02 弟子になりたくて(上)
今日もお裾分けをたくさんもらって、リィシェは鼻歌まじりに緩やかな坂道を下る。
何日もかけて、『薬屋』の家主——アロイシウスが担当している区域の家庭には挨拶ができた。
皆、なにかと声をかけてくれるし、任された仕事も手応えがしっかりあるのもあって、その足取りは軽い。
前方の鬱蒼とした木々に垣間見える、赤とオレンジのまだら屋根の小さな店が、居候先の『薬屋』だ。扉には人を拒むように「準備中」の札がかかっている。
もう日は高いけれど、アロイシウスはまだ寝ているのだろう。
リィシェはいちおう、従業員扱いなので、裏口から店に入る。
「アロイシウスさん、戻りましたよ」
挨拶をしても、肌寒く薄暗い空間に自分の声が間延びして響くだけだ。
調合室近くのカウチでは、白い塊がゆっくりと上下していた。アロイシウスだ。見慣れてしまったが、
(やっぱり。まだ寝てる。うなされるならベッドで寝ればいいのに)
お昼ご飯を作り終えたら起こそう。
リィシェはそう決めて倉庫へと向かった。
(えーと、これは破棄予定の箱に入れて。これはそろそろ傷んじゃうから食べないと)
倉庫には所狭しと、素材と作りかけの薬が保管されている。リィシェは背負い籠の中から、新しい薬を元の棚に戻し、回収した古くなっていた薬を破棄予定の箱に並べた。
ついでに傷みそうな野菜やいい塩梅の肉を手に取る。
リィシェは『薬屋』で、家政婦のようなことをしている。掃除も洗濯もするけれど、メインの仕事は料理だ。エルマの家に出入りして、レシピを教わることも多い。
(キャベツと、タマネギにセロリ。これならお昼はスープかな。あとは、お豆があるといいんだけど……、あった、あった)
倉庫の入り口近くに乾燥豆の瓶がおいてあったので、それを使わせてもらうことにする。
竜の島では煮崩れるまで煮込むのが一般的だ。お裾分けしてもらった野菜を細かく刻んで、いつからあるのかもわからない干からびた豆を水で戻して鍋に入れる。
エルマからドライフルーツを練りこんだ揚げパンをもらったので、それと一緒に出せばいいだろう。しかし、やはりそれだけだとすこし寂しいからズッキーニと肉を和えようか。
(……今日はなんだか精霊の数が多い、ような?)
優しいにおいが沸きたつスープの様子を見れば、途端に湯気でめがねが曇る。拭おうとめがねを外すと、何体もの精霊が楽しげに鍋の中で泳いでいた。
竜の島に来て料理をするのは初めてではないけれど、鍋で精霊たちがくつろいでいるのは初めて見た、と思う。毎回見ているわけでもないので比べようもないが。
それにしても熱くはないのだろうか。ここは精霊の島であるし、料理に混ざるくらい珍しいことでもないのかもしれない。
リィシェはあまり気に留めず、スープの味を調え、精霊を避けて柄杓でかき混ぜた。我ながらいい出来だ。
木の器に注がれたスープはとろりと光を反射している。アロイシウスが気に入ってくれればいいと、リィシェは毎回淡く期待している。
残されることはないけれど、美味しいと言われることもない。居候を始めてからずっとなので、そろそろ言葉がほしいと思うのだ。
エルマには太鼓判を押されているけれど、不安なものは不安なのである。
めがねをかけなおせば、器から精霊の姿が見えなくなった。
「アロイシウスさん、起きてください〜。お昼ですよ! お、ひ、る!」
「今日は定休日だろう……」
「今日は土の日ですから、営業日です」
「どうせ患者は来ないだろう……」 「まあ、それはたしかに、来ないでしょうけど」
もぞもぞと控えめに抗議する姿はとても年上の男性には見えない。
リィシェが居候をしはじめてしばらく経つ。
恩人という事実に目を瞑ると、アロイシウスはモップの精霊という印象がある。
象牙の髪も髭も伸ばしっぱなし。自己申告を信じるならば彼は三十路の男性である。
午前中はたいてい調合室そばのカウチで胎児のように丸くなって寝ている。毛布も作業着も白いものだから、その姿は新品のモップかそういう犬のようだ。
精霊除けのめがね越しでもくっきり見えるし、話すこともできるので、彼は精霊ではなく人間のはずだ。
こちらが用意しないとなにも食べずに一日中寝て過ごしそうな人ではある。生活能力があまりにも低いので、精霊と言われた方が信じられる気さえする。
リィシェは、はやくもこの命の恩人には誰かしらの世話が必要なのだと悟りはじめていた。
「アロイシウスさん、スープを作ったんです。エルマさんから揚げたパンもいただいたんですよ。冷める前に食べましょう?」
「……わかった」
食事を用意していると告げると、しぶしぶとはいえ起き出してくれる。
顔を洗いにいったアロイシウスを見送って、リィシェは意外と揃っていたカトラリーと食事を並べて席に着く。
「ほう。これほど精霊が混じった食事は初めて見る」
相変わらずけむくじゃらだけれど、顔を洗ってさっぱりしたらしい。アロイシウスは象牙の髪の隙間から好奇心をたたえた瞳を覗かせ、感心したような声をあげた。
「この島で作れば、どれも精霊まみれになるんじゃないんですか?」
「精霊は純粋なものを好む。精霊の影響の少ない混合物になど、好んでは寄りつきはしないな」
向かいに座って匙を手にとり、一口掬いあげたものの、アロイシウスがそれを口に運ぶ様子はない。
「何かお嫌いなものでも?」
違うと知りながら、リィシェは尋ねずにはいられなかった。
パプリカが嫌いなのは知っている。あとは、ニシンのパイ。いっさい手をつけなかったのでよく覚えている。
今回スープに入れたもので初めて使用したのは豆くらい。もしかして豆も苦手なのだろうか。
「いや、そうではなく……、これはもしかして、スズナリエンドウか?」
「スズナリエンドウ……? 初めて聞く名前です。倉庫の入り口のあたりにあった乾燥豆を、戻して入れたんですけれど。もしかして、貴重な薬の素材だったりしますか?」
倉庫の奥は薬やその素材を、手前には食料を、というふうに使い分けていると言われていたから油断していた。
なに食わぬ顔で咀嚼するアロイシウスに対して、リィシェは顔を真っ青にして手元に目を落とした。
「そうだな。薬の材料だ。……ふむ。美味い」
ほしかった言葉をもらっても、今は慰めの言葉にしか聞こえない。
薬は高価だ。リィシェはあまり医者にかかったことはないが、下手をすれば数ヶ月分の食費がとぶとは耳にしていた。
このスープ、今までで一番高い食べものかもしれない。道理で美味しい。
……現実逃避をするのではなく、弁償しなければ。
「と、採ってきます!」
「たしかに今日の調合で使う予定ではあったが、スズナリエンドウは尾の先の精霊の森に生えている。危険だ」
「でも」
「許可はできん」
淡々としたアロイシウスの口調からは感情が読めない。
言い募るリィシェに、少し困ったような色を乗せてアロイシウスは言葉を続けた。
「明日からは女中がくる。これからは別にお前が家事をする必要はない」
「え」
リィシェはガラガラと自分の立場が崩れていくような気がした。
ただでさえ、最初に救われたときの費用を返せる当てもないのに。
ここでの仕事を奪われてしまったら。
ここにいられないなら、どこにも居場所がないのに。
リィシェはそれを理解した途端、衝動的に立ち上がって叫んだ。
「わ、私、明日からどうしたらいいんですか!? お役ごめんなんでしょうか?」
「別に、好きに過ごせばいいだろう? お前はどこへだっていける」
「それなら、家事をさせてください。私にここの仕事をください! まだ、お代は払い終えていないはずです!」
リィシェがなぜこんなに興奮しているのか、アロイシウスには理解されていないと悟っていた。
言い募るリィシェを不思議そうに見返す紫紺の瞳がそれを雄弁に語っていた。
「そうは言ってもな……。お前は精霊と契約しているわけではないから、俺の仕事は手伝えない」
一拍の間をおいて、アロイシウスはリィシェの気持ちがわからないなりに、自身の仕事を手伝わせる条件を丁寧に伝えた。
リィシェに仕事を諦めさせるために。
精霊病の薬師は、普通の人間であればまず縁のない、能力的にできない仕事である。なにせ精霊との契約が必要であり、その契約は精霊に気に入られて成り立つものであるからだ。
「……精霊と契約して半人前、屋号を得て一人前。見えるだけでは不十分だ。精霊に関わるには精霊と意思疎通ができなければならないと決まっている」
けれどリィシェにとっては、そうではない。自分の居場所を守るための試練で、到底諦められるものではないからだ。
「精霊と契約できれば、アロイシウスさんのお仕事、手伝ってもいいんですね?」
「まあ、頼む仕事もあるだろう」
念押ししたリィシェの迫力に、アロイシウスは頷いた。事実だからだ。
それを確認したリィシェは、昼食を残して『薬屋』を飛び出していってしまった。
(養子の話をし損ねたな……。エルマのところに向かっているといいが)
止める間もなく飛び出して行ったリィシェにするはずだった話を思って、アロイシウスは困ったように薬草のにおいが染みついた指で顎をさすった。
先ほど飛び出していった少女には、何人かの島民から養子にしたいと打診を受けていた。人当たりがよく素直でよく働くので、気に入られたのだろう。
その何人かの中から親を選ぶようにと勧めるつもりだった。
どうにもアロイシウスの世話に責任を感じているようであったから、雇う予定もない女中の話をしたのだけれど、逆効果だったらしい。
「ふむ。美味いな……」
アロイシウスは粛々と残された料理を腹に収めた。食事が用意されるのもあと数日かと思うと、少し残念ではある。
どうやら胃袋を掴まれたらしい。薬草をかじる生活に戻るくらいなら本当に誰かしらを雇おうかと、アロイシウスは頭の隅で検討をはじめた。
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