理学部棟の人たちはビラを受け取りはするものの、「写真撮って」という人は少なかった。稀にミーハーそうな女の子や、ゴシックな感じが好きそうな女の子は写真をせびってきたが……一時間で三人いるかいないかだった。文学部棟の時は五分に一回写真を撮られた。それに比べると明らかに少ない。
一六時、四五分。
先生が来た。真っ直ぐ伸びた背筋。手にはタブレット。多分あれで講義のノートを取ったのだろう。椎名先生の前でカタカタとタイピングをする名木橋先生を想像すると胸がときめいた。私も一緒に、講義を受けたい……時間割的にそれは叶わないのだけど……。先生の隣で好きな講義を受けながら先生の横顔を見つめたい。そんなことを思った。
「よう、アリス」
先生が私に挨拶をして来た。私は、先生にもビラを渡す。成実が渡した分、この間私が渡した分、多分文学部棟の前で成実が渡した分、そして今私が渡す分を含めたらもう先生は四枚も同じビラをもらっていることになる。けれど先生は丁寧に私の手からビラを受け取った。それを脇に挟みながら、私に向き合う。
「ネタが割れたぞ」
唐突な勝利宣言は、その時、口にされた。
「はい?」私はすっとぼける。しかし先生は、にやりと笑ってタブレットを起動する。
「よく勉強したな」
そう、褒めてくれる。
「アリス顔実験に、人種効果か? よくその発想ができたな。うちの研究室の学生でもできない考え方だろう。これ一本で実験ができそうなくらいよく考えられたものだよ。国文学の院生にしておくのはもったいないな」
「何のことを言っているのか分かりません」
私はしらばっくれた。しかし先生はタブレットの画面を見せてくる。
それは、劇団「レインツリー」の公式サイトだった。
「大宮成実」
彼女の名前を、先生は口にした。
「『アリスのドッペルゲンガー』。宣伝しているな。主演は大宮成実。顔写真も載っている」
「そうですね」
他人のフリだ。そう決めこむ。私は今、初めて成実の顔を見た。そんな態度をとればいい。
「ショートカット、ややきつめのメイク。目尻のところがポイントかな。アイラインを引いている。この髪型も、化粧も、君とは似ても似つかない。だがな」
先生はタブレットをスライドさせた。
「顔認識ソフトにかけてみた。心理学の実験用に使う、顔の弁別を数値的、科学的に行うソフトだ。この大宮成実の顔と、君の顔とを分析にかけた。……君の顔写真に何を使うかは正直なところ結構迷ったが、この写真を使うことにした。一番かわいく撮れていると思う」
先生が見せてきた写真。
それは、付き合い始めた日のデートで、二人で一緒に高畑不動尊で撮った写真だった。私のセルフィーで先生と一緒に写っている。私の顔の正面、照れくさそうにはにかむ先生。
「で、顔認識の結果、君の顔と大宮成実の顔の一致率は八〇%程度だった。おそらく、化粧や髪型のせいだ」
そこで、と先生は続けた。
「少々手間はかかったが、画像編集ソフトで化粧と髪型を統制した。悪く思うなよ? ちょっと不細工にはなったが、これで大宮成実と君の顔は『すっぴん』で『髪型も関係ない』状態になった」
次に先生が見せてきた画像。
それは成実の顔と私の顔が編集されたものだった。正直、かなりひどい顔だったが……確かに、すっぴんかつ髪をアップにした時の私たちに、よく似ていた。
「この二つを顔認識にかけた。結果は九〇%。科学的に見て君と大宮成実の顔は『よく似ている』」
「そうですか」
自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。しかし先生はひるむことなく続ける。
「さて、次だ。君たち二人の顔に『不思議の国のアリス』のメイクをしたらどうなるか。これも手間取ったが、画像編集ソフトで弄った。怒るなよ? こうなった。多少不細工だがな」
ひどい。私の顔をこんなにするなんて。
そう思える画像が出された。しかし確かに、金髪ロング、陰影のハッキリした、目と眉の位置が近く、瞳は青で、肌の色が白く頬が薄っすら染まっている、いわゆる「アリス風メイク」の私と成実が並んでいた。かなり不細工だが……信じられないくらい不細工だが。
「まぁ、元の顔からはかなりかけ離れたがこの二つも顔認識にかけてみた。結果は九〇%台後半。『かなり似ている』。まぁ、統計処理をしていないので客観的に示せるか、と言われれば首を傾げざるを得ないが、しかし私の目から観測すると二つの顔は『よく似ている』」
君は大宮成実に協力を依頼したな? そう、名木橋先生は続ける。
「大宮成実に協力してもらって、自分とそっくりのアリスの格好をしてもらって私の……いや、俺の前に現れてもらったんだろう? 俺は、当然そのアリスを君だと錯覚する。そしてその後、本物の君が別地点に現れると……同じ人間が二カ所にいたように見える」
黙秘。私は黙る。
「この事例の……君による君のための研究だから『実験』とでも言おうか……この実験のいいところは、A=Bとなることだけじゃない。『AかBか?』の判定は観測者側の主観に委ねられるということだ。つまり、大宮成実を知っていて君を知らない人間からすれば、『大宮成実が二カ所にいるように見える』。一方、大宮成実も君も知っている人間からすれば両者は区別がつくないしは最低限不自然には見えない。そして、大宮成実のことを知らず君のことしか知らない、つまり俺のような人間からすれば……」
君が二つの地点に同時に存在しているように見える。
「以上だ」
名木橋先生の言葉に、私はぎゅっと唇を噛みしめる。
なるほど、先生は名探偵という訳だ。
「状況証拠です」そう、反論する。「確かに、私にはそれが可能だったかもしれない。大宮成実に協力を依頼したかもしれない。でも、物証がない。私はやってないかもしれない。……先生は、私を疑うんですか?」
「そう言われるとぐうの音も出ないが……」
先生はタブレットを操作した。Facebookの、私のページに飛ぶ。
「君と大宮成実が知人であることはFacebookで調べがついた。コメント欄や写真を見るに高校時代の知人かな? 年齢的にも二歳差だし、同じ高校に同じ時期にいた可能性は十分ある」
「それも状況証拠です」
「確かにな」
先生は困ったような顔をする。
「じゃあ、こうする」
ぐっと、先生の顔が近くに来る。
「次に俺が『アリス』を見つけたら、俺はその『アリス』にキスをする」
「は?」
思わずとんでもない声が出る。しかし先生は全く動じずに続ける。
「いいよな? だって『アリス』は君なんだもんな。俺と君は付き合っている。『アリス』に……つまり君にキスをしても、セクハラでも何でもない。ただの愛情表現だ」
「だっ、駄目ですっ……!」
思わずそんな声が出る。
だって、だってだって、その「アリス」は、下手したら五〇%の確率で成実だし、もしかしたら学内中に溢れている他の劇団の「アリス」かもしれないし、成実や他の女の子に先生がキスをするなんて……私以外の女性に先生がキスをするなんて、そんなこと、許されないどころか、そんなことがあった日には、私、舌を噛んで死んだ方が……。
「どうして駄目なんだ? 『アリス』は君だろう?」
「そ、それは……」
「俺は君が好きで、大好きで、好きすぎて君を二人見た。そうだろう? だから俺は、君を二人分味わうことにした。いつでもどこでも君を見かければ、それが二人であれ三人であれ四人であれ、キスをする。駄目か? 俺は君にキスすることも許されないのか?」
「それは……」
困惑する私に、先生はどんどん迫ってくる。後ずさりする私。ついに、壁際まで追い詰められる。
とん。
先生が、壁に手をつく。私に迫る。先生と壁の間に挟まれた。先生の胸板が目の前にある。先生の息遣いまで聞こえる。こんな状況じゃなければ……私は大喜びで、先生の胸に飛び込んでいただろう。けど、今は。この状況は……。
「ごめんなさ……」
そう言おうとした私の顔に、先生の顔が近づく。呼吸。息遣い。強い目線。私の全てを見透かすような、心が丸裸にされるような、目。
「俺は今、アリスを見つけた」
その言葉が意味することに気づいた時は、もう遅かった。先生がすっと、頭の位置を低くする。私に近づく。
あっ。
キスされる。そう思った。
「駄目……」
私はつぶやいた。
場所は心理学部棟の前、心理学部の人みんなが見ている。私はビラを配っていた。かなり人目につく形で。つまり、今の状況はみんなが見ている。こんなところでキスをしたら、こんな状況でキスされたら……。
それに、今の私は。
今の私は私じゃない。アリスだ。成実と区別がつかなくなったアリス。私じゃない。先生がキスしようとしているのはアリスな私で、私じゃない。そう思って顎を引いた。キスを拒む意味で。視線を下に向ける。
「アリスな私にキスをしないで」
そう、告げる。しかし先生の手が、真っ直ぐ私の顎に伸びてきた。ぐいっと、顔を持ち上げられる。目と目。不思議と、視線が絡んだ。
「駄目だ」低い声が、私の耳に、脳に、響く。「する」
あっ。
そう思った時には、唇に柔らかい感触があった。先生の呼吸が止まった。先生の唇が触れていた。先生が全てを私に捧げてくれていた。先生の優しいキスだった。
視界が先生でいっぱいだ。思わず私は目を瞑った。夢中で、先生の唇を味わう。遠くの方で……いや、ほとんど近くで……女の子たちのきゃああああ、という黄色い声が聞こえていた。それは、多分、自分の推しが奪われたという、悲鳴に近いものだったと思う。
「来い。話がある」
頭が、ぼうっとする中。
先生に手を引かれて心理学部棟に入っていった。
もう、どうにでもして。
そんなことを私は思っていた。
心理学部棟、二〇三号室。
丸椅子の上に私は座っていた。
どうなるのだろう。
悪戯とはいえ、こんなことをした私は先生から罰せられるのだろうか。
でもさっき、キスしてもらえたしな。
正直私は混乱していた。やらかしてしまったことと、さっきの公衆の面前でのキスとが綺麗に私の脳髄を麻痺させていて、今なら多分頭蓋骨を開いて解剖されても気づかないんじゃないかという状態だった。
「さて、話、だが」
先生がコーヒーを淹れてくれる。マグカップが置かれる。私はそれを手に取る。温かい。いい香り。インスタントじゃない、挽いた豆に九〇度のお湯を注いだコーヒー。
その温かさを感じている私に、先生は告げた。
「今月末か来月の頭にでも……俺は君の家に行く」
「はい」
何だろう。家族に文句でも言われるのだろうか。お宅の娘さんは心理学を悪用しました、とか。はは。そんな訳ないか……。混乱する私に先生は続けた。
「ご両親に挨拶に行く。君をもらう許可を得る」
えっ。
言ってることが分からなくて、私はぽかんと先生の方を見た。先生は、そんな私の目を覗き込むようにして口を開いた。
「俺と暮らそう」
「……は?」
多分、二度目だろう。
今日先生に「は?」と言うのは。
しかし先生は真っ直ぐ私のことを見つめながら続けた。
「俺と暮らそう。同棲しよう」
「どどどどどっどっどどどどっどど」
「落ち着け」
「ど、同棲?」
「そう」
「それってあの、その、一緒に暮らすとかいう……」
「そう言ってるだろ」
「ご両親に挨拶って、私の……?」
「俺の両親に挨拶しに来るか?」
「そ、それは、行く行くは……」
すると先生は優しく笑った。
「俺の両親は、俺がどんな女性と同棲しようと、何なら男と同棲しようと文句は言わない。放任主義だからな。でも、君の家はそうもいかないだろう。大事な娘さんだしな。だから、挨拶に行く」
「えっ、でもっ、それって、それって……」
先生は再びにっこり笑った。
「どう解釈するかは君に任せるよ。ただ、挨拶に行く。それはもう、前々から思っていた。だから日程調整してくれ。俺は基本的にそちらに合わせる。俺からうかがう訳だしな。俺のことは、ご家族には……?」
「は、母には話しました」
「じゃあ、お父さんにも話しておいてくれ」
ひゃい……。そんな、変な声が出る。
「……本当は、もっと早く言うつもりだった。ごめんな」
先生が、急に近づいてきて私の頬に触れる。指先で、優しく、撫ぜてくれる。
「君、家から大学まで一時間かかるんだってな。しかも自分の研究の他に心理学も学んでくれている。そのために睡眠時間を削っているんだろう。このところ、体調が悪そうだったな」
う……。思わず泣きそうになる。気づいてくれていたんだ……見ていてくれたんだ……。
「俺の家に住めば、大学まで五分で行ける。朝の時間も、夜の時間もたっぷりとれる。何なら昼飯を食いに家に戻ったっていい。それに俺は、君とずっと一緒にいることができる。お互いにとっていいことづくめだと思わないか?」
「思う……思います!」
「じゃあ、決まりだな」
先生の笑顔。眩しい。でもずっと見ていたい。
「日程調整、頼むぞ」
「はい!」
「……後、言い忘れていたことが一つ」
「はい?」
先生は私の目を見て言ってくれた。
「大好きだ」
「うう……」
こんないい彼氏を、こんないい先生を試そうとしていた自分が情けなかった。恥ずかしかった。でも先生の目は、そんなことがどうでもよくなるくらいに真っ直ぐだった。私は先生に抱きついた。
「先生、大好きっ!」
*
さて。
そんなことがあったのが一〇月の終わり。
心理学部の女子の間では、「名木橋がキスをしていたあのアリスは誰だ?」という問題が取りざたされていたらしい。
しかし大学の演劇サークル全体で『不思議の国のアリス』に関連する劇をやっていた関係で、学内に「アリス」が溢れていたこと、そしてその「アリス」の中には何人か心理学部の関係者もおり、「私が名木橋にキスをされた女だ」と自慢げに嘘を語る女まで出てきたことで事態は混乱の様相を呈し、結果、私にまで辿りつける人間は一人もいない、ということに落ち着いた。
つまり、私は女子からの嫌がらせにあうことなく、無事に大学生活を送ることができた、という訳だ。
さてさて、私が名木橋先生の部屋に引っ越してから一か月経った、一二月。
寒くなってきた。でも、今までと違って寒い夜は過ごさなくていい。暖房や毛布に依存する夜は過ごさなくていい。だって、すごく温かい人が傍にいるのだから。
朝。ゆっくりと目覚める。
隣を見る。先生がいない。
髪を撫でながらテーブルの方に行く。エプロンを着た先生が、トーストにコーヒーを並べてくれている最中だった。
先生の頭には、寝ぐせ。でもそんな、少し抜けている姿さえ愛しかった。
先生が、私に微笑みかけた。
「おはよう」
了
アリスな私にキスをしないで 飯田太朗 @taroIda
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