04 弟子になりたくて(下)


「風の精霊さん、私を浮かべて!」


 リィシェは力一杯空に叫んだ。空にはたくさんの精霊がいる。

 空気に半分溶けた姿の彼らは、落ちていくリィシェをチラリと見て、無視した。そのまま気ままに飛んでいく。


(嘘でしょ!!! ここまできて裏切りってあり!?)


 ゴウゴウと風が煩い。

 落ちる前にいた崖はあんなにも遠い。こちらを覗きこむ野犬がどんどん小さくなっていく。


「植物の精霊さん、下で私を受けとめて!」


 リィシェは別の精霊に向かって叫ぶ。

 精霊が応えてくれるかは、もはや賭けであった。

 だが、リィシェはその賭けに勝ったらしい。


「いててて……」


 ズザザザ、と音は派手であったものの、リィシェはなんとか木々に柔らかく受けとめられた。

 流石に擦り傷は免れなかったけれど、床に落としたトマトのようになるのは避けられたらしい。ほっと息をついて、落ちたままの格好でしばらく放心した。

 あとは変に絡まってしまった枝から腕や足を引っこ抜いて木から降りればいい。


(……! あれっ、身体が、う、動かない……!?)


 とりあえず身を起こそうとしたところで、体の左側がうんともすんとも言わないことに気づく。

 自分の左足が枝の上にあるのに、その感覚がわからない。

 左の指先には碧い結晶が浮いているのが見える。

 動く右手で顔を撫ぜれば硬質で冷たい水晶の感触。

 覚えのある感覚だ。


(精霊病が、再発した……? 治ったはずじゃあ)


 背筋にどっと冷や汗が伝う。その感覚すら一枚のガラスを挟んだように遠い。

 感覚がどんどん失われていく。


(ここで水晶の塊になって、そのまま朽ちていく……?)


 じわ、と涙が出てこようとするのを必死におさえて、周りに視線を走らせる。

 左右には葉の緑。正面にはリィシェが落ちてきた青い青い、抜けるような空。

 憎らしいほどに何もない。


(なにか。なにかないの!? 誰か——)


 その視界を四角い影が横切った。


「——アロイシウスさんッ!」


 それがなんなのか、考える前にリィシェは目一杯叫んだ。自分を助けてくれるだろう人の名前を。

 無理やり動かした喉からキリキリと石がぶつかるような音がする。

 痛くない事実に堪えきれず、涙が溢れた。


「アロ、イシウス、さん、助けて……」


 グスグスと未練たらしく名前を呼ぶ。

 しばらくそうやって泣いていると、風の音が変わった。バタバタと布が風に暴れる音だ。

 もう逃げようもない。左はほとんど水晶になってまぶただって閉じられない。

 大きな影が頭上にかかった。


「ここにいたか」

「アロイ、シウス、さん?」


 その影——丹念に刺繍が施された絨毯の上から、琥珀のような声と一緒にひょこりと白いモップが出てきた。アロイシウスだ。

 彼の髪はひどく乱れていた。元からかなり乱れていたけれど、長い髪の毛があちこちで鳥の巣を作っている。

 絨毯から飛び降りたアロイシウスは、リィシェに絡まった木々を切り落として地面に降ろした。


「ア、ロイ、シウス。さん……!」

「怖かったか」


 右に感じる人の温度に力が抜ける。リィシェは動く右手でアロイシウスの服を掴み、べそべそと嗚咽を漏らした。


 ああ、助かったのだ。

 また手をかけさせてしまった。申し訳ない。

 でも、生きている。

 生きている。


 安心して、涙が止まらなかった。

 瞳は硬くこごっているのに、不思議と涙は液体だ。きていた服は瞬く間にまだらのシミ模様になる。


「なん、で」

「なんでもなにもない。竜の尾の森は俺の管轄だ。侵入者があれば救助、または排除をしなければならない」

「わたしは、侵入者、扱いで、は?」

「何を言う。お前は精霊に誘われて森に入った。そう言うことにしておけ」


 ぽん、と、節くれだった手がリィシェの頭に置かれた。

 そして少し目を細めた、と思う。髪に隠れてよくわからないけれど。


「第一、俺は精霊薬師。精霊病にかかったものの安寧に励む者と定められている」


 アロイシウスは言い聞かせるように強く言った。そしてリィシェの右手を剥がし、少し咎めるように尋ねた。


「石化症状が再発しているのは。さては精霊に願ったか?」

「……はい」

「無茶をする。精霊任せで願ってよくもまあ命を取られずに済んだものだ。運がいい。横たえるぞ」


 リィシェはややためらって、素直に頷く。言い訳できないありさまだからだ。

 アロイシウスはため息をついて、横に漆塗りの薬箱を開き、薄い革の手袋をはめ、厳かに宣言した。


「——治療を開始する」


 上段から取りだした青い粉末を清らかな水に溶かして、リィシェに振りかける。

 最初に治療されたときは意識がほとんどなかったので、実際の治療を目の当たりにするのは初めてだ。

 緊張と、不安と、隠しきれない期待が強く出る。


『*******』


 アロイシウスの琥珀の声が朗々と何事かを紡ぐ様は、音楽の始まりを思わせる。

 耳に心地よい音の連なりがしんしんと身体に降り積り、温かい光がボウといくつもの幾何学模様を描いては消えていく。

 はらはらと石が肌から浮き、手足にじんわりと熱が灯る。

 どんどん自由になっていく気がした。


『*******、*****? ————***!』


 順調に治療が進んでいるように思われたが、リィシェを見るアロイシウスの表情は、ひどく険しい。どこか慌ただしい音が連続して発せられている。

 治らないのだろうか。


「何があったんですか?」

「あー。いや。甘くみていただけだ」


 リィシェは思わず声をかけた。また涙がこぼれそうだった。

 アロイシウスはうめき、眉間を揉む。深々とため息をついて、真っ直ぐにリィシェを見た。


「……お前を精霊士にする。お前がこの精霊と契約しなければ、心臓が弱ったまま固定されてしまう。どうする?」

「精霊士になります!」

「……そうか」


 リィシェは迷わず返事をした。自由になった喉は堂々としたものだった。

 アロイシウスは苦い顔をして薬箱から別の薬を取りだした。そしてそれを自ら飲みくだし、ざらついた声で精霊を呼ぶ。


『*******』


 アロイシウスの呼びかけに応えて現れたのは深海に潜む、美しくも凶暴な人魚だ。

 深い青を湛えた全身、強靭な魚の下半身が力強く空を叩いた。

 目の下まで裂けた大きな口が発した一節が、リィシェに向かって放たれる。

 リィシェはその衝撃波のようなものを確かに感じて、思わず目を庇った。


『__【泡を弔う者ジーミミン】。感謝する。対価は朧柳オボロヤナギの蜜の飴でどうか?』

『朧柳の蜜の飴! でも今日は、色男が見たい気分なの』

『__髭をそれと?』


 先ほどまで聞こえていた、アロイシウスの琥珀の響きが意味を伴う。音の連なりがいきなり会話になり、リィシェは目を見開いた。

 人魚もまた、渦潮の音で会話をしている。あまりリィシェには興味がないようで、渋い顔のアロイシウスに纏わりついているが。


『髪も切ってちょうだい』

『仕方ないな、今日中に整えよう』

『そうこなくちゃ』


 音と言葉は近いようで、遠い。

 精霊はかくもあざやかに意思を持っているのか。

 アロイシウスに身だしなみを整えるよう要求し終えた人魚が、リィシェを——正確にはリィシェの左目を見て、片目を瞑った。


『ああ、もうお嬢さんには聞こえているわよ、左目のおチビさん』


 何を、と答えようとして、その途端、ずるり、とリィシェの身体——否、瞳から何かが抜けて、代わりに丸い毛玉が現れた。

 それはよく肥えた雪狐を思わせた。

 ただし、耳は大きく、尾は身の丈より長い。極めつけに、白い額には燃える炭のように赤い石がある。


(綺麗……!)


 ゆるゆると開かれた瞳の輝きに、リィシェは惚れ惚れと見入った。

 リィシェと揃いであつらえたようなエメラルドが嵌って、嬉しげにキラキラと輝いていた。

 カン、と高い音に現実に引き戻される。アロイシウスがいつの間にか、四角く削られた木片を手に握り、力ある言葉を紡ぐ。


『__洗礼の儀を行う。見届け人は我、【天秤のフィロントゥー】。精霊、汝の名を愛し子に。汝に捧ぐべき贄を愛し子に告知せよ』


 カン、と木片を叩くと、火花が散った。

 目の前の狐もどきの精霊がそれを喰む。

 ゆるりと尾を揺らして、精霊はご機嫌に吠えた。


『ぼくの名前は、【涙を枯らす者トゥランクリュ】。望むは人の子の感情の揺れ、みどり色の露石、それから満月の翌朝の朝靄』

『契約者の命尽きるまで、その魂魄を愛づるか』

『誓う』


 再度、カン、と木片が叩かれる。今度はリィシェの目の前に火花がパチパチと弾けている。

 精霊は、期待したようにこちらを見ている。


『【涙を枯らす者トゥランクリュ】の愛し子よ。汝の名を告げよ。庇護者の名を繰り返し、加護を受諾せよ』


 チラリとアロイシウスを見ると、頷かれた。

 リィシェは動くようになった両手でそっと火花を包み、口に運んだ。

 ごくりと、その白い喉が上下する。

 ああ、精霊と契約するのだ。


『__私は、リィシェ。【涙を枯らす者トゥランクリュ】の加護を受け入れます』

『ここに契約は成った』


 カン、という音が再度高く鳴り、リィシェの瞳が熱くなる。

 同時に、身体に浮いていた石片が、接点を失ったようにはらはらと抜け落ち、地面に当たって細かく砕ける。


「う、わあ! アロイシウスさん、動きますよ! ほら! 完璧です!」


 リィシェは脱皮したように、軽くなった体で飛び跳ねた。

 思うままに動く手足に感動する。この感動は二回目だけれど、少しも褪せることがない。


「素人判断するな。右手、左手をあげて水平に伸ばせ。そのまま目をつぶって。……よろしい。次、後ろに手を回せるか?」

「はい」

「痺れは?」

「ないです」

「よろしい。店に戻ったらもう一度検査だ」


 アロイシウスにぴしゃりと叱られて、指示に従って体を動かしていく。固まっていた左の手足も思い通りに曲がり、どこにも異常はなさそうだ。指でカエルも作れる。

 一通り見聞した後、アロイシウスはまあいいだろうと言いつつ、鋭い目をリィシェに向けた。

 お説教だ。リィシェは瞬時に悟って、ピンと背筋を伸ばした。


「いいか。よく覚えておけ。対価なしに精霊に願ってはならない。アレらの苗床は人間だ。お前はその身をもって知っているだろう」

「もしかして、私ほんとうに危なかったんですか」


 森に入ってからのことを説明すると、アロイシウスは深々とため息をつく。

 その反応に、リィシェはどうしてもびくついてしまう。


「そうだ。お前の瞳に固執していた精霊がお前の代わりに対価を用意していたからこそ、お前は石化症状のみで済んでいた。そうでなければ今頃、人の形をした花や虫、小石の集合体だっただろう」

「あの、花が生えた犬みたいに?」

「なんだ、精霊獣に遭ったのか。本当によく生きていたな。……そうだ」


 一歩間違えれば、今頃リィシェは花や石のキメラ——道中襲ってきた野犬のように正体を失っていただろう。

 アロイシウスの口調はあまりにも淡々としていて、それが逆に真実味を覚えさせた。

 楽しげだった精霊たちの笑みが急に恐ろしく思える。

 さっと顔を青くするリィシェの目の前に、す、と篩と小瓶、それとピンセットが差し出された。


「お前が落とした結石は拾っておけ」

「結石? ってもしかして、私の抜け殻ですか?」

「そうだ。こうやって、ゴミは入れないようにな。精霊薬のいい素材になるだろう」


 何に使うのかと思えば、散らばった水晶を集めるという。

 リィシェは大人しく水晶やエメラルドの欠片を拾い、手渡されたふるいにかけて砂利を除き、ピンセットでつまんで瓶に入れる。

 細く日の光を反射するそれは綺麗だが、さきほどまで自分の皮膚であったそれを集める行為は、どことなくおぞましく思われた。


「悪いな」

「何がですか?」


 唐突な謝罪に、リィシェは首を傾げた。

 精霊病を治せる者は多くない。医者にかかれただけでも運がいいし、命を拾ってもらって、リィシェは感謝しているのに。

 今だって助けてもらったところであり、何に謝っているのかわからなかった。


「目だ。両眼が石になった」


 なんだそんなことか。

 リィシェは指の腹で瞼の上を押さえた。確かに、両眼ともに硬質な感触が返ってくる。

 けれど、もう逃げないと決めたのだ。

 片目でも精霊と意思疎通ができた。精霊と契約して、精霊を見られる目は二つになった。できるようになることは、朝よりは増えているはずで、きっとアロイシウスの役に立てる。

 そう思えば、幸先のよい祝福にさえ思える。今朝までは呪いのようにさえ思っていたけれど。


「いいんです。この眼なら精霊が見えるので!」

「そうか」

「アロイシウスさん、せっかくですからスズナリエンドウ、持って帰りましょう! 逃げる前に見つけたんです、空飛ぶ絨毯があれば採れます」

「……ただでは起きんな、お前は」


 リィシェはアロイシウスに向かって弾けるように笑みを浮かべた。相槌を打たれただけだけれど、リィシェはそれで満足した。

 並んで鞘をプチプチと毟る姿は、遠目に見れば親子のように見えたかもしれない。

 風呂敷いっぱいに摘んだ豆を抱えて、二人は絨毯に乗って帰路に着く。

 眼下で夜が忍び寄っている。ポツポツと光を漏らす家々からは炊事の白い煙が何本も空にのびている。


「リィシェ、このエンドウで、何が作れる?」

「せっかく補充したのに、使っちゃっていいんですか?」

「薬の素材だが、食えるのはたしかだ。なに、問題ない。あのスープを食べてから調子がいいから、他のものも食べてみたくなった」


 リィシェはこれからもアロイシウスの傍にいられるのだと嬉しくなった。

 先ほど収穫したエンドウマメは、人の手が入らないところに生えていたからか、ソラマメよりも太っているものも多い。

 豆料理はいろいろあるけれど、今日はうんと手間をかけておいしいものを作りたかった。


「クロケットとか、どうでしょう。お芋と一緒に蒸して、ころもをつけて揚げるんです。油は新しいのを用意したほうがいいですね」

「なら、買おう。この時間なら、急げば店仕舞いに間に合うはずだ」

「アロイシウスさん、お店の時間把握してたんですね。うんと美味しいクロケットを作りますよ!」


 二人を乗せた絨毯は、食品を扱う店の方へとゆっくり傾いた。

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