第3話 アリスと、混乱。

「『不思議の国のアリス』企画! 当サークル『レインツリー』もアリスに関連した劇をします! ぜひどうぞ!」


 学祭が近づくと、各サークルも出し物の宣伝を激化させる。「レインツリー」も同様。成実と私がアリスの格好をしてビラを配る。


「よろしくお願いしまーす」

「わあ、アリスちゃんだ。かわいいー」

 写真、いいですか? そう訊かれ、いいですよ、と応じる。ハイ、チーズ。にっこり。


 アリス。

 金髪ロングのウィッグ。外国人に見えるようなメイク……具体的には、堀が深く見えるよう陰影をハッキリさせ、目と眉の距離を縮める……白いファンデーションに薄っすらピンクのチーク。薄いブルーの衣装に白の前掛け。ブルーのカラーコンタクト。これでバッチリ。


 成実も当然同じメイク。美術斑の人に頼んで実際にメイクをしてもらうと、私と成実はとてもそっくりに仕上がった。パッと見は区別がつかない……というか、完全にドッペルゲンガー……くらい。


 私にはある計画があった。


 成実と私は、今、顔の区別がつかなくなっている。

 それはまず、アリス顔実験で示される。


 成実が言った通り、すっぴんの私と成実の顔はよく似通っていたのだ。

 それは、「顔の中でのパーツの位置が似ている」という意味で。


 普段はメイクが違う。髪型も違う。だから、違う顔だと弁別できる。だが、髪型を統制し……私も成実もアップにしてまとめた……化粧を外すと、私と成実の顔の印象はとてもよく似ていた。二人並んで確認してみたが、兵田先生が言っていた通り「顔の中でのパーツの位置が似ている」のである。


 そこに来て、アリスメイクだ。


 髪型は「金髪ロング」。外国人風メイク「くっきりした陰影、目と眉の距離が近い、白い肌、薄っすら染まった頬、青い瞳」。そして同じ服「薄いブルーのワンピースに白い前掛け」。偶然にも、身長も同じくらいだった。


 私と成実の相違点と言えばスタイルくらいだ。私の方が太い……正確には太って見えるだけだからね。言っとくけどそんなに悪くないんだから……。でも、コルセットで矯正してしまえばその差も分かりにくくなった。少し窮屈だけど、目的のためなら仕方ない。


 成実には事前に協力を依頼していた。私が「レインツリー」に協力するから、成実も私に協力する。そういう関係。


「『レインツリー』企画、『アリスのドッペルゲンガー』、よろしくお願いしまーす」


 ビラを配り続ける。私の計画が上手くいき始めたのは、その日の午後のことだった。


〈劇、観に行くよ〉


 名木橋先生からのメッセージだ。ちょっと照れ臭かったけど、私を見てもらえるのは嬉しい。そこで、こんな返信を打つ。


〈心理学部棟の近くでビラ配ってます。よかったら、見に来てください!〉


 さて、これで名木橋先生は心理学部棟の近くにいるアリスに接触したはずである。


 私は文学部棟の近くでビラを配っている。午後三時。名木橋先生が来る。


 彼が文学部棟に来ることは前以て知っていた。私が名木橋先生に近づくために心理学部棟に通うのと同様に、名木橋先生も私のことを知るために近代文学についての講義を……私の師の、椎名先生の講義を……聞きに来るのである。


「あれ……? 君、今、心理学部棟の方に……?」


 文学部棟の前でビラを配っているアリスこと、私。

 そんな私に、近代文学の講義を聞きに来た名木橋先生が声をかけてくる。


「はい?」すっとぼける。本当は、先生の前で何が起きているのか、よく知っている。


「君さっき、心理学部棟の前で私と会わなかったか?」


 先生は、公の場では「私」という一人称を使う。私と二人きりの時は「俺」。私は、「俺」と言っている先生が好き。


「さぁ?」二度目のすっとぼけ。先生は困惑した顔を見せる。

「いや、さっき間違いなく心理学部棟の前で『不思議の国のアリス』の格好をした君に……」

「私はずっとこの文学部棟の前にいましたよ」


 ねぇ。とさっき一緒に写真を撮った女の子たちに訊く。多分、学内でも有名なイケメンの名木橋先生に会えたことで興奮しているのだろう。彼女たちもうんうんと頷いてくれた。ちょっとだけど、ムカつく。


「どういうことだ?」混乱している様子の名木橋先生。

「さっき心理学部棟の前にいただろう?」

「いたかもしれませんね」

「でも今、ここにいる」

「そうですね」

「君が二人存在しないとそんなことはあり得ない」


 文学部棟から心理学部棟までは距離にして一キロもないくらい。歩いて移動したら一〇分はかかる。その距離を一瞬で移動したように見えるのだから……だって、心理学部棟で挨拶した人間が次の瞬間文学部棟の前にいたらそう思うでしょ……びっくりはするだろう。


「先回りか? どこかに近道が……」

「ありませんよ」私はにっこり続ける。「心理学部棟から文学部棟への近道は、先生が一番よく知ってるでしょ」


 先生はいつも、私に会うために最短経路で文学部棟に来てくれる。そのことは、よく知っている。


「何が起きた?」

 混乱している様子の名木橋先生。ふふふ。そういう先生も、好き。

「先生、私のことが好きすぎて別人を見間違えたんじゃないですか?」


 これ。

 これが、言いたかった。

 先生は、先生が気づいていないくらい私のことが好きなんですよ。そういう、暗示をかけたかった。


「もう、先生ったら」

「いや、君のことは好きだ。好きなんだが……」

 ええーっ、とその場にいた女子が息を呑む。あちゃ。私たちのこと、バレちゃったかな。でも、文学部の人間なら大丈夫。他所の学部の先生だしね。


「幻を見るくらい私のこと、思ってくれてたんですか?」

「どういうことだ……? どういうことだ……? 私は確かに心理学部棟の前で君を見た。その直後……私よりも早く……文学部棟に到着することは物理的には不可能だ」

「だーかーら」私はちょっと、シナを作る。


「先生は、私のことが大好きなんです。だから、幻を見たんです」

「好きだよ。確かに好きだ。だが、幻覚なんて見ない。私は正常な……はずだ。確かに、多少疲れてはいるが……」

「疲れた時に私を求めてくれるなんて嬉しいです」

 私は先生の腕をとる。

「学祭、一緒に回りませんか?」


「回る。回るが、今の現象に納得が……」

「納得なんて、必要ですか?」私は先生の目を覗き込む。困っている目。戸惑っている目。そんな目も、顔も、姿も、愛しい。「私が好きで、好きすぎて、私を見た。それじゃ駄目ですか?」


「とにかく今は、時間がない」

 名木橋先生は腕時計を見る。タグホイヤー。いい時計。そういうセンスもかっこよくて、好き。

「後で連絡する。ビラ配り、頑張れよ……」

「はぁい」


 ふらふらとその場を立ち去る先生。ドッペルゲンガー作戦、大成功。

 成実に連絡する。


〈ありがとうね。上手くいったみたい〉

 成実が返してくる。

〈先輩の彼氏、イケメンですね〉

 私はにっこり返す。

〈でしょ〉


 話は簡単である。


 アリスメイクをすると私と成実は区別がつかなくなるのだ。それは、「元の顔のパーツの位置が似ている」というアリス顔実験の意味でもそうだし、「外国人の顔をすることで区別がつきにくくなる」という人種効果の意味でもそう。


 つまり、こういうことだ。


 私と成実は顔が似ている。それは、「アリス顔実験」で示された。私と成実は顔の各パーツで見れば微妙に異なるが、顔の中でのパーツの位置が似ている。だからパッと見は似ている。そこに「人種効果」を掛け合わせる。外国人の顔は区別がつきにくくなるのだ。洋画とかで「あれ、この登場人物誰だっけ?」となりやすいのはその「人種効果」のせい。


 これで、私=成実の等式が完成する。


 後は簡単。成実に「私のフリをして」名木橋先生に接してもらう。声も一応似ているので心配はしなかったが、話しかけられたら声真似をしてもらうことにし、基本的には「遠くから笑顔で手を振る」程度にするよう指示を出しておいた。元より成実は演劇サークルで主役を張れるくらいの演技派だ。高校時代から仲良しの私の真似をすることくらい容易い。


 多分、心理学部棟の前で会ったアリスは名木橋先生に笑顔で手を振る程度のことしかしなかったはず。名木橋先生もそれを見て「私」が心理学部棟の前にいる風に錯覚したはずだ。その直後に、文学部棟の前にいる本物の「私」に会う。結果、異なる二地点に「私」が同時に存在しているかのような錯誤が起きる。


「私のことが好きすぎて、私を見たんですね、先生」


 それが言いたいだけだった。名木橋先生に私のことを見てもらいたかった。このところずっと、名木橋先生に見てもらえていなかったような気がしていた私の承認欲求は……これで、一応は満たされた。先生は私が好きで私を見た。私のことが大好きなんだ。私は先生に愛してもらえている。


 ため息。しかしそれはこの間認知心理学の講義で出ていたものとは違う。それはまるで、そう、先生に抱き締めてもらっている時のような、安堵と、愛と、恋と、官能の、ため息。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る