アリスな私にキスをしないで
飯田太朗
第1話 デート、なのに。
学内。
今日の私は、濃紺のワークキャップに赤いトレーナー。帽子と同じく濃紺のオーバーオールという出で立ち。帆布で作られたというベージュのバッグを肩にかけている。斜めにかけると胸が強調されるので、片側の肩に。ぶらりと。
手首の腕時計を、ちらりと見る。
遅いなぁ。講義、長引いているのかな。
私が待っている人。名前は名木橋明。
私はこの大学の院生だ。文学部国文学科。専門は近代文学におけるミステリー小説。特に江戸川乱歩について。今日も講義の受講と研究とを済ませてここ……大学内のスターバックスの前……にいる。バッグの中には資料と論文。再び腕時計を見て、ため息をつく。
遅いなぁ。
私と彼……名木橋明……とは、今年の四月から付き合うことになった。今月で付き合い始めて半年くらいかな。告白は、私の方から。
デート自体は何回かしていた。最初は、彼のいる心理学部棟で。学部卒業直前の三月。卒業式までは春休みだ。暇な時間を利用して私は心理学部棟に通い詰めた。国文学専攻のくせして。彼は……いつもは、「先生」と呼んでいる……研究室に来る私を歓迎してくれた。
「コーヒー、飲むか」
先生の淹れるコーヒーはとても美味しい。ペーパーフィルター用に挽いた豆を使って淹れている。先生はミルクを入れて飲むけど、私はブラック。先生が淹れてくれたコーヒーを、他のもので割るなんて嫌だから。
「あの」
三月半ば。暖かい日だった。春風が吹き込む先生の研究室で、私は思い切って提案してみた。
「横浜の赤レンガ倉庫、行きませんか?」
「ああ」
先生は、ちょっと仕事のメールを、とパソコンに向き合っているところだった。多分、そんなタイミングじゃないと碌に提案できなかったと思う。先生は、すごく真っ直ぐな目で私を見つめてくるから。
「行こう。来週の土曜はどうだ?」
心臓の鼓動が強くなる。やった。私、名木橋先生をデートに誘った。しかも先生の方から具体的な日にちまで……。嬉しくて、飛び上がりそうだった。
「土曜日で、お願いしますっ!」
もう、その日は一日中ハッピー。母からも訊かれた。
「何かあった?」
「ナイショ」
土曜日が来るのが待ち遠しかった。カレンダーを見ながら、毎日毎日、微笑んでいた……らしい。弟が言うには。
しかし、当日はすごく緊張した。
メイク、変じゃないかな。服装、これでよかったかな。先生はかっこいいから、不釣り合いじゃないかな。色々なことを心配した。
けれど、先生が桜木町の駅で私に言ってくれた一言で、全てが吹き飛んだ。
「かわいいな」
かわいいな……? かわいいな、ですって? その一言だけで脳みそが沸騰しそうだった。私がもじもじしていると、先生が私の手を取った。
「行くか」
えっ。私は驚く。まだ付き合ってもないのに……。すると、そんな私の動揺を感じ取ったのだろうか、先生がこちらを振り返った。
「はぐれると困るからな」
ふと周りを見る。休日だからだろう。人が多い。
「ちゃんと握っとけ。ついて来いよ」
「はい……!」
先生と、触れ合えてる。手を握っている。
もうくらくらしていた。半分、目眩だ。先生に手を握られたから起きた現象だが、先生に手を握られていないと立てないくらいだった。
集合は一四時。遅めのお昼を食べて、赤レンガ倉庫で買い物。それから、みなとみらいの方へ歩いていって、港でのんびりして、ディナー。そんなコースだった。
「この帽子、似合うぞ」
先生が赤レンガ倉庫の帽子屋さんで私に差し出してくれたのが、今日私がかぶっているワークキャップだ。
「本当ですか」
「買ってやる」
「え、そんな」
悪い気がした。反面、嬉しい。先生からのプレゼントだ。
先生がレジで会計を済ませている間、私は買ってもらった帽子を眺めた。
似合う……似合うのかな。帽子なんてほとんどかぶったことがないから分からない。でも、先生が言うのなら……。
「ほら、似合う」
先生が帽子をかぶせてくれる。私は帽子のつばで顔を隠した。きっとトマトみたいに真っ赤になっているだろうから。
そんなことがあってから、私はこのワークキャップをよくかぶるようになった。必然ファッションもそっちに寄せる。イギリスの下町レトロな工夫風スタイル。ちょっとボーイッシュ。そんな格好だ。
「先生、付き合ってくださいっ!」
四月。大学院の入学式も終わって、すぐの頃。三回目のデート。場所は高幡不動。先生行きつけのカフェ、あんず村という場所に行った帰り、交番の前で私は先生に告げた。別れが近づいて名残惜しくて。先生の背中を引っ張って止めて。振り向いた先生の目を、しっかり見つめて。
すると先生は笑った。
「ごめんな。先に言わせて」
頭を撫でられる。
「俺も君と付き合いたかった」
大好きだ。そうも告げられる。
胸の奥が熱いものでいっぱいになった。泣きそうになる。私が何とか感情を噛み殺していると、先生が私を抱きしめた。いつかのように。
「これは、新愛の……新愛だけのハグじゃない」
先生の低くて優しい声が、耳元で響く。厚い胸板が目の前にある。先生の、甘い匂い。それだけで腰が抜けそうになる。
「愛してる、という意味のハグだ」
「はい……」
「俺と付き合ってくれ」
「はい……!」
それから、私たちは恋人同士。本当に本当に、幸せだった。
……はずだった。
スタバの前。遠くに先生が見えた。私はひょいと背伸びをする。先生の視界に入りたくて。先生に見てもらいたくて。
先生が私に気づいた。笑顔を向けて、真っ直ぐこっちに来てくれる。その時だった。
「あのっ、名木橋先生っ!」
一人の女子学生が、いきなり先生に声を掛けた。
「よかったら、連絡くださいっ!」
紙切れを先生の手に押し付ける。
「ま、待ってますっ!」
気持ちが一気に、萎んでいく。空気の抜けた、風船みたいに。
まただ。これでもう六回目くらいだ。私が名木橋先生が逆ナンされる場面を見るのは。
最初は、付き合ってまだ二カ月くらいの時だった。
確か、雨が降っていた。天気のせいか、ちょっとだけ憂鬱な気分だった。お気に入りの傘を以てしても気分が上がらない。そんな日だった。
大学に向かう途中の駅で先生を見かけた。思わず近づきたくなる。声をかけたくなる。歩を速めた、その時だった。
「すみません!」
私より先に、女子高生三人組が先生に声を掛けた。三人組の内の一人が、よたよたと前に出る。
「前から電車で見かけて……気になっていました。よかったら、連絡ください!」
え……。
あまりのことに思考が止まる。先生、女の子に声を掛けられている。そりゃ、先生はかっこいいし、モテそうだけど……ここまでとは、正直思わなかった。
メモ帳の切れ端だろう。ピンク色の紙を先生の手に押し付ける女子高生。そのまま、走るようにしてその場を去る。残された先生。それから、私。
近づくのはやめた。どんな顔をして会えばいいか分からなかった。その時から、ずっと私の胸の中に不安が巣食っている。
先生が、もし、他の女の子に取られたら。
そんな心配ばかりしている。
杞憂だと思いたい。先生が私を裏切ることはないと思いたい。でも実際、先生には女の子が寄ってくる。中には明らかに私よりかわいい子も……。
男の人は、一度に何人も愛せる。
そんな話を聞いたことがある。もし、先生が私以外の女の子にあのまなざしを向けていたら。そんなことを考えるだけで、私は叫びそうになった。
そして、今日。六回目の逆ナンを目撃した後。
萎んだ私。先生はそんな私の元へ、真っ直ぐに歩いてくる。
「待たせたな」そう、遅刻を詫びる。「講義の後に質問に来る学生がいて」
「……女の子ですよね」
「さぁ? どうだったかな」
先生の講義は女子学生から人気があると聞いた。十中八九、先生に質問をしに行ったのは女子学生だろう。
胸の中の不安が大きくなる。駄目だ。吐きそう。
「ごめんなさい」
私は俯く。
「体調、悪くなっちゃって」
えっ、と先生の表情が強張る。それから、心配してくれるような目になる。優しい目。私を思いやる目。
「大丈夫か」先生が私の背中に手をやる。「家まで送る」
「平気です」
先生の家と私の家とは相当な距離がある。送らせたら、先生が大変なことになる。
「帰ります。ごめんなさい」
足早に先生の元から去る。涙が、零れた。
何でだろう。何で先生にもっと甘えられないんだろう。デート、なのに。
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