果て無きリンボの境界線2
罵論≪バロン≫
序章
負け犬
自分達の運命が変わった瞬間を、ハッキリと自覚できる者は世にどれだけ居るのだろうか。
静かな夜だった。外から入ってくる、荒野に生きる虫達の輪唱。洞穴に少し手を入れただけの素朴な住処の簡素な空気感に、その中に響くパチパチと焚き火の薪が爆ぜる音。聞こえてくるのはそれだけで、それがまた、この場全体を覆っている静けさに拍車を掛けている。いつもの夜だった。
家族が寛ぎ、客を迎え入れるその間には、普段ならば子供が寝る時間になっても大人達が居た。彼等は子供が居る所ではできない話を、その時間、その場所で話し、時には喧嘩し、時には酒を飲み交わしながら笑い合っていた。いつか自分もあの中に加わるんだと期待に夢を膨らませながら、自分は隣の寝室から、眠くなるまで彼等の事を飽きずに眺めていたものだ。
あの夜もそうだった。
「――断る」
記憶の始まりは、父の硬い拒絶の声から。
「そんな事をすれば、何百人死ぬと思っている」
一族の中でも一際大きく、逞しい父の背中。よく笑い、豪快で、茶目っ気もあり、部族をよく導いていた。部族だけでなく、一族全体から頼られて、纏め役のような事を行っていた。いつかは自分もあんな男になるんだと、子供ながらに憧れていた。今だってそうかもしれない。
そんな父が、あんな硬く、冷たい声を出すなんて。当時の自分には、とても信じられなかった。
「折角の申し出だが、貴様の言葉は旧い悪霊のそれだ。我々は既に過去を呑み込み、乗り越えた。貴様の言う事を聞く必要は、無い」
「……」
炎の光は暖かいのに、冬の荒野に放り出されたかのように空気が冷たい。爆炎の如き熱量を誇る父の殺気が、こんなに冷たいものだったなんて。怯えながらも、子供ながらに訝しく思ったのは今でもハッキリ覚えている。
結論から言えば、当時の自分は、正しかった。
あの冷たさは、父が放つものではなかったのだ。
「――くく」
アレは、声、というのだろうか。
それとも、"憎悪"を音の形に塗り固めたものとでも言うのだろうか。
「くはは……」
座る父の、向こう側。
黒いローブにすっぽりと身に纏い、顔も肌も何もかも隠している若い男が、肩を震わせて笑っているのが見えた。
「俺を――」
炎が揺らめく。もしかしたら、洞窟の中に霜がおりていたかもしれない。
実際にはそんな事は無かった筈だけれど、そんな錯覚を覚えてしまうような、恐ろしく、冷たい声だった。
「俺を、悪霊と呼ぶか」
「……」
父は答えなかった。黙り込んだまま身動ぎもせず、ただ目の前の悪霊を睨み付けていた。自分の背後には一族が居る。きっと、その一念のみが父を支えていたのだろう。微動だにしない彼の背中は、万年の時を過ごした旧い巌のようにも、或いは――或いは、蛇に睨まれた蛙のようにも見えた。
ああ、そうだ。今なら分かる。
あの時、父は、本当は怯えていたのだ。
実際の時間がどれくらいのものだったかは分からないが、少なくとも自分には、長い長い沈黙だったように思えた。
「――成程。賢い」
やがて悪霊は、そんな事を言った。
「確かにそれも一つの道だろう。貴殿がそういう選択肢を選ぶなら、仕方無い」
影が、揺らめく。
実際は黒いローブに身を包んだ"悪霊"が立ち上がっただけなのだが、膝を引いて、重心を頭に移し替えて、腰を上げると言った一連の動作が全然見えなかったのだ。輪郭がブレて、気付けば立ち上がっている。そんな感じだった。
「……もう少し、喰い下がるかと思ったが」
どうやら、拍子抜けしたらしい。他ならぬ話を断った筈の父が、そんな事を言った。背中を向けているから当然顔は見えなかったが、困惑と警戒が入り交じった顔をしていたのだろうという事は今なら分かる。
「奇妙な事を言う。大の大人が決めた事だ。俺には考えられないような事情が、貴殿にはある。それを否定しようとは思わんよ」
影が引いていく。洞窟の入口で蠢いている闇の中へ、スルスルと滑るように歩いていく。彼は既に父の方を見てもいなかったし、そもそも興味すら失っていたようであった。
繰り返すが、父は一族の中でも一目置かれていた。誰も彼もが父を頼りにしていたし、無視できなかった。そんな父が誇らしくて、だからこそあの時の自分は、ひどく衝撃を受けたのだ。
今だからこそ、思う。
あの悪霊は、最初から、全て見透かしていたのだ。
「だが、まぁ」
戸口で、不意に影は動きを止めた。脅威が引いていくのを感じて父が息を吐く、その瞬間を狙ったかのようだった。
「負け犬に育てられる息子達は哀れだな」
空気が凍った。その冷たさに父は息を呑んだのか、それとも怒りに思考が停止したのか。分からない。
そんな事より、あの時自分は、悪霊の目を見てしまったのだ。心からの憐憫と、そしてそれ以上の侮蔑を以て、悪霊は此方を見ていた。真っ直ぐに、此方を見ていた。
「なに……?」
「過去の蹂躙を忘れた
「……」
あの時、自分には悪霊が何を言ったのか分からなかった。けれど父には分かったようで、咄嗟に言葉を紡げない様子だった。
今なら、自分にも分かる。
嫌と言う程、体験した。
「そして過去の敗北を忘れて、現状に慣れきった
悪霊が、嗤う。
本当の事を、父が欺瞞のヴェールで包み隠した真実を暴露しながら、自分に向かって嗤い掛ける。
心臓を鷲掴みにされたように、あの時の自分は声一つあげられなかった。
「だが本当は、お前達は何一つ忘れられない。積み上がった時間と歴史が忘れさせてくれない」
「黙れ」
「周りを見てみろ。荒れ果てた不毛の大地。蠢く狂暴な獣達に、弱いモノをふるい落とす劣悪な環境。誰が好き好んでこんな場所に住む? どうしてお前達はこんな場所で生きざるを得なかった?」
「黙れ……ッ!」
父の声は、微かに震えていた。噴火直前の怒りがありありと感じられて、きっと普段なら、自分はそちらに震え上がっていただろう。
「耳を澄ましてみろ」
けれどその時は、そんなモノ全然感じてなかった。心臓を鷲掴みにして、魂まで握り締めた悪霊の声ばかりが頭の中に大きく響いて、他に気を回す事が出来なかった。
「この家が、この村が、環境が、歴史が――」
悪霊が、会話の相手である筈の自分を見ていない事に、父は漸く気付いたらしい。反射的に振り返って来て、其処で自分は、漸く父の顔を見る事が出来た。
「――お前達の
その時の、父の顔。
自分は、死ぬまで忘れられないだろう。
「貴様ッッ!!!!」
父が吼える。
自分に対してではない。戸口に佇んで、くつくつと嗤う亡霊に対してだ。
「我が息子を呪ったな!!? 赦さん――!」
一族随一と呼ばれる戦士の咆哮が響き渡る。遠い昔に自分達の土地から追いやられ、不便な土地に順応するしかなかった、恐ろしく、惨めな
その後どうなったのかは、よく覚えていない。
気が付けば自宅代わりの洞窟は半壊していて、自分は父に目を覗き込まれていた。
「父上……」
「お前、何を聞いた!? 何処から聞いていた!?」
「……」
あの時、自分は。
自分達は戦士の裔なのだと、逞しく勇敢な一族なのだと、心の底から信じていた。
信じて、いたのに。
「僕達は、負け犬なの……?」
「違うッ!!」
嗚呼、父上。
誰よりも勇敢で逞しい、可哀想な道化者。
「俺達は負け犬なんかじゃない……ッ!!!!」
本当は誰よりも、貴方が理解していた筈だ。
世界は勝者が回している。そして勝者は、決して敗者を同格には扱ってくれないのだと。
「負け犬なんかじゃないんだ……ッ!!!!」
嗚呼、父上。
あの時、俺を抱き締めながら泣いていた、父上。
あの時の言葉が、涙が。
俺達は負け犬だと言う事を、何より物語ってくれたのです――
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