チョコレートはゴミ箱へ④
本日最後の授業が終わった。ホームルームまでのわずかな時間にどこかに行けるはずもなく僕は目の前の頭を見つめていた。綺麗なカーブを描いた後頭部が細く白い首に繋がっている。首筋は肩まで伸びた黒髪で見えないが、指先でそっとかき分ければ傷跡が見えるに違いない。
そんなことをぼんやりと考えていると修善寺が振り返ってきた。自然と僕と彼女の目があった。修善寺は少し驚いた顔をしたが照れくさそうに微笑んで「なに? そんなに見つめて」と頬を赤くした。その様子はとても自然であり、自らを傷つけた者への表情とは思えない。
今の彼女はどこまでも普通に可愛らしい女の子だった。
昔の傷跡を探していたとも言えずに僕は「ぼーとしていた」と心にもないことを言った。
「三木君でもぼーとすることあるんだね。しっかりしてるイメージあった」
しっかりなどしていない。していればあんなことをしないのだ。
「そういえば日直、お疲れ様。朝から灯油を運ぶの大変だったろ?」
「あれ見てたの?」
心底驚いたという顔をする修善寺に指で廊下の窓を指差す。
「ちょうど廊下を歩いてるときに下駄箱の前を歩いてるのが見えた」
「よく見てるよね。そういえば三木君の――」
修善寺が何を言いかけたとき担任が教室入ってきた。彼女は慌てて前に向き直る。髪がふわりと持ち上がりすこしだけケロイドになった傷跡が見えた。僕はやはり彼女の後ろの席は嫌だと思った。
担任からの伝達事項が終わると和彦がカバンを担いでやってきた。
「帰ろうぜ」
「チョコレートは貰えたの?」
「さぁな。チョコがあるかないかは下駄箱を開けるまで確定はしないさ」
「シュレディンガーの下駄箱か。匂いそうだな」
僕もカバンを掴むとすでに前の席の修善寺は教室から消えていた。和彦たちは僕が彼女からチョコレートをもらえるんじゃないかと考えていたようだが、現実はこんなものである。加害者と被害者の間にはそのような関係は生まれないのだ。
教室の出入り口に向かうと女子の叫び声がした。和彦と顔を見合わせて廊下を見れば一人の女子生徒を数名の女生徒が追いかけていた。彼女らは口々に裏切り者とかあの子の気持ちを知ってたくせにとか物騒な言葉が混じっている。
逃げている女子生徒は熊谷だった。彼女の手には紙袋がきつく握られておりどうやらチョコレートが入っているようだった。彼女は元陸上部だけあって追いかけてくる女子生徒よりも明らかに早かった。彼女は窓から下駄箱の様子をうかがいながら僕らの前を風のように走り抜けると一気に階段の方へと消えていった。
それを追いかける女子たちは待ちなさいとか叫んでいるが、それで止まってくれる人間というのは少ないに違いない。彼女たちが熊谷を捕まえるのには時間が掛かるに違いない。
「怖いねぇ」
「ああいうのを見せられたあと告白されてもイエスとはなかなか言えないぞ」
「まったくだよ。でも、あの形相で告白されたら断るのも勇気がいるよね」
「前門の虎に後門の狼か。どちらも知り合いになりたくないな」
そんなことを話していると一年生と思われる赤いリボンをした女生徒が柳に連れられてこちらにやってきた。柳は和彦を見つけると「書記がお前を探してた」と言った。
「旗市か。もしかしたらこれは下駄箱を開ける前に確定するんじゃないか」
和彦は旗市と呼ばれた女生徒が紙袋を持っていることに気づいてにやけた顔をした。
「ああ、会長。探しましたよ」
「どうした旗市。なにかあったか?」
少しカッコつけた声色で和彦が言うと旗市は露骨に嫌な顔をした。
「三月に行われる卒業式の準備の件です。昨日が会議だったというのに会長が来なかったので副会長が全部まとめました。これが資料です。いまから会議をしますので早く生徒会室まで来てください」
旗市は手にしていた紙袋を和彦に手渡すと「もうちょっとまともに仕事をしてください」と苦々しく言った。和彦の方は最初の勢いは消えてしまい今や風前の灯火になって夢遊病のように力ない声で頷いている。
「和彦。頼むよ。君の応援演説は僕がしたんだからもう少しまともにやってくれないと僕の信用問題にもなるんだからさ」
柳はうなだれた様子の和彦を旗市と挟み込むと会長室へと連行していった。
「京平、ごめん。和彦は連れて行くからね」
「柳。そいつは逃げ出すからよく見張っておけよ」
僕がアドバイスをすると柳が頷いて「この裏切り者ども」と和彦が悔しそうにわめいたが自業自得である。一人になった僕は朝の仕掛けが無駄になったことを少し残念に思ったが、さして趣味のいい遊びではなしすっぱりと諦めて下駄箱へ向かった。
下駄箱にたどり着くとちょうど購買部から女子が四人出てくるところだった。三人の女子は目を怒らせて一人の女子を取り囲んで何かを叫んでいる。それをみて僕は先ほど逃げていった熊谷が捕まったのだと理解した。
彼女たちは購買部の前から下駄箱の前に熊谷をこつきながら連れてくると暴言をぶつけた。かつてのスプリンターであっても多勢に無勢では高校のどん詰りにある購買部に追い込まれてしまうのだろう。
熊谷はそれをビクビクしながらうつむいて聞いている。あまりいい雰囲気とは言い難い。僕が正義感に溢れる人間だったのならそれを止めに出ていくのだろうが、いまの僕は平穏を愛し過去の罪から逃げ回るただの匹夫である。彼女を助けることなどとてもできないと、考えていたところ彼女たちが手にしている箱に目が止まった。
それは間違いなく僕が靴箱に入れておいたロシアンルーレットチョコレートである。
なぜそれがそこにあるのか? 僕がそんな疑問で弾けそうになっていると女生徒の一人が箱を開けた。
「こんなチョコを三ツ矢君に渡そうとしてたの? みすぼらし」
「これ美味しいの? あんまり美味しくなさそうなんだけど」
「そーだ、あたしたちで毒見してあげましょ? 三ツ矢君にまずいの渡せないものね」
そう言って女生徒が熊谷の脚を蹴る。熊谷は三人の女子の圧に耐えきれえずに「どうぞ」と答えたが、女子たちに見えない角度で少しだけ笑ったようにみえた。それを意地悪げに聞いた女生徒がガナッシュを取り出すとそれぞれの口に入れる。
「あっま! こんなの体に悪いんじゃない?」
「あっ全部なくなっちゃった。熊谷、もう渡せないね」
二人の女生徒がゲラゲラと品のない笑い声を上げる。だが、残されたひとりの女性は顔を真っ赤にして咳き込だした。その表情は苦悶というのに相応しく、あの箱の中身が間違いなく姉の作ったものだと示していた。急に「辛い辛い」と、苦しみだした友達に女生徒たちはどうしていいのかと慌てていると熊谷が、掴まれていた腕を振り払って逃げ出した。僕の前を通った彼女と一瞬だけ目があった。
彼女は驚いたあともう一度驚くと「ごめんなさい」と言って逃げていった。
熊谷を捕まえていた女生徒たちはなにか騒いでいたが彼女を追うことよりも苦しんでいる友達を保険室に連れていくことに決めたらしい。
「どうなってるの?」
聴き慣れた声に振り返ると修善寺が目を丸くして立っていた。僕はてっきり彼女が先に帰っていると思っていたので背後にいたことにひどく驚いた。
「多分、僕たちには関係ない恋の問題だと思うよ」
「関係ない……? 三木くんは気にならないの?」
修善寺はどこか僕を責めるような表情で訊ねる。確かに僕がこっそりと仕込んでいたロシアンチョコが使われたことは気になるが、首を突っ込むだけややこしいだけで関わりたくない。僕が乗り気ではない表情をしていたのが気に食わないのか修善寺はこちらに顔を近づけた。
「気になるもなにも。熊谷さんが追いかけられていたのは、彼女の友達が二組の三ツ矢に告白しようとしているのを知りつつ彼女も三ツ矢にチョコを渡そうとしていたのがバレたからだし。僕らが関わるようなことじゃないよ」
僕が今朝あった話をすると修善寺は何かを無理に納得させようと考えていたようであったが、やはり腑に落ちないらしく眉間にシワを寄せた。
「それはおかしいよ」
「どこが?」
「だって熊谷さんがあのチョコレートを三ツ矢くんに渡そうとしてたなら、どうしてあんな金田さんが苦しむようなチョコレートを用意したの? 告白しようとしてたのならおかしいよ」
確かに告白するのに殺人ロシアンチョコを使うような人間はいないだろう。だが、あれは僕の姉が作ったものだ恋する乙女が告白に使うようなものじゃない。
「熊谷さんの料理スキルが絶望的だったとか?」
「それならほかの二人のチョコレートだって悶絶しないとおかしいわ。でも金田さん以外の二人は甘すぎるとか言ってはいたけど普通だったもの。あれじゃまるでロシアンルーレットよ」
正解だ。僕は修善寺の鋭さに感心して黙っていた秘密を打ち明けた。
「……あれは間違いなくロシアンルーレットチョコレートで間違いない。僕が和彦と柳をひっかけようと用意したんだから」
しばらくの沈黙ののち修善寺はひどく機嫌のいい声を出した。
「三木くんが自分でチョコレートを用意したの?」
僕は黙って首を縦に振る。
「それで自分で下駄箱に入れていたの?」
さらに首を振る。修善寺は限界が来たのか腹を抱えて笑った。それは面白いだろう。かつて自分を殴りつけた人間がバレンタインに独り寂しくチョコレートを用意して、同じくモテない友人を引っ掛けようとしていたのだ。面白くないはずがない。ひとしきり笑って修善寺は目元を拭ってにまにまと微笑んだ。
「意外だなー。三木くんもそんなイタズラするんだね。もしかしてチョコレート欲しかったりするの?」
欲しくないかと言われれば欲しい。だが、すくなくとも修善寺からはもらいたくない。僕には普通に考えてもそれを貰う義理一つだってないのだ。
「人がモテないのをからかうなよ」
僕がふてくされて横を向くと修善寺がごめん、と謝ったがその様子がどうにも嬉しそうで腹が立った。
「そうかー三木くんのだったかー。でも、熊谷さんは三木くんが下駄箱にロシアンルーレットチョコを隠してるってよく知ってたよね。話したの?」
話すはずがない。僕は熊谷とは元クラスメートという間柄でこんな話をするような仲ではない。
「しない」
「なら、どうして熊谷さんはあれがロシアンルーレットチョコがあるって知ってたのかな?」
そう言って下駄箱を見渡す。一学年が三十人のクラスが八組。それが一年生から三年生まであるので七百二十名分の下駄箱を覗いていくというのはあまり効率がいいとは思えない。
「靴箱を適当にあけて見つけた……とは言えないよな」
「適当に見つけても、どうしてあれが当たり付きって分かったのかな?」
「それはたまたまじゃないのか?」
僕が言うと修善寺は、すねたように口を尖らせて僕の目を指さした。
「三木くんの目は節穴なのかな? 熊谷さんは明らかに笑ってたよね」
確かに熊谷は笑っていた。チョコレートを奪われ食べられようとしているにも関わらず彼女はひそかに笑ったのだ。それが明らかに相手に被害を与えることが分かっているかのように。
「……笑っていた。でも、僕がチョコレートを持ってきたのはたまたまで、この話は誰にもしていない。熊谷さんがチョコレートの正体を知る機会なんてないはずなんだ」
「でも、現実には熊谷さんは三木くんの靴箱にチョコレートがあることも。それが毒入りだってことも知ってて金田さんたちに奪わせてるよね」
「毒入りという点は置いといて、僕の靴箱にチョコを入っていることを知ることはできたかもしれない」
修善寺はどうやってとでも問いたそうな顔を向ける。
「まず、僕が登校して教室に入ったとき熊谷は教室にいた。つまり、熊谷さんの登校は僕より早かったはずなんだ。そこから考えれば可能性は二つだ。一つは熊谷さんが直接みていた場合だ。下駄箱は教室棟の廊下側からなら窓越しで見ることもできるし、下駄箱自体に身体を隠して僕を盗み見ることもできたかもしれない。
二つは、熊谷さんは見ていないが見た誰かから話を聞いた場合。前に説明したとおり入れるところを見ることは僕よりも早く登校した人間なら誰でも可能性がある。その中の誰かが熊谷さんに言ったのかもしれない。二年五組の三木は自分でチョコレートを靴箱に入れていた、と」
修善寺はその様子を想像しているのか少しのあいだ視線を右上の方をさ迷わせたあとはにかんだ。どうやら、その光景がよほど滑稽に思えたのだろう。
「でもそれだとチョコレートがあるってことしか分からないよね」
「そう。分からない。だから、熊谷さんはあれが毒入りだと知らなかったんじゃないかと僕は思うんだ」
「うそ。だとしたら彼女が笑う理由がない」
「いや、理由ならあるんだ。彼女の目的が金田さんたちに自分を追いかけさせて醜い争いをしていることを見せることだったら下駄箱前で捕まった時点で彼女は目的を達したとは思わない?」
そう。彼女の目的は三ツ矢に金田たちが熊谷に怒り狂い襲いかかる姿を見せ、告白を失敗させることだったなら彼女はあの場で笑えるのだ。ロクにモテない和彦でさえ「ああいうのを見せられたあと告白されてもイエスとはなかなか言えないぞ」と言っていた。僕だってそうだ。
「確かにそれなら――」
途中まで納得しかけていた修善寺が歯切れ悪く押し黙る。
「三木くん、私思うんだけど普通、女子は全力疾走してる姿を男子に見られたくないと思うの」
「えっ?」
「だからね。三木くんが言うように熊谷さんが三ツ矢くんに金田さんの醜い姿を見せたかったのなら下駄箱くる必要はないんじゃないかってこと。朝のうちに三木くんの下駄箱にチョコレートがあるなら途中の休み時間に回収すればいいじゃない。そうすれば必死の形相で走ってる姿を好きな人に見せないですむもの」
確かにそうだ。事前に回収しておけば教室の中で済んだはずなのだ。
告白相手がかぶってしまって取り巻きと一緒に襲ってくる女子たちに無理やりチョコレートを奪われるか弱い姿を見せたほうが男子としては庇護欲にかられるに違いない。そして、相手は大人数で一人をいじめるひどい奴に見えたはずなのだ。
だけど、熊谷は教室から全力で飛び出して行った。
おそらくその表情はあまり可愛いとは言い難く、恋する乙女が意中の相手に見せたい姿から大きくかけ離れていることだろう。
「そうなると熊谷さんにはどうしてもここまで来なければならない理由があったってこと?」
「そうだと思う。熊谷さんが走っている姿が一番綺麗とか自分で思っているような変わった人じゃないかぎりだけど。でも、私なら嫌よ」
いろいろと考えてきたことが振り出しに戻って僕はため息をついた。だが、隣にいる修善寺はなにか楽しそうで僕は彼女が何を考えているのか分からずさらにため息をついた。
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