キャンディは砕かれていた⑭

 彼女の足音はひどく静かで、目で修善寺をとらえていなければ気づかなかったかもしれない。


 教室の扉が開いたせいか、太陽が沈んだからか薄暗い教室は少し寒々しい。彼女は、何も言わずに僕の傍までやってくると凍えるような冷たい表情で僕を見下ろした。僕はそれを黙って見つめ返した。先ほどの三ツ矢と熊谷と比べれば絵にならない姿だ。


 頭から血を流して倒れた男とそれを見下ろす女の姿なんてホラーに近いだろう。


 気まずさから何か気の利いた言葉でも言おうかと思案していると、修善寺はゆっくりと僕の隣に座り込むと乾いた血とまだ固まってない血で汚れた僕の頭を自分の膝の上に置いた。スカートの生地越しに彼女の体温がわずかに分かった。


 彼女はそのまま何も言わなかったが、僕のごわついた髪を手ですきながら口を開いた。


「なんだか子供のときを思い出すね」


 彼女の言う子供のときというのはやはり、僕たちが被害者と加害者になったときだろう。いまもむかしも僕は地面に倒れていた。そして、上を見上げればそこには修善寺の顔がいつもある。ひどい話だと思う。結局、僕たちは何も進んでいない。


「あのときは足が痛かった。いまは頭が痛い。全く違う」

「そうかなぁ。あのときは私の頭が痛かったから一緒だよ」


 口を閉じたまま修善寺は少し微笑んだ。


「全然違う」

「変わらなぁ、きょーちゃんは」


 その呼び方だけはやめてほしいが、いま文句を言っても彼女が聞き入れてくれるとは思えず僕はわずかな苦言を取り下げた。それに僕たちの関係に変わりようがないのだから、変わらないという評価は当然のことだ。


「変わらないよ」

「私も変わってないよ」

「変わればいいのに」

「初恋だもの。変えられないよね」


 嫌な話だ。その言葉が聞きたくなかった。いまからでも逃げ出したいが、身体のほうが動かない。


「普通じゃない」


 同じセリフを前にも言ったことがある。自分を撲った相手に好意を寄せるなんてものは間違っているのだ。普通はそんなこと思わないし思えない。そうあるべきなのだ。


「それはきょーちゃんだと思うな。普通は自分の足を砕いた相手をかばったりしないよ」

「かばったことなんてないよ」

「嘘つき。折れた足のまま私を家に運んで僕がなっちゃんを撲りましたって謝って、先生や親から一人だけ怒られたのは誰だったでしょう? 私がきょーちゃんの足を折ったことを黙って折れてないふりをし続けたの誰だったでしょう? ねぇ、誰だった?」


 それは僕だ。

 修善寺が僕の足を折ったとなれば、彼女はひどく怒られるに違いない。そう思った小学生の僕は考えたのだ。彼女が被害者になって加害者が別にいれば立場を変えることができる。だから、僕は彼女の首筋を石で殴りつけた。


 首筋から血を流して涙を流す修善寺に何度も言い聞かせた。


「僕がなっちゃんを撲った。ほかには何もなかった。いいね」


 折れた足で彼女を運ぶのはひどく苦労したが、血を流す修善寺に対して僕の骨折はズボンに隠されて見ただけでは判別がつかなかったらしく僕は彼女の親や先生を騙し切った。その日から僕は友達を撲った加害者に、修善寺は友達に撲られた被害者になった。


「誰だったかな。そんなことする奴がいれば普通じゃないよ」


 そう。僕は彼女を運びながら口にしたのだ。


「自分を撲ったやつを助けるなんて普通じゃない」


 きっと僕の頭のねじは緩んでいる。普通じゃない。だから、僕は彼女から距離を取った。どんな理屈をつけても人を撲るなんてことは正しいはずがないからだ。それが平然とできた僕も修善寺も間違っている。さらにそれを助けようとした僕はもっと間違っているはずだ。


「私もきょーちゃんも普通じゃないならいいじゃない」

「よく覚えているよね」

「きょーちゃんとのことならなんでも覚えてる」


 それはとても自信に満ちた笑顔だった。僕にはそれに答えるものがない。眩しすぎるのだ修善寺は。何も答えない僕に彼女はあることを訊ねた。


「どうして私に知らせずに三ツ矢くんに会ったの?」


 それは、どうして僕が加害者になったのかと同じ意味だ。

 僕は修善寺が不幸になることが嫌だった。だから、あのときも今回も手を出した。彼女が知らぬ間にすべてが解決されて、いつもと変わらない日々が来るように。それが僕の願いだ。


「修善寺さんがいないほうが話が簡単に済みそうだったからだよ」

「その割には、痛い目にあってる」


 彼女はそう言って僕の傷口辺りを強く触った。鈍い痛みが走り身をよじるが彼女の残りの手が僕の肩を押さえていてうまく逃げられなかった。


「まさか、犯人が二人とは思わなかった。修善寺さんこそどうしてここに来たの?」


 僕は彼女に何も言わなかった。言ったのは柳を待たせているということだけだ。


「ずっと待ってたの。生徒会長と柳くんが帰ってもきょーちゃんは出てこないし、三ツ矢くんと熊谷さんは私を見て幽霊にあったような顔をするし。いくら私でもわかるよ」

「修善寺さんは気が長すぎないかな。普通そんなに待てないと思うけど」

「普通じゃないもの。それにもっと長い時間を待ってるの」

「おみくじなら随分と待ち人きたらずが続いてそうだね」

「誰のせいかなぁ」


 傷口にかかっていた修善寺の指が再び力を込める。


「さ、さぁね。知らないよ」


 しらを切ると修善寺は小さなため息をついて指の力を抜いて「痛かった?」と不安げに訊ねた。僕はきっと彼女のこの顔に弱いのだ。修善寺にはこういう顔をしてほしくはない。チョコレートは甘くあってほしい。僕は苦いチョコレートが苦手なのだ。


「平気だよ。あのときも平気だった」


 なにか重大な秘密を知ってしまった少女のように修善寺は含んだ微笑みで僕の頭を撫でた。校舎の外は夕日の残照もなく真っ暗になっている。校庭やグラウンドから聞こえる部活動の掛け声も聞こえない。まるで僕たち二人しかいないそんな静かさだった。


「きょーちゃん。そろそろ帰る?」


 修善寺が訊ねた。


「……いや、もう少しこのままでいいよ」


 僕はきっと彼女を愛してはいけない。だけど、もう少しくらいはこの普通じゃない関係が続いてもいいとは思っている。修善寺は何も言わずに頷いただけだった。だが、彼女の機嫌がいい事だけは何となく伝わってきた。

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キャンディはチョコレートを愛さない コーチャー @blacktea

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