05 最高峰の薬


 弟子になっての初日。

 ワクワクして昨夜はなかなか寝付けなくて、そのくせ目覚めは爽やかだった。


 あてがわれた部屋はとても簡素で、患者用の予備のベッドと、小さなテーブルと椅子があるのみ。清潔なことだけが唯一の取り柄だろうか。

 それは昨日までの朝と変わらないけれど、この部屋が自分のものになったという満足感とでもいうべきか、それとも帰る場所になった安心感のようなものというべきか、そういった地に足が着いた気持ちなのだ。


 リィシェは足元に丸くなっていた雪狐もどきの——昨日契約した精霊、トランクリュをそっと撫でてベッドから降り、生成りのカーテンをバッと開けて、部屋に光を呼んだ。

 朝の窓辺に微睡んでいた精霊たちが、眩しそうに手で目を覆ったり、寝返りを打って外に背を向けたりしているのを、リィシェは穏やかな気持ちで眺める。

 今日からは、めがねをかける必要はない。


 朝食は軽くトーストしたパンに、出店で買ったソーセージを金串に刺して釜に掛ける。スープは昨日の残りに少し野菜を足せばいいだろう。


「おはよう」

「おはようございます、お師匠、さ、ま……? え? あの、え?」


 聞き覚えのある、艶のある琥珀色の挨拶。それに応えようと振り返って、リィシェは壊れたゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく固まった。


 髪を肩口で切り揃え、髭を剃ったアロイシウスには、モップの影も形もない。

 丹念に梳かされた象牙の長髪に知性を称えた紫紺の瞳。うっすらと隈がある以外はとびっきりの美男子が、ふわふわと飛んでいる精霊たちと挨拶を交わしているのだ。

 リィシェは昨日までのモップとの差異にびっくりして、危うくソーセージを焦がしかけた。

 慌ててソーセージを火から離すリィシェの様子に、アロイシウスはくたびれたローブのフードを目深に被った。そばを泳いでいるジーミミンは、楽しげにフードの中を覗きこんでいるが。


「だから髪も髭も整えたくなかったんだ……。患者の応対はしばらくお前に全部任せる……」

「あ、ハイ。それで、その、手に持った髪はどうするんです。長いですから、かずらにでもして売るんですか?」


 どうにか火の始末をつけて、ようやくアロイシウスの顔以外が目に入る。

 その手には切ったばかりだろう白い髪がこんもりと山をつくっている。下部に籐籠が見えなかったら、子羊でも抱えていると思ったかもしれない。

 ダマを作っている毛なので、売り物のカツラにするには骨が折れそうだ。綿がわりにクッションに詰めるほうが現実的な気がしてきた。


「精霊士の肉は精霊の好物の一つだ。特別な火で灰にしたあと、薬にする」

「髪も薬になるんですか?」


 思っていた使い方と全然違って、リィシェは目を瞬かせた。薬の素材とは知らないほうが幸せになれるものばかりなのかもしれない。

 リィシェから抜け落ちた水晶の破片も倉庫にあることであるし。


「おおよそ全てのものは薬になる。そうだな、食事が終わったら見るか?」

「見ます!」


 アロイシウスの諭すような穏やかな誘いにリィシェは胸を高鳴らせた。きっととびきり不思議で美しい技なのだろうと思うのだ。

 リィシェはアロイシウスが食事を終えるのを今か今かと待ち、ともすれば急かしているとでも思われそうなほどにソワソワしていた。

 アロイシウスの生暖かい視線に晒されても視線はチラチラと調合室の方へ向かってしまう。なにせ調合室は危険だということで今まで入室禁止だったのだ。


「私、調合室に入るのは初めてです」

「そうだろうな。髪を縛ってそこのローブを着なさい。薬品には危険なものも多い。付着した薬品が目立つように白、調合の邪魔にならぬように袖は詰まったものと決まっている。サイズが合わないが、今回は仕方がない。取り寄せているからしばらくはそれで我慢しろ」

「はい。お揃いですね!」


 調合室の手前には水瓶と白いローブが一着あった。アロイシウスの予備のものだ。リィシェのものはまだ届いていないので、今日はそれを借りる。

 当然、袖は余るし、裾は床につく。そばにあっロープで腰のあたりを縛り、裾を調整する。

 アロイシウスも普段の白いローブ姿で、長めの髪は金盞花色のリボンで縛っていた。

 リィシェも同じ格好をすることになるのだろうが、これほど様にはならないだろうと少しがっかりした。


「あまりふざけた態度なら見せないぞ」

「大人しくします!」

「調合室では特に気をつけろ」


 それが顔に出ていたのか、リィシェはアロイシウスの注意にびくりと体を揺らして勢いよく返事をした。

 調合室のドアを開けると、まず初めにむせかえるような独特の苦い匂いに気づく。天井からは色を保った植物がさがり、壁にはラベルが貼られた瓶やとりどりの鉱物が整然と並んでいる。

 精霊の姿がない違和感を覚えるが、尋ねると調合室全体に精霊除けを施しているそうだ。悪戯されては困るものが多いからだという。

 隅の大きな本棚には古びた本と真新しい紙の山があって、びっしりと文字が書かれている。中央には作業台と、道具が置かれている。作業途中なのか、布を被せられた壺が目に入った。

 出しっぱなしにされていたそれらを脇に避けて、アロイシウスは使いこまれた金属製の鍋を竃にかけた。


「これから作るのは用途の限られた薬だが、手順自体はほかの薬の生成でも使う」

「はい」


 薄暗い部屋に灯りを灯して、倉庫から持ってきた素材を刻んだり、水を張ったり。

 思ったより地味な作業をリィシェは無言で手伝った。


「待たせたな。メモは調合が終わってからにしろ」

「わかりました!」


 つまらないと思っていたのはお見通しだったらしい。アロイシウスの口調はからかいを多分に含んでいて、リィシェは顔を少し赤らめた。

 けれどいよいよ始まるらしいと首を長くしてアロイシウスの手元を覗きこむ。


「これは精霊獣に生えていたヤドリギ。これと髪を一緒に焼く。割合は枝が一に対して髪を四。精霊に燃やさせる。『*****』」


 琥珀色の短い祈りがまず火の精霊を呼び出した。よくキッチンのかまどで見かける精霊だ。リィシェにも見覚えがある。

 用意していたまま特に加工していなかった石炭は精霊の供物だったようで、精霊が現れると消えてしまった。

 アロイシウスがさらに一言二言精霊語を呟くと、赤々と爆ぜる精霊がおこした火が、髪と枝を黒い灰に変えた。


「これに空を写した湖の水で薄めた葡萄酒を加える。夏の盛りに採取して、月の光を三晩浴びせた水で薄めなければならない。葡萄酒は少女が裸足で踏んだ若いもの。それに蟠桃バントウ——平べったい桃の絞り汁を混ぜる。しばらく火にかけて粘りが出た部分だけ取り出す。水気はできるだけきる」


 アロイシウスの説明と腕には澱みがない。鍋をかきまわすヘラの規則正しさ。漏れ出る光の粒子と湯気が止まるころ、持ち上げられたのは黒いゼリー状のもの。


(くさい……)


 上澄みの水に遮られていたそれは、空気に触れた瞬間、ひどい腐臭を発した。

 思わず顔を顰めて鼻を押さえる。匂いで涙が出そうだけれど、瞼を閉じはしない。


『*****』


 アロイシウスの一言で、それは勢いよく燃えた。すると、華やかな香りの白いクリームとなって下に置いていたボウルに落ちていく。


「白くなったら、銀の匙で掬って精霊の泉で汲んだ水に落とす。水は冷えているほどよい」


 それを細長いスプーンで掬って、横の氷水で〆る。水に入ると途端に赤く色を変え、放射状にいくらか広がって、硬質な輝きを宿した。


「赤い、花? きれい……」


 一つ一つは指の爪ほど。可憐な花の細工物にも見える。

 水を拭われ十分に冷やされたそれらが、不思議な模様がびっしりと描かれた小瓶に収められていくのをじっと見守る。


「これが花に見えるか」


 くつりと笑いを漏らしたアロイシウスは一転して難しい顔をした。


「だが、これはおおよそすべての精霊の好物だ。ある意味、万能薬と言えるかもしれんな。どんな精霊もこれ欲しさに宿主から手を引くだろう」

「万能薬なんてあるんですね」

「マア、精霊にとっては麻薬だ。与える精霊には注意しろ。際限なく貪られる。それに精霊士のまとまった量の肉——毛、爪、血が必要だからそうそう作れん」


 万能薬。あまりにあっさりできてしまったので、俄には信じられなかった。

 だが素材を並べられて諭されるとリィシェもなんとなく納得した。

 一抱えもあった髪の毛から、握れば隠れてしまう小さな瓶に収まるような量しかできないのだから、よほど貴重なのだ。

 精霊の好物だというのも間違いではないようで、呼び出した精霊が瓶にしがみついて離れない。


『*****』

「だめだ、これはお前のものじゃない」

『*****!』

「対価は最初にやっただろう、戻れ」


 ちょうだいとでも言っているのだろうか。媚びるような表情に、アロイシウスは取り付く島もない厳しい声で瓶に蓋をする。

 精霊は罵るようにバチバチと声をあげ、目を吊り上げて地団駄を踏んで、それでも自分が小瓶の中身を受け取れないと知ると「ベーっ!」と舌を出して姿を消す。


(うわあ)


 リィシェはあからさまに不機嫌な精霊の姿におっかなびっくりである。

 精霊が手のひらほどの小さいものであっても人間には起こせない奇跡を起こせると知って、精霊の要求を飲まない選択ができる強さは、まだない。

 これも契約していない精霊に願うのが禁止されている理由なのだろうな、とリィシェは思った。

 器具の片付けを教わりながら、リィシェはふと疑問に思って精霊がしがみついていた小瓶を指さした。


「師匠はこれを誰に使うんですか? 万能薬を作れるってことは、髪で他の、もっと使いやすい薬も作れたはずですよね。わざわざ使う予定もないものを作りはしないでしょう」


 この万能薬の作り方はわかった。現在のリィシェにはできないけれど、精霊士の体の一部が貴重な材料なのだろうということもわかった、と思う。

 けれど、それなら別の、弱めの薬をたくさん作った方が島の住民たちに使えるだろうと思ったのだ。こんな小瓶一つの少しの特別ではなくて。


「……時の精霊病に罹った人間だ」

「そんな患者さん、島にいましたっけ? 時の精霊ってどんな精霊なんですか?」

「お前には会わせていない。時の精霊は、滅多に人前には出てこない。けれど色は白と黒と決まっている」


 アロイシウスは一瞬、片付けの手を止めて、苦々しい声で答えた。

 言いたくないんだろうな、とは容易に想像できた。アロイシウスと目が合わないのだ。

 リィシェはこの万能薬——ひいては使われる精霊病の患者の秘密が気になったが、吸い寄せられるように瓶の中の赤い花を見つめるに留めた。


「そんなに見てもやらんぞ。欲しければ自分で作れ」

「はぁい」


 嫌われたくないリィシェは、アロイシウスの適当な言い回しに利口に頷いた。

 リィシェの機嫌を取るためか、気を逸らすためか、アロイシウスは小さめの鍋といくつかの薬草を取り出してリィシェの前に並べる。


「いきなり精霊薬は作らせてやれない。そもそも精霊薬は精霊言語ができなければ作れないというのもある。だから普通の薬を作ってみろ。その辺にあるものでも、じゅうぶん薬は作れる」


 どうやら普通の薬の作り方を一つ教えてくれるようだ。リィシェはそれも嬉しかったけれど、精霊言語のことが気になった。

 アロイシウスが精霊と交わしている聞き取れない音の連なりのことだろう。目の前にできる人がいるけれど、思い返しても人間に発声できるようなものには到底思えない。


「あの歌みたいな言葉ですか? 教わってもできる気がしないんですけど」

「その通りだ。精霊言語は教わるものではない」

「ええっ!」


 精霊言語が話せないと精霊薬師になってアロイシウスを助けるのは難しい。リィシェはどんよりとした気分になった。

 しかし、アロイシウスは精霊言語は突然できるようになるものだと語る。


「……精霊と共鳴したとき、自ずと理解できるようになる。焦らずに待て。他に学ぶべきことはたくさんある。薬師の勉強は甘くはない」


 だからこそ、先に普通の薬の知識がいる。精霊薬師は精霊病の進行を抑える他に、精霊病によって併発する症状を和らげることも仕事だ。

 精霊病によって失った器官を補ったり、過剰に分泌される体液を除去したりする必要がある。患者の状態を把握し、正常な状態との差を埋めるために必要なものを見極めて与える。

 言ってしまえはそれだけと言われてしまうかもしれないが、行うには膨大な人体と病の知識が必要だ。


「最初は人間の正しい身体について学ぶ。それが終わったら病と症状、それに処方すべき薬を学ぶ。まあ、今日は試しに煎じ薬でも作るか」

「はい!」


 まずは道具の名称と使い方を覚えて、指定された薬草を倉庫から探すところからである。

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