チョコレートはゴミ箱へ③
二月十四日。静かで何かが起こりそうな朝だった。
いつもなら忙しく起こしに来るはずの姉の声はなく、物音ひとつしない我が家は別の世界に飛ばされたのかと思うほどであった。自室にある時計は六時半を指しており起きる時間を間違えたというわけではないらしいと僕は安心した。着替えを済ませてダイニングに出ていくと朝食とは別に机の上に小さな箱と手紙が置いてあった。
僕は手紙を開いた。
『あなたの愛する姉は今日から一泊二日の温泉旅行に出かけます。理由は北陸のカニと熱燗が私を呼んでいるからです。夕飯は冷蔵庫の中にスコッチエッグとシチューがあります。パンでもごはんでも好きな方にあわせて食べてください。
追伸。
恒例のバレンタインのチョコレートも用意してあります。今年はガナッシュです。姉からたっぷりの愛憎を込めて』
手紙には小さなイラストが添えてあり、ロシア帽をかぶった兵隊が三人並んでいて、そのうちのひとりだけが爆発していた。僕はなるほどと、ある確信をもってチョコレートが入った箱をカバンの中に投げ入れた。
朝食を簡単にすませた僕が家を出ると寒風が鋭く吹いていた。着ていたコート襟を立ててガレージを見ると姉のバイクが消えていた。確か新幹線みたいな名前のバイクだったが、この寒空を走っているのかと思うと姉のバイタリティの高さに感心せざるを得なかった。
高校生である僕は真面目に電車を乗り継ぎ高校へ向かう。最寄駅から四之山行きは都市部から郊外方面なので朝でも乗車率は高くない。人気のない電車に揺られていると隣の車両がちらりと見えた。同じ高校の制服に見慣れた後頭部。それは間違いなく修善寺のものだった。
普段なら修善寺が乗る電車はこの電車よりも遅いというのに今日に限ってどういうことだと、僕は慌てて身を隠すように隣の車両から一番遠い席へと移動した。幸いなことに修善寺は僕が隣の車両に乗っていることに気づいていなかった。四之山駅につくと僕は誰よりも早く車両から降りると改札を駆け出して高校へと向かった。
自転車置き場と運動部が朝練をしているグラウンドの横を抜けて下駄箱にたどり着くと僕はあたりをうかがった。前後左右に人の気配はない。修善寺もいないことを確認して僕は自分の靴箱に革靴と一緒に持ってきた小箱を入れておいた。
これで準備は出来た。僕がわざわざ自分の靴箱にチョコレートを入れたのは見栄のためではない。ひとつの遊びのためだ。姉の作ったチョコレートは十中八九まともなものではない。昨年はチョコレートミルクレープに見せかけた欧州カレーミルクレープ。一昨年はこぶし大のロックチョコだった。ならば今年はなにか?
簡単である。三人のロシア兵のうち一人だけ爆発した姿とくればロシアンルーレットだ。ロシア兵は三人ということはガナッシュは三つ入っていて、その内の一つが爆弾ということになるに違いない。朝にこの書置きを見た僕はある計画を思いついた。
昨年のバレンタインではチョコレートを一つももらえなかった柳と和彦は「チョコはいねぇがー」と僕の下駄箱をあさっていた。今年もあのふたりはチョコを手にすることができずにおなじことをするに違いない。そして、僕のところにチョコがあればチョコレートモンスターとなった彼らはそれを食べるだろう。いや、絶対に食べる。彼らはそういう悲しい生き物なのだ。
僕は計画の成功を確信しながら二年の教室がある階段を駆け上がり、廊下から下駄箱を見下ろすと修善寺が灯油の入ったポリタンクを運んでいるのが見えた。今日の日直は修善寺だったのかと納得した。教室にはすでに数名の生徒がいて教室の後ろの方では数名の女子が集まっていた。
僕は自分の席に着くとカバンを机にかけると一限の数Ⅱの教科書とノートを取り出した。修善寺が来る前にほかのクラスへ避難しようと腰を上げると女子たちが大きな声を上げた。
「私、二組の三ツ矢君に告白する。チョコも用意したし」
見慣れない女子が言うと同じクラスの相澤と金田が「私たち応援する」とか「絶対うまくいくよ」とニヤついた表情で言った。その後ろにいた女子は少し驚いた表情をしてから気乗りしないような苦笑いをしながら「私も」と言った。
彼女は昨年同じクラスだった熊谷だ。中学時代は陸上部で短距離の選手だったらしく体育祭では大いにクラスに貢献していた記憶がある。足の遅い僕には羨ましい限りであるが、高校からは別の部活動にはいっていたあたり本人は足の速さに興味はないらしい。
僕は女子たちの麗しい友情に関心しながら教室を出る。二組に入ると丸坊主姿の柳が「寒い寒い」と耳を押さえていた。そんなに寒いのなら髪でも伸ばせばと思うのだが柳は丸坊主を貫いている。野球部でもないのに貫けるスタンスがあるというのは見事なものだ。
「自転車通学は大変だね」
僕が片手を上げて挨拶をする。
「四之山は田舎だからね。バスは本数がないし。地下鉄にいたっては通ってないから仕方ないよ」
「今年の意気込みはいかがですか、柳選手?」
インタビュアーのように拳を柳に向けると彼はため息をついた。
「やめてよね。体育祭でも文化祭でもとくに女子と絡みもなく部活動に入っていない僕がもらえるわけないだろ」
「おっ、二人とも早いな。その顔だと机の中にはチョコはなかったようだな」
カバンを肩にかけた和彦がやってくると柳は「和彦こそどうなんだよ」と不満を顔にあらわにした。和彦は笑いながらこちらに指で丸を作ってみせた。ゼロということらしい。
「ダメじゃないか」
「まだまだ放課後があるさ」
和彦は自信ありげに微笑むが昨年も同じようにしていてもらえなかった。もしかすると今年は生徒会役員からもらえると考えているのかもしれないが、公約成立後から俺の仕事は終わったとばかりにロクに仕事をしない彼がもらえるかは怪しいところだ。
反対に彼の代わりに雑務をこなす副会長の人気は鰻のぼりで、彼がこの冬を制するのではないかと僕はひそかに思っている。
「一人だけ余裕な顔をしているけど京平はどうなんだよ。やっぱり修善寺からもらえると踏んでるのか?」
「やめてくれよ。修善寺とは本当に何もない」
僕と彼女が恋愛に落ちることなどないのだ。あるのは後悔だけだ。
「つまらん。本当につまらん。男子が三人もいてその誰にも彼女がいないとはな。高校生というやつは青春まっただ中でもっと明るいものだと思ってたんだがな」
「青春といっても恋だけじゃないよ。部活や課外活動に打ち込むのも青春だろう?」
「京平。お前は年寄りか。そういうところだぞお前は。爺むさいというか普通すぎて若さがない。若さにまかせて二股のひとつやふたつこなしてみせようという気概がないのか」
和彦が言うと柳が苦笑いをしながら肯定する。
「そうだね。京平はこっ酷い振られ方をしたみたいなところあるよ。僕なら修善寺さんと毎日話してたらちょっとその脚なでさせてくださいくらいはいうと思うよ」
柳が言うと和彦はややひいた表情で「柳はそういうところが怖い。柳っていうかヤバギだろ」と柳の頭をコツいた。
「そうかなぁ?」
首をかしげる柳に何かを言おうと考えていると予鈴がなった。和彦が駆け出したので僕もその後ろを追う。背後ではため息混じりに柳が「いいと思うんだけどなぁ」とぼやいていた。
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