血は固まらず②

 子供が何だ。見られたからって、それがどうした。


 掠れた声でそう呟いた兵士の身体が、慄くように震え始める。ホムラが胸倉を掴んだ手を放すと、支えを失った彼は後ろに二、三歩よろめいて、ふと思い付いたようにアネモネ達の方へ一歩踏み出した。



 すかさず、ホムラは彼の前へと割り込んだ。道を塞がれた兵士は見るな、見るなと譫言のように繰り返しながらアネモネとリオルの所に歩み寄ろうとしていたが、ホムラを押し退けるには至らない。今の彼はアネモネとリオルばかりに意識が向いて、ホムラの事は完全に意識の外だったからだ。


「そんな目で俺達を見るな」


 半ば呆けていても、その姿は強烈だ。


 振り乱した髪。狂気に血走った赤い目。飛び散った返り血の化粧。狂乱の熱が冷めて尚、ヘドロのようにこびりつく憎悪の気配。


「何だよ」


 もしかしたら、彼は笑おうとしたのかもしれない。都合の悪い事を隠す大人が、子供を丸め込む時に使う嫌な笑顔。その残骸。


 凍り付いたように動かないアネモネとリオルにそれを向けて、兵士は震える指先でオーガを指差した。


「バケモノはソイツだろ。俺じゃない」


 同意の返事を待つように、兵士は一旦言葉を切る。けれどアネモネとリオルが何も言わず、沈黙の時間が長引くに連れて、彼の顔からは笑顔の残骸が引いていく。


「……そんな目で見るなよ……」


 先程から何度も世話になっている親切な兵士が、アネモネとリオルを何時でも庇える位置に回り込むのが視界の端に映った。


「そんな目で見るなァッッ!!!!」


 唐突に噴火した兵士を、ホムラは即座に抑えに掛かる。自分一人で完遂するつもりだったが、見るに見かねたと言わんばかりの様子で、傍観組から何人かが飛び出して来て、ホムラを手伝ってくれる。


 数人掛かりで一人を抑え込む、ちょっとした捕物帖のような一時だった。獣のように唸り、暴れ、最後には数人の下に押さえ付けられた下から広場全体に響くような慟哭を漏らし始めた彼を、ホムラは暫く黙って見詰める。


 善悪とか、道徳とか、そう言ったモノを問答無用で貫通する痛ましい声だった。それは”綺麗事を抜かしているのはホムラおまえの方だ”と、しつこいくらいに突き付けてくる。


(……それでも)


 手伝ってくれた人々に目礼する。目礼を返してきたり、或いは複雑な表情を浮かべて目線を逸らす彼等を一瞥し、ホムラはオーガの方に視線を遣った。


 またもや沈黙してピクリとも動かないオーガに、その周りで所在無さげに立ち尽くしているヒトビト。否、一人だけ例外が居る。老いを象徴するような白い体毛や、大きく曲がった背骨が特徴的な、人間の身体に犬科の獣の頭を掛け合わせたような見た目の獣人族。その老婆である。


 他が視線を逸らして立ち尽くす中、彼女だけはオーガを見ていた。ブルブルと震え、自身が倒れそうになりながらも、手にした鍬を振り上げる。


 殴った。


 分厚く固い皮膚に老婆の膂力は敵わず、弾き返されたが、彼女は構わずもう一度鍬を振り下ろした。


「うぅ……ッ!」


 一度。


「ウ……!」


 二度。


「うぅぅーーッッ!!」


 もう一度。


「……」


 自らの寿命を振り絞っているかのようなその行いに、この期に及んでホムラが若干気圧されたのは事実である。何故、彼女がそのような行動に及んでいるのか、それも想像に難くなかったからだ。


「婆さん」


 それでも、一度始めた以上は止まる訳にはいかなかった。


 鍬を振り上げたその手首を、絡め取るように握り締めて、彼女を止める。


「子供が見ている。もう止めてくれ」


 獣人の老婆は、頑なに此方を振り返ってくれなかった。ホムラを無視して、何度か鍬を握る手に力を込めてくる。彼女が何も喋らないから、ホムラもそれ以上言葉を重ねない。無言の力比べが暫く続き、やがて彼女は、ふと息を吐くようにポツリと零した。


「……アタシの子供は、しんだ……」


 それまで暴力と共に発していた唸り声とは打って変わって、思わずギョッとしてしまう程に空虚な声だった。既に頭では理解していて、けれどその意味を彼女自身が拒絶しているから、中身がになる。そんな感じの声だった。


「だから、兵士なんか止めてくれって、言ったのに……」


 持っていた鍬を、奪い取る。彼女は抵抗しなかったが、それはホムラの頼みを聞いてくれたという訳ではない。彼女はオーガの傍に跪き、握り拳を振り上げた。


 ぺち、ぺちと、弱々しい音が響き渡る。老婆の握り拳が、鋼のような分厚い皮膚に弾かれる音だ。それは次第に彼女の嗚咽と咳き込む音が絡んで、救いようの無い悲惨な空気を織り成していく。


 誰も何も言わない。周囲の者は誰も動かず、ホムラも暫く黙って見ている事しか出来なかった。


 幸い、老婆の方も体力的に限界だったようだった。拳を振り上げた所で、不意に自らの慟哭と咳き込みに堪えきれなくなったように、崩れ落ちる。


 動いたのは、ホムラではなく周りの人間達だった。老婆は彼等に支えられながら立ち上がり、泣き声を残しながらその場を離れていく。


 殴っても殴っても、怨みは消えない。憎悪は晴れない。


 それでも、彼女が愛した子供は帰って来ない。


 酷い話だ。あの老婆は、もしかしたらもう立ち直れないかもしれない。


「……きっしょ」


 不意に、吐き捨てるような声が聞こえた。


 私刑を延々と続ける為にオーガの傷を癒していた、神官だった。彼は此方に視線を合わせてくれなかったが、吐き捨てる声には憎悪と嫌悪が入り交じっていた。


「そうやって、"自分は正しいです"って自己満足に浸れて嬉しいか? "私はお前らと違って高潔だ"。"下賎な者よ、野蛮な事は止めなさい"」


 後半は、彼が想像するホムラの内心か。仮にホムラがそんな事思っていないと反論した所で、話が拗れるだけだろう。


「何様だよ、平面顔の"黄色い猿"如きが」


 周囲の雰囲気が、微かに揺らめいたような気がした。ホムラには良く分からない言葉だったが、もしかしたら彼は何か差別的な事を言ったのかもしれない。


 言ったのかもしれないが、ホムラには良く分からなかった。


 分からなかったから、その次の瞬間の行動も、別に彼の言葉に反応した訳じゃなかった。


「……ッ!」


 背中の大太刀を、抜き放つ。


 神官の男だけじゃなく、ホムラの周囲全員が身を竦ませるのが気配で分かった。光すら呑み込む漆黒の刃は、それだけでその場を圧する"何か"を放っている。


 この場の雰囲気の所為じゃない。


 明らかにこの場の空気の温度が、少しだけ下がった。


「……はっ」


 神官の男は、けれど怯まない。


 鼻で嗤ったその声は若干震えていたけれど、一歩も引かないその態度には、こんな偽善者に負けてたまるか、という意地が感じられた。


「気に入らなければ暴力か。お里が知れるな」


 例え恐怖を覚えていても、自身の主張を貫こうとする奴は好感が持てる。


 ほんの一瞬だけ頬を綻ばせ、けれど次の瞬間にはそれを引き結び、ホムラは抜き放った大太刀を迷い無く振るった。風を斬る音の中に、金属の悲鳴が紛れて響いた。


「……!? あ、あんた……!?」


 ホムラが斬ったのは、オーガを拘束していた鎖だ。血塗れの頑強な身体を雁字搦めに縛り上げていたそれがあっさりと解け、優位を保っていた周囲の人々の内、半分がどよめき、半分が警戒態勢に入る。


 声を掛けてきたのは、恐らくアネモネとリオルを庇ってくれていた親切な兵士だろう。流石にホムラの行動を看過出来なかったらしく、その声には警戒が滲んでいる。


 神官は居ない。即、逃げ出した。一見臆病な行動に見えるが、対処としては正しいし、腰を抜かして泣き喚くと言った無様を晒した訳でもない。運が悪くなければ、戦場ではしぶとく生き残るタイプだろう。


「何をしている!? そいつは……!」


「異国の戦士、まだ牙は折れてないだろう」


 話し掛けてくる親切な兵士の声は無視して、ホムラは口を開く。兵士に対してではない。死んだように動かない、オーガに対してだ。


「機会を窺うのは、無駄だ。俺が此処で見ている。俺がそうと許さない限りは、お前が此処で死花を咲かせる事は無い」


 言葉が通じているのかは知らないが、それでも自分に話し掛けられている事は分かったのだろう。閉じていたオーガの目が、突如カッと見開かれる。


 それまでの死体っぷりが嘘のように、弾かれたように起き上がった。


「……思ったよりも元気そうだな」


 周囲のざわめきに悲鳴が混ざる。取り囲む包囲網の輪が一気に広がり、代わりに武器を抜いた兵士達が数人、彼等を守るように前に出てくる。


 だがまぁ、彼等は騒ぎ過ぎなのだ。飛び起きて、ホムラの予想より元気だったとしても、彼は殆ど死に体だ。肩で息をし、血と汗で視界は塞がれ、体幹はフラフラと安定出来ていない。


 ただ、その目だけが。


 ギラギラと、熱く、昏く、輝いていた。


「……余所者の俺は、お前らの事情は知らない。だが、散々ブチ殺したんだ。この扱いに文句は言えない。分かっている筈だ」


 オーガはホムラの一挙手一投足を食い入るように見つめたまま、その片手だけを彷徨わせ、何かを探すように空を掴む。近くには、先程ホムラが放っておいた、頭蓋骨の片手槌が転がっている。多分その内、指先が触れるだろう。


「だが、お前の死は歪められ、辱しめられた。礼節を欠いた分は、其方にも機会を与えられるべきだと考える」


 本来なら戦場で死ぬ筈だった彼は、生き残った。それが理由で私刑の対象にされた訳だが、一度目の私刑で彼の命は尽きる筈だったのだ。何度も何度も死の淵から呼び戻され、その度にまた"殺される"というのは、道理に合わない。気持ちは分かるが、それでも子供に受け継がせるべきではない。


「選ぶといい」


 抜き身の大太刀で、門を指し示す。


 オーガの指先が、頭蓋骨の槌の柄に触れた。


「もしこの場を生き残りたいなら、立ち去れ。他の奴には手出しはさせない」


 周囲のどよめきが、再び大きくなった。


 何を言ってるんだ、勝手な事を言うな、引っ込め余所者、等と過激な者達が叫ぶ声が聞こえた。


 大太刀が指し示した方向から、何を言ったのか大体想像が付いたのだろう。当のオーガは鼻に皺を寄せ、ホムラを睨み付けて来る。


 焦げ付かんばかりのその視線を受け止めて、ホムラは軽く瞑目する。オーガの外見から年齢を察する術をホムラは持っていないが、恐らく彼はまだ若い。戦士としての空気に年季が入ってないと言うか、新兵感が抜けていないとでも言うか。もしかしたら、この戦いが初陣だったのかもしれない。


 アネモネとリオルには言ったが、彼等は自分達の誇りと尊厳を懸けてこの戦いに臨んだらしい。そして目の前の彼は、その戦士達の一人である。


 例え若くても、未来があったとしても、彼はその道を選んだ。


 なら彼が選ぶ道は、想像が出来る。ホムラが与えた選択肢は、最初から意味など無かった。


 ……でも仮に、ホムラが彼の立場だったとしたら、彼と同じ選択をしただろう。


「そうでないなら──」


 オーガが動いた。


 門に向かい始めた訳ではない。だん、だんとその場で何度か足を踏み鳴らし、手に持った片手槌を振り回して、己を誇示するような動きを見せる。


 決闘を申し込まれているのだと、直ぐに分かった。


 彼に恐怖は無い。命に対する執着も無い。


 あるのは意地と、敵意と、憎悪だけ。と無言のままに吐き捨てる、圧倒的な憎悪だけだった。


「──……御相手、つかまつる」


 オーガが笑うのが、一瞬見えた。


 ただ単に、歯を剥いて威嚇しただけかも知れない。


 どちらだったのか確認する時間は、もう無かった。オーガは自らを鼓舞するように雄叫びを上げ、真っ直ぐにホムラ目掛けて飛び掛かって来たからだ。


「──」


 ホムラが手に持つ大太刀をユラリと上段に持ち上げたのは、オーガが動き出す一瞬前の事だった。実の所、それが引鉄になったのだ。オーガは自分で動き出したように見えて、本当はホムラの動きに誘い出されてしまったのである。


 生物としての性能は十分。攻撃的で、勇猛で、きっと精神的にも戦士にはピッタリだった。


 彼に足りないのは経験だけだ。そして彼はもう、その経験を積む事は


 きっと彼もそれは分かっていた。分かっていて尚、この道を選んだ。


 ホムラに出来る事と言えば、せいぜい心からの賛辞を送る事だけだった。


「"見事"」


 オーガが笑った。誇らしげに、ニンマリと、唇の端を吊り上げるのが見えた。


 それは次の瞬間、彼を真正面から迎え撃ったホムラの大太刀によって真っ二つに分かたれた。粘る赤い筋を引きながら左右に別れたそれらは、ホムラの両脇をそれぞれ抜けて、地面の上を転がる。


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