07 墓参り(下)


 リィシェがランプを受け取ると、ふわりと甘い香りが漂った。

 青白く光っている石柱と水溜りの間を縫って歩いていく。

 ランプの光をかざすと、石柱の一つ一つに名前と年が刻まれているのがわかる。この柱の数だけ、ここに精霊士が眠っているのだろうか。

 コツン……、コツン……、と足音が巨大な鍾乳洞に響く。

 やがて、石柱とは違う種類の明かり——リィシェの手元にあるのと同じ種類の——が漏れる一角に差しかかる。そっと光の方を覗きこんだ。


(お師匠さまと、おばさん……?)


 見えるのはアロイシウスの背中と、その奥に三十をいくつか数えたくらいの女性だ。

 微動だにしないが、その女性は人形にしては精巧すぎるように思われた。


「着いてくるなと言っただろう」


 隠せなかった足音に、アロイシウスは背後を見るでもなく、空っぽの言葉でリィシェを窘めた。

 すでに悟られているのだから、とリィシェは諦めて何も話さないアロイシウスの横に並んだ。

 影に半分ほど沈んだアロイシウスの横顔は、見たこともないほど未練がじっとりと滲んだ、疲れた顔をしている。煙かなにかに縋るような頼りなさがあった。

 それをさせているのは、目の前に祈る格好で固まっている女性なのだろう。

 先ほど会ったヴァーは、ここを墓地だと言った。つまりこの女性は死んでいるのだ。


(このおばさんがお師匠さまにこんな顔をさせているのか。なぜ跡形もなくいなくなってくれなかったんだろう。ああ、いや、そうではなくて……)


 リィシェはそれに、怒りを覚えた。

 アロイシウスはリィシェが横に並んでもこちらを見る気配はない。その視線はずっと一箇所に注がれている。


(私は、私を見てほしいんだ……)


 リィシェは自分が二回りも年上の女性に嫉妬していると理解して、急激に恥ずかしくなった。足元にいたトランクリュを抱きあげ、誤魔化すように抱きしめる。


『僕がいるよ』

「エッ!?」


 ぺろりとトランクリュの舌がリィシェの瞼を舐める。同時に響いた少年の声に、思わず声をあげてしまった。

 契約した時に響いたものと同じ、つまりはトランクリュの声が聞こえたのだ。


『やっと直接話せるようになった! やっと僕を見てくれた!』

『おめでとう、おチビさん!』

「もしかして、これが共鳴なの……?」


 肩に飛び乗りくるりと首を周って頬を擦りよせられる。

 こんなにあっさりわかるようになるなんて。拍子抜けしたような、きつねにつままれたような。

 たしかに時がくればわかるとしか言いようがなかったのだろうなと納得もした。

 ジーミミンにも拍手で祝われて、ようやくアロイシウスがリィシェの方を見た。いつになく険しい視線に、リィシェはたじろぐ。


「お前、今、何を思ったんだ?」


 リィシェは唇を引き結んで目を彷徨わせた。

 正直に答えるか、当たり障りのない嘘をつくか。答えを誤ったら、距離を置かれてしまうと思って。

 迷いに迷って、話さないことにした。


「……内緒です。ちょっと、恥ずかしいので」

「恥ずかしい……?」


 アロイシウスは予想とはずいぶん毛色の違う回答に面食らった。明確にどういった回答にどう反応するか決めていたわけではないけれど。

 アロイシウスは困惑してようやく、リィシェが竜の肋骨にきたことをきちんと叱った。何度目かわからない深々としたため息にリィシェは首をすくめて謝る。


「なぜ来た。留守番を言いつけただろう。精霊の甘言に乱されるな」

「すみません……」


 もう一度ため息をついて、アロイシウスの矛先はジーミミンに向く。竜の肋骨の場所を知っていたのは、この中ではジーミミンだけだからだ。


『ジーミミン、あまり誑かすな』


 リィシェはおおかた唆されたのだろうと判断した。精霊を叱っても、十分な対価を用意しない限り聞くとは限らないので、気休めにしかならないが。


『あら、お願いなら対価を頂戴な。そろそろ命をくれてもいいのよ』

『却下だ。あまり度が過ぎるようなら契約を破棄するぞ』

『それは困るわねえ。相変わらずつれない人』


 クスクスと笑うジーミミンは楽しげに、ゆらゆらとアロイシウスに絡んだ。

 リィシェはいつものアロイシウスに戻ったと思って、祈るままに固まっている女性について尋ねた。


「お師匠さま、このおばさんは誰なんです?」

「おばさん、か。お前の年なら、そうだろうな。彼女が目覚めていたら、きっと激怒しただろうが。……彼女は俺の師だ」


 白いローブ姿で膝を折り、祈りを捧げるように手を組み、瞳を半分伏せた状態の目の前の女性は、アロイシウスの師だという。

 言われてみれば、ローブはアロイシウスやリィシェが身につけているものと似ている気がするし、髪を結うリボンの色も金盞花色だ。

 微動だにしないが、頬は薔薇色で、今にも動き出しそうだというのに、これで本当に亡くなっているのだろうか。木乃伊ミイラにしては、瑞々しすぎる。


「……亡くなっているんですよね?」

「まさか。時の精霊病だ。眠っている……仮死状態だな」


 思わず溢れた疑問に、間髪入れずに存外強い否定が返ってくる。

 弾かれたようにアロイシウスを見ると、自嘲するように目もとを手で隠していた。


「仮死状態、ですか? なぜそんなことに」

「そうだな……。昔話をしよう。そこに座れ、すこし、長い話になる」


 リィシェは座るのにちょうどよい岩に腰をかけた。アロイシウスもその向かいに座って、彼の師がこの状態に至るまで経緯を話し始める。

 思い返す作業はひどく容易い。アロイシウスは何度もその時の夢を見るのだから。


「昔——今から十四年前の晩冬の夜だな。俺は大怪我を負った。血を流しすぎていたし、体の半分は食いちぎられた。とてもではないが、師の腕をもってしても助かるような傷ではなかった。師は精霊の扱いには優れていたが、薬師としての腕は平凡だったからな」


 月が異様に近い、精霊獣のひしめく夜だった。あの時の痛みはもう思い出せないが、自分が流した血が生温かくて、けれど異様に寒くて、飢えた獣の声が近かったことを覚えている。


「お師匠さまにもそんなことがあったんですね」

「まあな。あの時のことは後悔ばかりだ」

「そんな大怪我をして、どうして助かったんです?」

「……師は、俺を見つけた師は、俺を助けるために『時戻し』を行った」


 そして、ぼんやりと、「ああ死ぬのだな」と意識が生を諦めかけたときに、師が現れて目の前のように膝をついて彼女の精霊に願ったのだ。

 アロイシウスの体の時間を巻き戻すことを。

 やめろと言いたかった。そんなことをすれば、師の時が進んで死ぬのは簡単に予想できたからだ。


「そんなことができるんですか!?」

「契約した精霊と代償による」


 リィシェが驚くのも無理はない。

 師の契約していた時の精霊は、時の精霊の中でも古代より存在するかしこき精霊の一柱。この世界に及ぼす力は絶大で、だからこそできたこと。代償もまた大きかったが。


「精霊との契約は、死後、肉体や魂を契約した精霊に独占させるというものだ。その代わりに死ぬまで精霊病になることはないし、別途供物を用意することで精霊の力を行使することができる。……師の契約精霊は、時の精霊で、代償は師匠自身だった」


 師の寿命と引き換えに、アロイシウスは五体満足で生きている。

 師の方が精霊士として貴重な存在であった。アロイシウスを助ける意味なんて、ほぼない。

 薬師としては平凡だったくせに、『寿命以外で死ぬのは許さないわ』と自信満々に胸を張る師の声も、笑った表情も、もう朧げだ。

 若い娘というには少々トウが立った姿はそのままここにあるというのに、記憶を辿るのも難しくなってきた。


「お師匠さま、質問なんですけど、亡くなったら体は精霊に持っていかれるなら、なんでこの人はそのままなんですか?」

「……師の精霊と、そういう一時的な契約をしている。俺の用意する供物に満足している間は、師の姿を留める。もし師と精霊の契約を破棄できたら、師の寿命を戻す。そういう契約なんだ。そうじゃなきゃ、とっくに時のはざまに消えている……」


 アロイシウスの弟子は、師に思い入れがあるわけではないから、質問はとても理性的だ。もともと聡明なのだろう、知識の吸収もずいぶん早い。

 リィシェの疑問は当然であった。普通ならば、死んだ精霊士の肉体は跡形も残らないものなのだ。

 当時のアロイシウスは、寿命まで一気に時の進んだ師に群がる精霊たちを押しのけて、時の精霊に契約を持ちかけた。死に体でよくぞそこまでしたと思う。 


「今の師は時の精霊病にかかっている状態と言える。だから、今度は俺が治すんだ」

「治せるんですか?」

「治すんだ。今は、延命が限界だが。一刻も早く、師と精霊の契約を破棄しなければ……」


 過去十四年間、さまざまな贄を用意した。月に一度、師の寿命が尽きた日に、手を替え品を替え、時の精霊に贄を捧げた。

 しかしそろそろ、時の精霊がアロイシウスの用意するものに飽きている。実際、次の命日までに契約破棄できなければ師を連れて行くと言われてしまった。

 十五年だ。人間からすればもう十分だろうと。

 どうしても焦りが滲む。


「契約って、この子としたような、光を飲みこむアレですよね? 破棄なんてできるんですか?」

「術者本人に見合う供物——精霊が認めるものと、精霊の真名を言い当てられれば」

「真名?」


 契約については、そういえば教えていなかった。精霊言語を理解できるようにならねば、精霊士の勉強は要領を得ないのだ。

 アロイシウスはトランクリュを抱えたリィシェに端的に伝えた。


「お前の精霊であれば、【涙を枯らす者トランクリュ】がそうだ。精霊の本質だな」

「なるほど。お師匠さまのお師匠さまの精霊の真名って、なんなんですか?」

「それがわかっていれば苦労はしていない……」

「ですよね」


 師と時の精霊の間の契約を、アロイシウスは知らない。

 の精霊の真名と贄さえわかれば契約破棄は難しくない。握りこんだ手のひらに爪が刺さる。


「師は掟を破ってまで、俺を助けた。なんで助けたんだろうな……」


 何度も問いかけた問い。ずっと祈っている師は答えてはくれない。

 風化せずにそこにあるから、今に起き出してくれると期待してしまう。


「お師匠さま、お師匠さまのお師匠さまの、お名前は?」

「ミシェーレ」

「ミシェーレさん……」


 リィシェに問われて、アロイシウスは久しぶりに師の名前を呼んだ。

 もうすぐ師の年を越えてしまうくらい待っている。

 待っていても、奇跡は起きない。

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