幕間 残された手がかり


 薬草の匂いが染みついた調合室で、アロイシウスは瑞々しい獣の脚の一欠片に作ったばかりの薬液を垂らした。

 赤い液体はじっとりと肉片を濡らすだけで、光を散らす様子はない。念のため、焼いてみても肉が焦げることはなく、時の精霊の影響は健在だ。


(この配合も失敗か……。しかし、もうすぐ時の精霊病の試験体もなくなる)


 師であるミシェーレの時を戻すための研究は、端的に言って行き詰まっていた。眉間を揉んで、今回のレシピの結果欄に「効果なし」と記入する。

 時の精霊病にかかった個体はそうそうお目にかかれるものではない。アロイシウスの手元にあるサンプルは時の精霊病の影響で腐ることもないが増えることもない。

 師の精霊に課せられたタイムリミットまで、あと一季節あるかないか。閉塞感にどうにもため息が溢れる。

 とにかく、実験をしないことには最適な配合などわからない。次の実験に取りかかろうとすると、調合室の外からアロイシウスを呼ぶ声がする。


「お師匠さま〜、パンケーキできましたよ! 休憩にしましょ。蓮華の蜂蜜も買ってきたんです」


 お師匠さま、と呼ぶ声は弾んでいる。そう呼ばれることにも最近は慣れてきた。

 アロイシウスは「今行く」と答えて、甘い香りのする居間へと向かった。

 テーブルには懐かしいパンケーキが重ねられていた。師がたまに作ってくれたものと同じ、シンプルで薄っぺらいもの。

 買ってきたのだろう蓮華の蜂蜜を自分の好みより多くかければ、記憶通りの見た目になる。


「うまいな」

「エルマさんから教わったレシピですから!」


 蜜をたっぷりと吸った生地は甘すぎるほどに甘い。

 エルマに教わったと言うことは、味はほとんど同じだろう。もうアロイシウスはミシェーレの手料理の味もあやふやだ。せいぜい、美味しかったとか、甘かったとか、そう言う感想しか思いだせないくらいに。

 正面で精霊の取り分を用意し、機嫌よくパンケーキを頬張るリィシェを、アロイシウスは眩しく思った。

 昼前に『薬屋』を追い出したが、ずいぶん気分が上向いたようだ。眠り薬がうまくいかないと根を詰めていたから、少し心配していた。


「いい気分転換になったようだな」

「ハイ! ヴァーさんってすごいんですね」

「ヴァー……?」


 リィシェの口から出た人物に心当たりがなく、アロイシウスは食べかけのフォークをおろした。島民にそんな名前の人間も、そういった愛称をつけられそうな名前の人間も、覚えがない。

 アロイシウスが困惑したことに、リィシェも戸惑っているらしかった。おどおどとヴァーについて説明されるが、本当にわからない。


「ミシェーレさんのお友達だって言ってましたよ? お師匠さまとも面識があるみたいでしたけど。竜の肋骨で、墓守をしている……」

「竜の肋骨には墓守などいないが。それに、竜の島にはヴァーという名前の精霊士はいない」


 島にいる精霊士の名前は把握しているし、外部から誰かが島に渡ってくる際は事前に通達がある。ここ最近、そういった連絡はなかった。

 また、竜の肋骨には月に一度、欠かさず行っているが、アロイシウスはそこで自分と祈り続ける師以外を見かけたことがない。


「えっ。でも私、ヴァーさんにランプを渡されて、墓守だって自己紹介されましたよ。今日別れる時だって、目の前から消えたし、普通の人にはできないと思います」

「目の前から消えただって……? そんなことができる精霊士は、師以外にはいないはずだ」


 目の前から消える。姿隠し程度であれば、可能性はあるが、リィシェの口ぶりからすれば転移の類だ。

 それは精霊の中でも力ある精霊でなければ不可能で、現在それが可能な精霊士はいない。ヴァーという男は未登録の精霊士か、さては——。


「詳しく話せ。今日の……、いや、墓参りの日から」


 ヴァー・ゲーテハイド。

 ミシェーレとは深い仲で、見た目は黒髪に二房の白髪、褐色の肌、肌に鱗がある。

 ミシェーレとアロイシウス、ジーミミンの名前は呼ぶが、リィシェとエルマの名前を呼ぶことはない。

 ミシェーレの時を進めることを望んでいる。


「決まりだな。おそらくそいつは精霊だ」


 見た目の特徴は完全に時の精霊の特徴と一致するし、契約者以外の名前を呼ばないのは精霊の掟通りである。

 また、ミシェーレの時を進めると言うのも、ミシェーレを食らうと考えれば精霊の性質と符号する。


「えっ、でも、普通に話していましたよ。精霊言語みたいな音じゃなくて、人間の言葉です」

「受肉したか創造したかは知らんが、古い精霊なら不可能ではない。それに、お前の話を聞く限り、そいつが師と契約した時の精霊だろう。それともそいつは『自分は精霊じゃない』とでも言ったか」

「精霊薬師ではないとは言ってましたけど。確かに精霊じゃないとは言ってないですけど……。そんな、ええ……。うそぉ……」


 リィシェはまだ混乱しているらしかった。

 精霊は歳を経たものほど力が強く、言葉遊びに長ける。人間など、彼らにとっては手のひらの玩具のようなものだ。

 リィシェは危ない橋を気づかずに渡りきる。ほぼ名目上とはいえリィシェの師であるので、アロイシウスは気にかけないわけにはいかなかった。

 今回に限っては、よくやったと褒めねばならないが。アロイシウスが喉から手が出るほど欲しかった情報を掴んできたのだ。


「時の精霊が蓮華の蜂蜜を素材にした薬を好んでいたのがわかったのは、大収穫だ。師のメモを改めて見直そう。お前は『ヴァー』について書いてあるものをまとめろ。俺は蜂蜜を使ったレシピを探す」

「お師匠さま、ヴァーさんは、「ミシェーレが作るものが好きだ」って言ってましたよ。お師匠さまが作っても、エリーシェさんを目覚めさせる対価にはならないんじゃないですか?」


 直接時の精霊と話したリィシェは、アロイシウスの方針にやや懐疑的だ。

 しかし、アロイシウスからすれば壁打ち状態の研究に差したわずかの光明である。ヴァーがリィシェに指示した内容も含めて、見逃すわけにはいかなかった。


「混ぜないよりマシだろう。あとは真名さえわかればと言うところだが、それも竜の角に行けばわかるかもしれん」

「お師匠さまは行ったことがないんですか?」

「禁足地だ。事前に申請がいる。雪が積もる前に行かねばな。お前は早く眠り薬を作れるようになれ」

「えっ。いや、急ぎますけど、関係あります?」

「精霊がいけと言ったなら、必ず何かある。導かれたのはお前で、俺はオマケのようなものだ」

「そういうものですか」

「そういうものだ」


 精霊は隠し事をしても嘘はつかない。リィシェに言ったと言うことは、リィシェが竜の角に行くことで何かがあるのだ。

 そう伝えると、リィシェは他に言われたことを思いあわせてホッと息をついた。


「それなら、あのメモの部屋に眠り薬を作るコツもあるんでしょうね」

「わからないと断言されたなら微妙なところだな」

「もう、やる気をそぐこと言わないでくださいよ! ヴァーさんについても、眠り薬のメモも、絶対に見つけてやりますー!」


 答えがあるとわかって探すのと、あるのかわからずに探すので心持ちが違うのは、アロイシウスもよく知るところだ。

 希望を持ちすぎても辛いものがある。それも、アロイシウスは身をもって知っている。

 アロイシウスが茶々をいれると、リィシェはムッと頬を膨らませた。

 リィシェが食器の片付けを終えるのを待って、一緒に師の遺したメモだらけの部屋に向かう。

 ドアを開けたアロイシウスは、目の前の光景に呆然と立ち尽くした。 


「なんということだ……」

「お師匠さま? あれ、メモが、ない……?」


 部屋を埋め尽くしていたはずのメモが、一切合切消えていたのだ。

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リィシェ 不屈の匙 @fukutu_saji

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