第2話 二つの、顔。

「アリス顔実験というのは……」

 心理学部棟。一〇九号室。講堂。


 認知心理学の講義だ。私は、専門の国文学の講義の合間を縫って心理学部の講義にも潜り込んでいる。少しでも、名木橋先生に近づきたいから。少しでも、先生の見ている世界を覗きたいから。


 ペンを持ちながらため息が出る。この間は何であんなこと言っちゃったんだろう。せっかくのデートだったのに。せっかく先生と一緒に時間を過ごせる機会だったのに。


 ノートの片隅に、「名木橋明」と書いてみる。意味は特にない。何なら痛い女。重い女。慌てて消しゴムで消す。誰かに見られたら大変だし。ため息。先生、私のこと嫌いになっちゃったかなぁ。


 ふわ、と欠伸。

 専攻の勉強をしながらよその学問もやるなんていうことはかなりのバイタリティが必要である。だって、他の人が休憩や学問のさらなる探求にあてられる時間を、全く関係のない学問に使っているのだから。


 当然のことのように、私は睡眠時間を削っている。家から大学まで一時間かかる。大学の開門は八時。だから七時に家を出る。そのためには六時に起きなければいけない。これでもギリギリまで寝ている方。


 八時ジャストに大学に着いて、研究室でパソコンを開いて……これは自前のノートパソコン。重たい……簡単に作業をする。メールのチェックとか、読みかけの論文の確認とかね。それから講義に出て、ノートをとったり研究をしたりして、ゼミの学部生の面倒を見て、で、ここまでで大体一七時くらい。


 そこから、夕方の空き時間を使って心理学部棟に潜り込み、講義を聞く。こっちは義務じゃないので適当にメモを取ったりふむふむと話を聞いているだけ。で、それが一八時頃まで。


 一八時半から文学部棟の研究図書室で室員のアルバイト。時給は三〇〇〇円と結構いい。二一時頃まで。


 二二時、帰宅。夕食はだいたい大学でとっている。家に帰ると真っ直ぐお風呂に入って、お茶を一服してから寝る。早くて二三時半。でも研究課題や調べものなんかをすることが多いので、平日は翌一時頃に寝ることが多い。


 つまり、睡眠時間は五時間がデフォルト。このところ少し体調が悪い。化粧ノリも悪い。せっかく先生と付き合えるようになったのに、先生にふさわしい女性になれていない気がして、凹む。でも学問はしないといけない。


 ため息。私みたいな女の子より先生にふさわしい人なんていっぱいいるよな。私なんか、私なんか……。


 でも、もっと先生に見てほしい。


 あのまなざし。あの深い目。見つめられるだけで幸せになれる。もういい。私と付き合ってくれなくても、存在してくれるだけで、たまに私の方を見てくれるだけでいい。


 ただ……。


 このところ先生に見てもらえていない気がする。いや、付き合っている以上は見てもらえているのだろうけど、先生には色々なところから誘惑が来る。私よりかわいい女の子に声をかけてもらえる。私より綺麗な女性に気にかけてもらえる。私より素敵な人に優しくしてもらえる。


 私が、名木橋先生だったら。


 目移りしちゃうかもな。だって色んなタイプのイケメンから声がかかるんでしょ? 絶対浮気はしなけどさ、嬉しくはなるじゃん。気持ちは浮かれるじゃん。


 そんなことを考えて、私は気持ちが萎む。先生に、私以外の女の子に、浮かれた気持ちになってほしくない。


 何度目かのため息をつく私。目の前で講義は進む。


「アリス顔実験について。並んだ二つの顔が『似ている』とは何を以て判定されるか? そこの君、どう思う?」

「私?」

 いきなり先生に指名されてびっくりする私。慌てて答える。


「か、顔の各パーツが似通っている、とか?」

 私、心理学部生じゃないんですけど。まぁ、いいか。好きでこの講義聞きに来ているわけだし。


 認知心理学の教員、兵田先生は首を横に振る。

「そう思うだろう? 顔のパーツが似ている二つの顔、例えば同一の目を持った二つの顔は目だけで見ればよく似て見えるはず、と普通の人は思う」


 なるほど。そう言うってことは違うんだな。一気に深みを増した講義の内容に、私は一旦心配事を忘れて前のめりになる。

 兵田先生はスライドを展開する。


「この図を見て欲しい。A群は『顔のパーツは同じだが、顔の中でのパーツの位置が異なる』群。B群は『顔のパーツは異なるが、顔の中でのパーツの位置が同じ』群。A群とB群、どちらの顔が『似ている』ように見える?」


 Bだ。直感的にそう思った。「顔のパーツは異なるが、顔の中のパーツの位置が同じ」群の方が似ている顔に見える。A群はどれも全然違う顔に見える。


 不思議だった。A群の方が「顔の質」という意味では似通っているはずなのに。すると兵田先生が続けた。


「人間は顔を『全体認知』する。つまり、細部の近似さはどうでもいい。『全体のバランスが似ているか?』で『似ている、似ていない』を判別する」

「はい」

 一人の学生が手を挙げた。


「『人種効果』ってありますよね。西洋人が東洋人、東洋人が西洋人の顔の識別がうまくいかないっていう現象。あれは、顔の全体認知がうまくいってないから起こる現象なんですか?」


「いい質問だ」兵田先生。「まず言えるのは、異国人の顔は同国の人の顔に比べて顔のサンプルデータが少ない。だから、広い括りとして『異国の顔』があるので弁別しにくくなる、というのが挙げられる。細分化されていない顔なんだね。自分はくっきり分かるが他人は広い定義で分かりにくい。そんなところにも繋がると思う」


 すごいなぁ。心理学って。人間についてこんなことまで分かっているんだ。ノートにメモを取りながら感心する。アリス顔実験。人種効果。


 ふと、心理学の奥深さに名木橋先生との距離を重ねてしまって、切なくなる。私って、何でこうなのだろう。

 ため息。私ってやっぱり、駄目な女なのかな。



「先輩」

 ある日の昼過ぎ。学内のベンチで論文片手にサンドイッチで昼食をとっていると、ある女の子に声をかけてもらった。大宮成実。私と同じ高校出身の女の子だ。


 学年は二つ下。私が高三の時の高一。別に部活が一緒だった訳でも、帰り道が一緒だった訳でもないのに仲良くなった。確か、図書室で勉強している時によく隣に座ったのがきっかけだったと思う。ショートカットがよく似合うスポーティな女の子だ。


 私の記憶の限りでは、地理の問題集に悩んでいるところに私から声をかけた。そこの問題の解き方はこうですよ、と。随分悩んでいたようで、彼女は畏まって私に「ありがとうございますっ」と返してきた。翌日。お礼に、とお菓子をもらった。それから、ちょくちょく話すようになり、高校の卒業式の日は泣きそうな私に寄り添ってくれる仲になった、という訳である。


 私を追いかけてこの大学に入ったのか、というくらいで、入学式の日にいきなり私に連絡を寄越してきた。〈先輩と同じ大学になりました!〉。びっくりしたが嬉しかった。それからずっと高校時代と変わらず親しくしている。彼女の成人式の後に二人でお酒を飲んだりもした。


「やっほー」

 ぼんやりとそう応じた私の隣に、成実は座る。

「もうすぐ学祭ですね!」

 一〇月。学祭は一一月の頭だ。

「そうだねぇ」


 今年は先生と一緒に回りたいな。そんなことを思う。去年は卒論に忙しくて回れなかったから。


「実はですね……」と、成実が畏まる。私はサンドイッチと論文を持ったまま彼女の方を向く。

「先輩に、お願いがありまして……」

 もじもじする彼女。私は知っている。彼女がこういう風にお尻を動かす時は、大抵かなりの無茶ぶりをされるということを。



「私が、アリス?」

 素っ頓狂な声を上げる。場所はサークル棟。色々なサークルが活動拠点となる部屋を割り当ててもらっている棟だ。

 その中の、サークル「レインツリー」の借りている一室。「レインツリー」は学内に数ある演劇サークルの内の一つだ。


「今度の学祭、大学内の演劇サークル全体で『不思議の国のアリス』をテーマに劇をやろうという企画がありまして」

 成実がチラシを見せてくる。「不思議の国のアリスの不思議な世界」まどろっこしい企画タイトル。


「うちのサークルは『アリスのドッペルゲンガー』というタイトルの劇をやることが決まっています。タイトルから分かるかもしれませんが……」

「全然分かんない」

「えへ。タイトルの通り、アリスちゃんのドッペルゲンガーが出る話なんです。ドッペルゲンガーはご存知ですか?」


「一応。芥川龍之介が見たことで有名だよね」

 別名、自己像幻視。自分の姿を自分で見る、という幻覚。


「なら話は早いです! アリスちゃんのドッペルゲンガー役の子が急にサークルを辞めちゃいまして」

「はぁ」話が見えてきた。

「先輩、アリスのドッペルゲンガーやってください!」

 やっぱり。

「無理」即答。「私演技なんてやったことないもん」


「仕事は簡単なんです」もうやる前提で話始める成実。

「私が、アリス役です。先輩は私と同じ格好、同じ仕草を舞台の上で息を合わせてやってもらうだけでいいんです。セリフ一切なし」


「息合わせるんでしょ? 難しくない?」

「先輩と私ならできます。多分、前任者より息が合う」

「私と成実とじゃ似てないよ」


 成実は細身でスタイリッシュな感じ。私は……察しろ。実際はそんなに太ってる訳じゃないけど、胸のせいで太って見えるんだよ。


 しかし成実はひるまない。

「メイクと服装で何とかなります。そこはうちの美術斑を信用してください。それに……」

 私と先輩、似てると思いますよ? 

 そう続ける成実に私は問う。


「どこが?」

「まぁ、確かにメイクの系統が違うので、今鏡の前に並んでも違う顔にしか見えないでしょうけど……」

 でも、高校時代って私たちすっぴんだったじゃないですか。成実はそう続ける。


「いつだったか、女子トイレで二人並んだ時、先輩髪をアップにしてたんですよ。私の髪型に近い髪型になっていた。その時、あ、似てるな、って思ったんです。だから、素の顔は似ているというか、髪型さえ何とかすれば区別つかなくなると思うんですよね」


「そんな話が……」

 と、思った時、先日の認知心理学の講義を思い出した。


 悪魔的なひらめきが下りてきたのはその時だった。私は思わずつぶやいた。


「……いいよ。アリスのドッペルゲンガー、やってあげる」

 成実が手を合わせる。

「本当ですか!」


「ただし」

 私は指を一本立てる。

「条件がある」

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