リィシェ
不屈の匙
01 竜の島の住民
竜の島、尾の中ほど、一丁目五十五番地。
燦々と降る日差しの中、びゅうと吹いた風の青さに励まされて、リィシェは『薬屋』をでた。
肩にずしりとかかるのは薬の重み。樹の皮で編まれた籠からは、ガラスの瓶同士がこすれる高い音が「きゅるり、きゅり……」とわずかに漏れる。
「今日は竜の後ろ足の三丁目まで、行けたらいいなあ」
竜の島は精霊の島。そして、精霊病におかされて迫害された人間たちが集まる島である。
精霊病は体が草木や鉱物に変化していく病だ。かくいうリィシェ自身も精霊病の患者である。
たまたま外を巡回していた『薬屋』の主人である青年に拾われてこの島に来たばかり。
何もしないで世話になるのも落ち着かなくて、頼みこんで薬配達の仕事を任してもらったのだ。
竜の島と名のつくだけあって、この島は背を丸めて寝そべる竜の形をしている。
細かい番地は表札を見ないとわからないけれど、最近この島にやってきたばかりのリィシェでもなんとなく家の位置がわかる。
青い木々の影を借りながら、地図を片手に携え坂道を登る。この島は高低差が激しい。
「ここが精霊のヤドリギだから、北に進んだらいい、はず。最初はドアの横にアカスグリのあるおうち……」
汗と振動にずり落ちためがねの隙間から、多くの精霊の姿が目に入る。
竜の島は別名、精霊の楽園。そう呼ばれるだけあって、リィシェにはまだ見慣れない存在があちらこちらで闊歩している。その数と動きは、めがねなしでは酔ってしまうくらいだ。
めがねを押しあげ、簡単な地図とメモを見比べて、リィシェは右に曲がった。ほどなくして、赤い小さな実をこれでもかとつけたスグリの木を見つける。
品のいい扉を軽く叩き、リィシェは家主に声をかけた。誰かいるといいけれど。
「こんにちは! 竜の尾の『薬屋』です!」
なかなか返事がなくて、メモを見返した。
メモには後ろ足2−8、ドア横アカスグリ、エルマ、夜露の痛み止め、としか書いていない。住所、目印、患者の名前、処方すべき薬が並んだ簡素なメモだ。
おそらく間違ってはいないと思うのだけれど。
「はいはい、今開けますよ」
留守なのかもしれない、それなら次の家に行ってしまおうか。そう思った矢先、カサカサという葉擦れのような音と優しげな声とともに、目の前のドアがゆっくりと開かれた。
引かれたドアの奥には、粉まみれのエプロンに包まれた花束があった。
人間の手足が生えてはいるものの、てんでバラバラの方向に花々がエプロンから咲いて、賑やかな匂いを放っている。
優しげな老婦人を想像していたリィシェは、驚いて硬直してしまった。そんなリィシェをかまうことなく、花束は流暢に話しはじめる。
「おやまあ。噂のお弟子さんかい? ずいぶん可愛いお嬢さんだ。若先生も隅に置けないねえ。
出るのが遅くなってすまなかったね。バターが柔らかくなる前にパイ生地に練りこんでしまいたかったものだから、手が離せなくて。やっぱりパイはサクサクしていた方が美味しいだろう?」
「ええと、初めまして、リィシェと言います。『薬屋』さんに居候しています」
リィシェは話を遮るようにペコリとお辞儀をした。そうすれば、多少は落ち着いた。
目の前の花束の女性ほど精霊病が進行している人を、リィシェは初めて見た。リィシェ自身は治療の甲斐もあって左目がエメラルドのようになっているくらいで、これまで薬を届けた人たちも、腕や右脚など四肢の一部が異物である程度だったのだ。
今は『薬屋』で雑用をしているだけの居候だ、と自己紹介すると、花束は頷くようにゆっくり縦に揺れた。
「そうなの。あたしはエルマだよ。エルマと呼んどくれ。くれぐれも花束ババアなんて呼ばないでおくれよ。せめて花束おばばがいいね。
さあさあリィシェちゃん、そんなところで突っ立っていないでうちに上がっておいき。尾から来たなら腰までの上り坂で疲れただろう。
ちょうど昨日、ジャムを煮たところでね。旬のスグリのジャムだよ。ほら、その木からもいで作ったのさ。ナッツのクッキーによく合うんだ。クッキーは作り置きだけどね、ぜひ食べてっとくれ」
「あ、お構いなく」
「なんだい、一丁前に遠慮かい? そんなところは若先生をマネなくていいんだよ。短い余生の楽しみが一つ減っちまう。若先生は顔と腕はいいけど、付き合いが悪くていけない。
あたしらみたいな老いぼれの話し相手になるのも仕事の一つさ。このあたりはボケた老人が多いからね、同じ話ばかりするんであたしは飽き飽きしているんだ。
ああ、薬箱も奥から持ってくるから待ってておくれ」
もしかしておしゃべりの精霊病なんだろうか。
ほとんど花束になりかけているエルマが怒涛のように話すものだから、リィシェが知らないだけで言動にも影響するような精霊病があるのでは、と疑ってしまう。
いずれにせよ薬の補充はしなければならないから、リィシェはその背中を追って中へとお邪魔する。
家の中はどこもかしこも飴色に磨かれていて、ふくふくとした甘い香りが染みついている。案内されたリビングの中央、深緑のテーブルクロスの上に伏せられた籠の中からは、ひときわ甘酸っぱい匂いがした。
「隣の爺さんがね、上等な茶葉をくれてね。一人で飲むのも寂しいから、一緒に飲んでくれるかい? 最近は誰も来てくれないものだから、菓子も余ってしまっていてね」
「ありがとうございます、いただきます」
甘いものは好きだ。
リィシェは背負っていた籠をいそいそと降ろして、出されたクッキーに艶々としたスグリのジャムを乗せる。
素朴な軽いクッキーとプチプチ弾けるすっぱいジャムは絶妙で、無言になってしまう。無心で赤いジャムをべったり塗って、目を輝かせながらパクパクと口に運ぶ。
さすがに喉が渇いて、用意されていた爽やかな紅茶を飲んで一息ついた。
「おいしかったです! どうやって作るんですか?」
「それはよかった。子どもはそうでなくちゃね。好きなだけ食べておくれ。作り方なら教えてあげるからいつでもおいで。リィシェちゃんなら大歓迎さ。
そう、それとちゃんと薬箱ももってきたよ、この通り。春はけっこう使っちまったから、計算が大変かもしれないね」
リィシェは、エルマに手渡された年季の入った木製の薬箱を開いた。申告どおり、昨日まで回った家の薬箱より空間が目立つ。
小瓶や包みのラベルに貼られた期限を見て古くなった薬を入れ替え、使われた薬を足す。
精霊病は症状によって常用する薬がある程度決まっている。エルマであれば花化の進行を遅くする薬だ。常用しているため、それの補充は必須である。実際にかなりの量が減っていた。
それと、普通の薬。腹痛や頭痛、擦り傷や火傷に効く薬。こちらは交換が多い。
精霊の森から薬を作って、ひと季節に一度各家庭を回って薬を置いてゆくのは、精霊薬師の主な仕事の一つだという。
「なにか薬を使って、体調が変わったことはありましたか?」
「いつも通りだよ。そう、いつも通り。ああでも、少し効きが悪くなってきたかもしれない。それと、春の間に口がなくなったくらい。あとは腰の動きが悪くなってきたように思う。やっぱり歳だねえ。
今度、若先生のところに行くから、伝えておいてくれるかい? そうだね、火の日はいつも休みだったっけね。それなら来週の月の日に行こうかねえ。よろしく頼むよ」
「はい。お伝えしておきます」
リィシェは使われた薬の種類と量、補充した薬を書き留めて、エルマの調子を尋ねた。
もし異変があるなら、『薬屋』に直接赴くか『薬屋』の主人——アロイシウスの往診を勧めるように言われている。
もっとも、精霊病をながく患っているエルマにはその意図はお見通しのようで、促す前に予約を伝えられた。それは備考欄に記しておく。
「エルマさん。夜露の痛み止めを追加して、眠り薬を交換しました。普通の薬は、熱さましと咳どめ、火傷の薬も交換です。銀貨二枚と銅貨五枚になります」
「はいはい、ちょっと待ってね。今出すよ。ええと、財布はどこだっけね、あった、あった。銀貨二枚と銅貨五枚、ちょうどだよ」
「たしかにいただきました」
代金と広げた荷物を片付けてお暇するべく腰を浮かす。その前に、エルマの興味津々といったはずむ声がかかる。
「リィシェちゃんはどこから来たんだい? 島の出ではないだろう?」
「ええと、大陸の北のさびれた山奥の出なんです」
しかも、いつの間にか紅茶のおかわりが用意されていた。
これでは今日
薬の配達のお使いは今日で四日目で、一丁目から回っている。そしてまだ二丁目の二軒目だ。察してほしい。
「大陸! どんなところなんだい。あたしは生まれも育ちもこの島だからね。外の話を聞かせておくれよ。
あの無愛想な若先生にはどうやって拾われたんだい? やっぱりその目かい? あたしらと同じだろ?」
「本当につまらない話です。私はそれより、この島のことやエルマさんのことを聞きたいですけど」
「つまらないかどうかはあたしが決めるよ。あたしはこんな体だから島の外には行かせてもらえなくてね。どんな些細な話でもいいから聞きたいのさ。
あたしの話が聞きたいっていうなら、リィシェちゃんの話が終わったら話すから、ね、どうだい」
薬を配りに回った家々でもう何度もせがまれた話だ。
ほとんどの人は竜の島の外に出たことがないので、大陸と聞いて根掘り葉掘りと聞きたがる。
けれどリィシェは困ってしまう。あまり進んで話したいことでもないけれど、せがまれてしまっては断れない。
リィシェ自身も自分が生まれ育ち、追い出されたあの集落と、近くにあった街以外のことはあまり知らないのだ。
しかし、いまかいまかとリィシェの口が開くのを待つエルマは、まるで子供のようだった。仕方なく、同じ話をぽつぽつとしはじめる。
思い出すのは、ひどくつまらない、ヤギと、乾いた草の匂いと、たまに行った麓の街の喧騒くらいだ。
「私の故郷は、人よりヤギの方が多いくらいの山奥の集落だったんです。寝ても覚めても横にはヤギがいて、春に仕込むヤギのチーズが特産品でした。炙ってパンに乗せて、少しハチミツを垂らして食べるのが最高の贅沢で、家族や集落の人と分け合って食べたものです」
そして、精霊病がリィシェの目と肌を変色させて「俺たちまで石になっちまう。さっさと出ていけ」と罵られ、逃げるように街に降り、そこでも、「出ていけ、見たくもない」と訴える、嫌悪の視線に晒されたこと。
暗くならないように、祭りで見かけた道化師の話し方を思い出して、何度も話すうちにちょっとはうまく話せるようになった。
「まあ、精霊病に罹って追い出されちゃったんですけどね——」
左目の縁をそっとなぞって、涙をむりやり押しこめる。
眼球独特の弾力ではなく、硬質な石を覆う肌の感触が返ってきた。
リィシェの精霊病は身体のあちこちが石化するものだ。身体に浮いた石がやたら綺麗だったからか、野盗に襲われたこともあった。
「集落も街も追い出されても行く当てもないですし、野草と木の実だけじゃやっぱりお腹が空くし、身体はどんどん石になるしで、とうとう動けなくなってたところをアロイシウスさんに拾ってもらったんです。その時にはもう、ほとんど水晶の塊みたいだったそうです」
腹も空いていて、意識もほとんどなくて。そんな状態のリィシェを助けた男は、リィシェには神の使いのようにも思えたのだ。
なんなら死んだのかとも思った。
温かい光が体の外で何度も瞬いて、お迎えっていいものだったんだなと思った。
そして気づいたら、布のベッドで寝ていて、肌から突き出ていた水晶は無くなっていた。ほとんど失っていた触覚も戻っていたのだ。
生きている。
体が思うように動く。
触ればものの温度がわかる。
乾ききっていた涙が熱く頬を伝ったのだ。
そう認識できてどれだけ嬉しかったか。
「大変だったねえ。悪いねえ、歳をとると涙もろくなっていけないよ。
リィシェちゃんの目はとても綺麗な目さ。安心おし、竜の島は精霊病にかかった人間の墓場だからね、馬鹿にする人なんていないさ。
もしもいたら教えておくれ、精霊の森に放りこんでしまおうね。昔の、狭量な人たちのことは忘れちまいな」
「今、私は恵まれているって思いますよ」
エルマに優しく撫でられて、リィシェは笑った。
初対面のリィシェに共感してくれる。嫌な思い出に不快感を示してくれる。それだけですこしは肯定されたような気がするのだ。
もう少しこの島で過ごせば、冷たい視線も必死に逃げた時のことも、面白おかしく伝えられるようになれるだろう。
「それにしても綺麗な目だよ、翠玉みたいだ。あいにく本物を見たことはないけれど。
それにしても島の外で罹ったっていうなら、罹ってからそんなに経ってないだろう? あの先生なら完治させられそうなのにねえ。運がないねえ」
「そうですねえ。私もそう思います」
ただ、リィシェは自分の目が褒められるのはあまり好きではなかった。
リィシェにとっては不幸なことに、この瞳は精霊の姿を映す。
精霊病は精霊が起こすものだ。目にうつる精霊がリィシェの精霊病を引き起した当の原因ではないと教えられても、あまり見たいものではない。鏡を見るたびに抉ってしまいたくなるくらいには。
この目だけはずっと残るだろうと、リィシェは助けられた後にそう言われた。
そして、精霊が見えるようになるという後遺症はとても珍しいために、現在『薬屋』で様子を見られている。
運がないというエルマに、リィシェは曖昧に頷いた。
そこからはエルマに竜の島の生活や他の住人について色々と話を聞いて、さらにお昼ごはんまでご馳走になった。
「若先生が人をそばに置くのは久しぶりだからね。あたしたちも『薬屋』の後継ができて安心さ。リィシェちゃん、修行は大変かもしれないけれど頑張っておくれ。島の期待の星だよ!
そうそう、スグリのジャムと、パンとクッキーを包んでおいたからね。若先生と食べておくれ。あの先生、一人じゃ薬草をかじって済ましちまうからね。頼んだよ」
「はあい」
空いた籠の隙間は、手渡されたお裾分けですぐに満たされてしまった。
最後までしゃべり通しだったエルマに見送られ、リィシェは「今日はあと一軒まわったら終わりだなあ」と太陽を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます