03 弟子になりたくて(中)


 リィシェは真っ白になった思考で飛び出した。誰にも会いたくなくて、足は自然と坂を下っていく。

 竜の尾には民家は多くない。住所だって一丁目しかない。二丁目より先はうんと昔に精霊の森に飲みこまれていて、『薬屋』が最南端の家だ。

 石畳はいつのまにか土や草に塗れてとぎれる。ようやく足を止めたのは、目の前に青い泉が現れたからだった。

 水面には鏡のようにくっきりと、今にも泣き出しそうな、怒り出しそうな、赤くてブサイクな顔が映っている。


「また捨てられちゃうのかな……。それは、やだなあ……」


 ぽつりとこぼれたありえそうな未来に心は萎んでゆく。

 アロイシウスの表情は見えなかったが、あれは「いてもいなくてもいい」という調子だった。

 どん底にいたリィシェを助けておいて無関心だなんて、ひどい人だ。リィシェはぶつけようもない怒りにぎゅっと目を瞑った。ボタ、と涙がめがねを汚す。


(いけない。めがねが錆びちゃう)


 金属製のフレームに水気はよくない。あふれた涙を拭おうとめがねを外すと、途端に泉の精霊だろうか、水色の少女たちがチカチカと視界に瞬く。


(そっか、精霊……。精霊と契約したら、役に立てる。せめて使っちゃったスズナリエンドウを採ってこれたなら、『薬屋』に戻れる、よね)


 リィシェは『薬屋』をでる直前のアロイシウスとの会話を反芻する。

『精霊と契約できれば、アロイシウスさんのお仕事、手伝ってもいいんですね?』

『まあ、頼む仕事はあるだろう』

 確かにそう言ったのだ。


(私は、精霊が、見えるんだ!)


 リィシェはその事実に改めて気づいた気持ちだった。パッと視界がひらけたような気さえしてくる。

 竜の島に来てあまりの精霊の数に驚き、その視界に酔ってこの精霊除けのめがねを借りたけれど。どこにいっても異形とそしられる瞳を疎ましく思っていたけれど。


(これはチャンスなのでは?)


 泉に遊ぶ精霊たちがニヤニヤとこちらを眺めている様は、実に意地が悪そうだ。彼らの表情は雄弁で、声が聞こえなくても意図はわかる。

 リィシェはめがねをポケットにしまい、精霊に頭を下げた。


「私と契約してくれる精霊さんはいませんか! それか、スズナリエンドウが生えている場所を教えてください!」


 ぱしゃり。水が不自然に波打った。

 顔をあげると、精霊たちはびっくりしたように目を見合わせている。小さな手を動かし、リィシェを横目に窺いながら相談しているのを、リィシェは緊張した面持ちで見守った。

 しばらくして、彼らはイタズラっぽく笑って「あっち、あっち」と森の奥を指差した。

 契約はしてくれないようだけど、スズナリエンドウがある方向は教えてくれるようだ。


(森の中か……)


 リィシェは渋い顔で暗く沈む森を見た。

 エルマの話では、竜の尾の中ほどより先は、比喩でなく、精霊の世界らしい。

 覚悟はしていた。アロイシウスは「精霊の森に生えている」と言ったのだから。一般人には危険だとも。

 チラ、とこちらを面白そうに窺う精霊たちを見る。まるで「せっかく教えたのに、行かないのか?」とでもいうような、試すような目をしている。

 リィシェはゴクリと唾を飲みこんで、黒黒とした森に踏みこんだ。


「精霊さん、精霊さん、こんにちは。契約しません? ……だめですか」


「スズナリエンドウがどこにあるか、教えてくださいな。……ありがとう!」


 森にまう精霊たちに契約を持ちかけても、目を逸らされたり舌を出されたりしてうまくいかないが、エンドウマメのありかに関しては別だった。一瞬驚くも、なんだかんだと親切に道を教えてくれる。

 木々の根がでこぼことして足を取られるけれど、歩けないほどではない。葉が風に擦れる音だけが静かにあり、木々は鬱蒼と茂っているけれど、精霊が放つ淡い光がそこら中に漂い、視界は思ったよりも良好だ。


(アロイシウスさんは、精霊さんと契約しなきゃダメって言ってたけど。別に契約しなくてもお願いすれば聞いてくれるじゃない)


 ふかふかと蔓延るヒカリゴケに水玉模様のきのこ、甘い香りを放つとりどりの花、軌跡が光る蝶たち、ツヤツヤとした木の実、水晶が生える木々はどれも見たことがなく、どうにも目移りしてしまう。

 精霊たちに指示された方向へできるだけ真っ直ぐ歩き、進めない場所に差し掛かったら迂回して、適当なところでそのあたりにいた精霊に道を尋ねる。リィシェはそれを繰り返して森の奥へ奥へ——精霊の影響が濃い方へと足取り軽く進んでいった。


 山で山羊を追いかけ回していた頃に比べればさほど動いていないような気がするのに、手足が重い。

 ほっほっとつく息のスピードも早く、そして荒くなってきたことに焦りを感じてきたころ、風に溶け残る、リィン、という音が、はるか上空から流れてきた。

 リィシェが上を見上げると、ようやくマメ科のものらしき鞘が鈴生りに生った蔓が目に入った。絶壁の途中にへばりつくように生えている。


「あれかな? ねえ、精霊さん、あれがスズナリエンドウなの?」


 そうだよ、とでも言うように、近くにいた土の精霊が両手でマルを作った。見つけたはいいものの、素手で登れるような高さではない。


「崖の上かあ……」


 どうにか登れる場所はないだろうか。リィシェはその場でウロウロとあたりを歩き回る。

 せっかく見つけたのだ、あまりそばを離れたくないと思うのは当然だろう。

 一回この場所を離れるか、と決意したところで、がさり、と背後の茂みが大きく揺れた。


「グルルルル……」

「嘘でしょ! 森に、島にあんな化け物がいるなんて聞いてない!」


 涎を垂らし白目を剥いた、野犬のようなもの。頭には花が咲き乱れ、その根が脳に潜り腹を突き破り体液をこぼしている。醜悪な獣には、およそ理性というものがなさそうだった。むしろ、なぜあれで生きているのか。

 すぐさま身を翻して、獣のいる方向とは真逆に走る。


「ハッ、ハッ……」


 リィシェは素早く周囲を見渡し、精霊が手招く方へと方向を変える。獣はしつこくリィシェを追ってくる。

 執念深いが、足の速さはリィシェとさほど変わらないのが救いだろうか。

 生臭い吐息がずっと、付かず離れず耳に届く。


「アオォォォォォン!」


 しぶといリィシェに痺れを切らしたのか、花に巣食われた獣は遠吠えを上げた。

 がさり、がさり。

 明らかに、自分を追う足音が増えた。


(仲間を呼んでいる……!? 近くにいたの!?)


 地面に隆起した木の根に時々足を取られながらも、リィシェは走る。

 野党ではないから、身を隠しても嗅ぎつけられてしまうだろう。どうにか振り切るしかない。

 ゼイゼイと喉と肺を軋ませ、精霊の誘導に従ってたどり着いた先には、何もなかった。


(崖……!?)


 慌てて立ち止まった足元から、からりと石が落ちていく。恐る恐る下を覗きこむと下には森が続いているけれど、このまま飛び降りたら死ぬのは明らかだ。


「ハッ、ハッ……」


 すぐ後ろに迫った荒い息遣いに振り返り、正体を失った獣と睨み合う。

 拳を構え、じり、と後ろに下がる。獣もその分の距離を詰める。

 踵が半分、空を踏んだ。

 じわりと汗が額を伝う。


(もう、飛ぶしかない)


 逃げ場がないと確信した獣が、リィシェに飛びかかる。

 それより一瞬早く、リィシェは空に倒れるように身を投げた。


「風の精霊さん、私を浮かべて!」

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