呪いの再誕②
「あぁ……」
セオは一人。たった一人。周囲をわざわざ見回すまでもなく、この場に居る兵士はセオ一人だけだ。
黒オーガはたった一匹。されど一匹。周囲を見わざわざ回すまでもなく、この場にオーガはまだまだ何十匹と居る。
セオと黒オーガの激突の結果を、当然他のオーガ達はお気に召さなかったらしい。顔に浮かべていたニヤニヤ笑いを一斉に消して、少なくとも視界の中に居る全ての個体が、セオに向かって歩いてくるのが見えた。
これから始まるのは、処刑か、私刑か。
何にせよ、セオにとっては悲惨な運命が待ち受けている事には変わらない。たった一匹でも彼等にとって黒オーガは仲間の一人で、セオは彼等の仲間を殺した憎い仇だ。流れとしては当然だろう。
「……待てよ……」
でも、それなら。
彼等に殺され、喰われた兵士達の仇は、一体誰が取ると言うのか。
「何だよ、その
たった一匹殺された程度で、そんな顔してるが。
お前らは何百と俺達の仲間を殺して、その上、国そのものまで蹂躙しようとしてるじゃないか。
「何でお前らが被害者面してんだよ……!」
ふざけるな。
ふざけるな。ふざけんな。ふざけんな!!!!
膝が震える。歯の根が合わない。捕食者と獲物の力関係はそう易々と覆るものではなく、セオは相変わらずみっとも無く怯えている。
けれど、そんな恐怖の壁を突き抜けて、胸の奥から頭を出したものがある。
それは憤怒だった。不当に住む場所を蹂躙されて、生きる権利も自由も奪われようとしている者が抱く当然の感情だった。
「お前等が攻めて来なければ、コイツだって死なずに済んだ筈だろうが……ッ!」
オーガの内の一匹が、セオの目の前に立つ。血に濡れた骨の大斧をこれ見よがしに地面に叩き付け、セオに向かって威圧的に何事かを語り掛ける。その言葉の意味も、其処に秘められた感情も、セオは知った事ではなかったけれど、"よくも仲間を殺したな"とか、"お前を頭から喰ってやる"とか、どうせそんなそんな所だろう。
死にたくない。喰われたくない。その思いは当然消えない。
けれど今は、それ以上に悔しかった。もっと自分に力があれば。この場一帯に居るオーガ共、この世界に居る全てのオーガ共を鏖殺出来る程の力があれば。
此処はセオ達の住む場所で、セオ達の国なのに。何でコイツらに奪われなくてはならないのだろう。どうしてこんな奴等に渡さなくてはならないのだろう。
「……ぁぁあああああああああああああああああああッ!!!!」
目の前ではセオの怒気に素早く反応したオーガが、その大斧を大きく振りかぶる。動作的には凄まじく大振りなのに、ビックリする程に早い。セオの方は得物を握り直しただけで未だ振るうモーションにすら入っていないのに、相手は既に大斧を高々と振りかぶり、振り下ろさんとしている所だった。
まぁ、はっきり言って無駄死にだ。セオがこれ以上オーガの数を減らす事は、どう足掻いたって無理だろう。
けれどどうせ、無駄死にする事には変わり無いのだ。逃げ惑いながら死ぬか、命乞いしながら死ぬか、せいぜいそのくらいしか変化はない。そしてどうせ死ぬのなら、逃げ惑うのも命乞いするのも御免だった。
此処はセオ達の国だ。暮らしていたのもセオ達だ。
コイツらにそれを奪う権利は無い筈だ。それを無視してこの国に攻めて来たオーガ共に、国を守る気概も無い腰抜けと思われながら逝くのは何よりも我慢ならなかった。どうせ死ぬのなら、生き残る術が既に無いのなら、せめて死に様くらいは選びたい。もう一度、先に逝った兵士達の仲間入りを果たしてから死にたかった。
『✕✕✕✕✕✕――!!』
大斧の刃が、落ちてくる。
空気を引き千切る異様な唸り声を以て、目にも留まらぬ速さで落ちてくる。やがてセオの頭を叩き割るだろう。無限に引き伸ばされたように感じる時の中で、セオはせめて、最後の最期まで敵意を向け続けようと自身の"死"を睨み据える。
……一陣の突風と共に、見事な朱が視界いっぱいに広がったのは直後の事だった。
「……」
突風は、大斧がセオの頭を叩き割り、身体を縦断した衝撃。
朱は、セオの身体から零れ、溢れ出た血。
「……?」
最初は、そう思った。
けれど待てど暮らせど、セオの意識は途切れない。死ぬ瞬間はスイッチのオンオフみたいに何かが切り替わるものだと勝手に思い込んでいたのだが、いつまでもそのスイッチは切り替わらない。
ギチギチと、刃と刃が噛み合う音が耳に届いたのはその時の事だった。
「――見事だ」
声が聞こえた。セオの怒りとオーガの憎しみ、憤怒と憎悪がごちゃ混ぜになった戦場の熱気を、さくりと斬って捨てるような、刃のように穏やかな若い男の声だった。
「この国にも、貴殿のような
そいつは、セオが見た事の無い奇妙な出立ちをしていた。袖や裾が無駄にたっぷりした、ヒラヒラと風にそよぐ朱の衣服。旋毛の辺りで束ねられた不思議な質感の黒髪に、襟や髪の間から覗くやや黄色み掛かった肌。
そしてその手に携えられているのは、長身の彼の身の丈程もある長大な大剣。緩く、優美な弧を描くそれは、セオがこれまで見てきたどんな"黒"より昏く、禍々しい。不可視の瘴気すら放っているように思えるそれは、今は高々と男の頭上に掲げられ、オーガの大斧を真っ向から受け止めていた。アレのお陰で、セオは頭を叩き割られずに済んだのだ。
「……え? 誰……?」
予想外の展開に素で聞いてしまったセオの言葉は、直後、一際大きな刃の悲鳴に搔き消された。オーガの大斧が、謎の男の黒い大剣を圧し斬った音――ではない。逆に男が、オーガの大斧を押し返し、その巨体を大きく吹き飛ばした音だった。
そんな馬鹿な。だって、いくら男が長身とは言え、オーガは体格も身長もその男より二回りはデカいのに。
「すまんな。俺自身は別に、貴様らに何の怨みも無いが――」
恐らく男は、オーガに話し掛けたのだろう。彼の声にはこの戦場特有の色が無く、飄々としていた。敵に対する憎悪も、憤怒も、何も無い。無色透明の氷みたいに、涼やかで、穏やかで、いっそ場違いなくらいなくらいだった。
なのにどうして、その時セオの心臓は一瞬縮み上がったのか。対峙しているオーガだけでなく、周囲にいるオーガ達までもが一瞬肩を跳ねさせて、各々の武器の鋒を男に向けたのか。狂乱怒濤の戦場音楽はいつの間にか遠退いて、此処は凍てつく冬の雪原だった。
「――俺は此方に加勢する」
嗚呼、そうか。
ストンと胸に落ちるものがあって、セオは自分でも良く分からない内に納得してしまっていた。
声ではない。空気だ。
この男から滲み出た空気こそが、この戦場一帯を冷たい荒野に変えてしまったのだ。
否。それは正しくは、空気なんかじゃない。
殺気というものである。
――GRAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!
大斧持ちのオーガが、吼える。人間など吹き飛ばしてしまうんじゃないかと思えるような咆哮は、相変わらず怪物のそれを思わせる苛烈で凄まじいものだ。セオがその迫力に身を竦ませたその直後には、その大斧は高々と振り上げられていた。
「危――」
オーガの大斧が、高く舞う。高く、高く、更に高く舞い上がって、やがてくるくると回りながら明後日の方向に落下する。派手な音を立てて、地面に突き刺さった。
「は……?」
雨が降って来た。妙にベタベタするそれに咄嗟に視線を落とすと、それは雨ではなくて黒ずんだ血だった。ギョッとして咄嗟に視線を上げると、失った両腕の切り口から雨を迸らせているオーガが、怪訝な顔をして自身の両腕に視線を遣るのが見えた。
「え……?」
思い出したように、その頭が首の上からゴロリと落ちる。端から見ているセオには何が起きているのか分からなかったし、それは当人であるオーガも同様だろう。地面の上を転がったオーガの首は、キョトンとした顔のままだった。その表情から動かないまま、事切れていたのだ。
「次」
どう、と音を立てて首を失ったオーガが倒れる。それとほぼ同時に紡がれた男の声は、呟くようなものだったにも関わらず、不思議と良く通った。その声に不動の呪いを解かれたように、また一匹のオーガが動き始める。
――Giiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!!!!!
先程セオが殺したオーガと同じくらいに大きな体格を誇り、青みがかった緑色の鉄皮を持つ個体だった。肉の厚みはやや薄く、痩せぎすな印象を受けるものの、飢えた獣のような危険な雰囲気を纏っている。そいつは両手に一振ずつ携えた蛮刀を威嚇するように振り回し、これまでとは異なる甲高い奇声で吼えながら男に向かって一直線に突っ込んできた。
種族的に人間よりも遥かに高い身体能力が生み出す、突風のような疾駆。元々距離が近かった事もあり、二人の距離はそれこそ「あっ」と言う間も無く零になる。
跳躍して男に躍り掛かった筈の青オーガの身体が、上下に分かれて地面に転がり落ちたのは直後の事だった。赤い衣の男はどうなったかと言えば、何時の間にやら斜め前に踏み出しつつ片膝を突き、大剣を振り抜いていた格好から、悠々と元の姿勢に戻ろうとしている最中だった。
「次」
何事も無かったように、男が言葉を紡ぐ。その言葉に我に返ったように、また別のオーガが動き出す。今度は三体。
距離も方角も突っ込んでくるスピードもてんでバラバラな三体に対し、男は最初の一体を、自ら前進して肉薄のタイミングを外しつつ、大剣の鋒でその喉を貫いた。ガボガボと血痰を吐き、一撃で死にきれなかった一匹目のオーガごと、男は大剣をブン回す。細い見た目に反し、大剣の刀身はオーガの巨体をビクともせずに支えてみせる。代わりに勢いに耐え切れなかったオーガの方が刃からすっぽ抜け、間合の内に入りつつあった二匹目のオーガに向かって飛んでいった。偶然ではなく、男は最初からそれを狙っていたのだろう。
ぶつかり、絡み合うようになって動きを止めた二体のオーガ達。彼等は次の瞬間、纏めて真っ二つに両断された。何時の間にか距離を詰めていた男が、大剣を振り下ろした結果だ。皮と肉の袋から
背後からなら、殺せる。他の二体に気を取られているこの瞬間なら、仕留められる。三匹目のオーガは、そんな事を思ったのだろうか。
だとしたら、とんだ見込み違いだ。
「は」
笑う声は、男の声か。それとも、端から眺めていたセオのものか。分からない。
分からないが、一つだけ確かな事がある。男には、奇襲など通じなかったという事だ。
「はは、は……!」
ガツン、と刃と刃が噛み合う音。
オーガが男の背中に打ち下ろした片手斧は、けれど何時の間にか振り返っていた男の大剣に受け止められていた。受け止められてから一拍置いて、オーガは自身の奇襲が失敗した事に気付いたらしい。反射的に跳び退って距離を取ろうとして、その中途半端な体勢と距離を男は見逃さなかった。
跳び退ったオーガの身体が、着地する。一拍置いてその頭がその脇に落ちて、大して跳ねずに地面の上を転がった。首を刎ね飛ばされたオーガの身体が糸を切られた人形のように倒れ、静まった戦場には、男が大剣の刃に付いた血を払う音が妙に冷たく木霊した。
「次」
今度は、暫く誰も動かなかった。
目の前の光景が理解出来ずに皆固まって居たのかもしれないし、或いは誰も彼もが死神の眼光に射竦められていたのかもしれない。
つい先程まで、彼等は理不尽な怪物だった。だが今はどうだ。恐れ、おののき、震え上がる殺られ役そのものだ。やはりこの地には、神の加護があるのだろう。セオ達が理不尽で不当な暴力に晒されても、それを上回る力が何処からともなく遣わされて来る。
「やってくれ……!」
あの男は、神からの遣いだ。
少なくともその時のセオは、そう信じて疑わなかった。
深淵のように黒い髪。炎のように朱い着物。そして死そのものを鍛えたかのような、不吉で、冷たい、昏い大剣。
「全部、全部、殺ってくれ……!!」
誰が最初に、動き出したのかは分からない。
誰かが動き出して、それが次々と連鎖して、オーガ達が一斉に動き出した。彼等全体が一つの大波と化して、朱衣の男に押し寄せて行った。
その日。
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