チョコレートはゴミ箱へ②

 教室棟二階にある教室に入るとすぐに僕は修善寺がいるかを確認した。

 前方はクリーン。後方にもターゲットは認められない。


 僕は急いで自分の机にカバンをかけると教室から出た。このまま座席にいると嫌でも登校してきた修善寺に出くわすことになるからだ。できることなら彼女との接触はプリントの受け渡しくらいドライなものでありたい。


 廊下はヒンヤリとしていたが、外と比べればマシであった。L字型の教室棟からは僕が先ほどまでいた下駄箱が見える。日直と思われる生徒が教室に置かれたストーブの燃料を運んでいたり、運動部が朝練から疲れた様子で戻ってきている。そのなかで一際、目立った存在があった。


 同学年の三ツ矢隼人みつや・はやとである。


 整った顔立ちで話が上手くカリスマという言葉が似合う人間だ。多くの取り巻きを連れて登校する姿はいかにも人気者という様子で、修善寺から逃げ回りながら生活している自分とは別の世界の人間のようだった。そんな調子で人間観察をしていると予鈴が鳴った。僕はゆっくりと教室に戻ると彼女はいた。


 忍びのように気配を消して僕は席に着くと一限の教科書とノートをカバンから取り出すために身体をかがめる。そろそろ数学のノートの残りが乏しいな、と考えて前を見ると修善寺がなぜか後ろを振り返っていた。彼女は僕の顔を見ると人好きするような笑みを浮かべた。


「おはよ。ちゃんこ鍋は美味しかった?」


 僕は一体何を聞かれているのか分からず。手にしていた教科書とノートを落とした。慌てて散らばった教科書類を拾い上げて、彼女が僕の昨日ついた嘘の用事の話をしているのだと気づいた。


「あっ、ああ、ちゃんこね。とっても美味しかったよ」

「へぇ、そうなんだ。どこの店か教えてよ」


 修善寺は真っ直ぐに僕の瞳を見つめる。必然的に僕の視界には彼女が映り込むことになり、僕はどこかに逃げ場はないものかと考えたがホームルーム直前に席を離れることもできず。逃れることはできなかった。


「ど、どこだったかな。紹介されていったからあまり覚えてないんだ」

「紹介って生徒会長? それとも二組の柳君かな?」


 彗星蘭のような薄紅色をした彼女の唇が動くたびに僕は困惑する。

 なぜ修善寺は僕と関わろうとするのか。なぜ彼女が僕の交友関係を知っているのか。分からない。


「……なん」


 口を開きかけたとき、教室の扉が開いて担任が入ってきた。修善寺は何事もなかったかのようにくるりと教卓の方に向き直った。黒髪が少し持ち上がり彼女の白いうなじが一瞬だけ見えた。そこには間違いなく僕のつけた傷が残っていた。


 この日からだった。朝と夕のホームルームまでの逃げようのない時間に修善寺は僕に話しかけてくるようになった。話の内容は特に意味のないものが多かった。


「三木くんは苦手な食べ物ってあるの? 私は辛いものが苦手。唐辛子とか絶対無理」

「僕は辛いものも甘いものも平気だけど」

「へぇー、そうなんだ」


 このような会話が少しづつ続くのである。僕は彼女が何を考えているのか分からず混乱した。二度と消えることのない傷を負わせた人間と話して何か楽しいことがあるのか。それとも距離感が分からず戸惑っている僕をなぶって楽しんでいるのかもしれない。


「おい、京平! どうなってるんだよ」


 友人である柳のいる二組で弁当をつついていると和彦が迫ってきた。僕は弁当に不向きなおでんが入った容器を置いて「なにが? 弁当がおでんなのは昨日の残りだからだよ」と尋ね返した。和彦は「違うよ! お前の弁当なんか興味あるか」とすねたように口を尖らせた。


「京平が最近、修善寺さんといい感じなんじゃないかってうわさになってる話だよ」


 野球部でもないのに丸坊主の柳が和彦をフォローするように言った。


「勘弁してくれ。僕は修善寺が苦手なんだ」

「嘘つけ。朝と夕のホームルーム前に妙に話し込んでるじゃないか」


 さすがに最後列からは教室がよく見えるらしい。だが、それは下衆の勘ぐりだ。賭けてもいい。僕と修善寺はそういう関係じゃないし、どちらかというとずっと僕がいびられているようなもんだ。


「あれは、修善寺が話しかけてくるだけで僕は何も」

「でたよ!」


 和彦が声を上げて柳の肩を叩く。


「奥さん、聞きました。三木さんの息子さん。俺は興味ないけどあっちがあるみたいなんだよねぇですって!」

「まぁ。まるでモテキャラみたいな言い草ですわ」


 柳がおばさんのように口元に手を当てて大げさに驚いてみせる。


「お前らなぁ。そんなこと言ってないだろ」

「京平。俺は悲しい。我ら三人生まれた日は違えども彼女を作る日は同じと誓い合ったというのに」

「どんな状況だよ」


 僕が呆れていると柳が少し考えた顔で「合同お見合いとか?」と真面目に答えた。


「合コンでいいだろ。っていうかホントに何もないのかよ」

「ないよ」

「つまらん」


 和彦は借り物の椅子に倒れこむようにもたれかかると紙パックジュースのストローにかじりついた。


「お前の楽しい。楽しくないに僕を巻き込むなよ」

「だがなぁ。俺たちの青春には女っ気がなさすぎる! 見てみろよ」


 ストローをくわえたまま和彦があごで教室の反対側を示す。そこには三ツ矢が楽しそうに女子たちと談笑していた。女子たちは三ツ矢の言う一言一言に笑ったり、怒ったりして肩や腕を軽く叩いたりしている。実にわかりやすい青春だ。


「モテ男の見本だね」


 柳が弁当箱を几帳面に袋にしまいながら言う。


「それに比べてこっちは、根暗。丸坊主だ。モテる要素がない」

「お前はどうなんだよ」


 僕と柳を指さして呆れる和彦は指を自分自身に向けると「巨乳好きかな」と呟いた。


「そりゃダメだわ」


 僕も呆れて教室の天井を見上げると柳が変に真面目な声で「巨乳もいいけど脚もいいよね。修善寺さんの脚とか、すらっと長くて。冬場の黒タイツとかもエロい感じあるし」と言った。


「柳……お前」

「むっつりすぎないか?」

「普通じゃない?」


 照れくさそうに丸坊主の頭を撫でる柳に僕たちは呆れながら昼食を片付けた。二組を出て自分の教室を覗くと僕の机は修善寺の友達と思われる女子に占拠されていた。僕は和彦に弁当箱を渡すと「購買に行ってくる」と告げた。和彦は黙って弁当箱を受け取ると「レモンティーもよろしく」と笑った。


 二階から一階に降りて下駄箱の前に出ると北風が襲ってきた。僕は身体を丸めながら下駄箱の北側にある購買に入る。購買部では和彦のお菓子の持ち込み自由化に伴ってかつてよりも多くのお菓子類や飲み物がラインナップされるようになった。


 僕は目当ての熱いコーヒーと和彦に頼まれたレモンティーを掴むとレジに並んだ。レジ前ではいく人かの女子たちが「絶対美味しいやつだよね」とか「でも自分用には高いよね」と騒いでいた。何かと思って見てみれば、『バレンタインデー』とでかでかと書かれたポップとカラフルな装飾を施されたチョコレートが並んでいた。


 もうそんな時期かと僕は少し驚いた。少し前に門松を飾ったところだったのに時間の経過とは早いものだ。とはいえ、僕たちには縁のないイベントである。これならまだ雪見のほうがよほど縁があるに違いない。


 教室に戻って教室後方の扉を開ける。すぐに「早く閉めろよ。寒いんだから」と和彦の声がした。


 レモンティーを黙って差し出すと和彦はズボンのポケットから小銭を取り出して僕の手にあったレモンティーと手早く交換した。


「ったく。休み時間の終わりになると出入りが多くてかなわない」

「ストーブの恩恵もこの僻地までは及ばずか」

「辺境はいつも寒さとの戦いなんだよ」


 軽口を言いながら席に戻るとすでに修善寺の友人は姿を消しており、前の席ではいつもどおり綺麗な姿勢で修善寺が座っていた。その後ろ姿に僕は少し嫌悪を感じながら、彼女の脚を遠目から眺めた。地肌が見えそうで見えない絶妙な黒いタイツで覆われた彼女の脚は確かに柳の言うように綺麗だった。


 そんなことを考えながら席につかずにいると、僕の視線に気付いたのかたまたまか修善寺がこちらに振り返って「いい加減に座らないと先生くるよ」と言った。その言葉は明るいもので、僕の視線に気付いたものではないと僕は安堵した。

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