08 エルマの願いごと


 リィシェはぶかぶかの袖を何度も折って、紫とオレンジの混ざる、おどろおどろしい色の鍋をぐるぐるとかき混ぜる。無心になりたくて混ぜている。


 リィシェはアロイシウスの助けになりたいとは思っている。待つのに疲れている師を助けてやりたいという気持ちはもちろんある。

 けれど一方で、あの祈り続ける女性——ミシェーレが今の『薬屋』に混ざると思うと、少し複雑——正確に言えば怖くもある。

 リィシェは自分がいらない子に逆戻りするのではないかと、心のどこかで怯えていた。


 早く精霊病に効く薬を作れるようにならなくては。まだ、通常の、比較的単純な薬すらアロイシウスには首を振られてばかりだけれど。

 やれることは多くなく、やれることをやるだけ。リィシェも首を振って雑念を追い出す。

 まずは目の前の熱さましの薬だ。手本で作られたそれは、一匙の酒で目を見張るほど透き通った空色に変わる。

 リィシェはいつも、加えるタイミングが少しずれているのか曇り空の色になる。


(そろそろ、普通の薬の一つや二つは合格が欲しい……。いい加減、せっかく作ったものをごみ溜めに捨てにいくの、心が折れそう……)


 朝焼けに絞った酒を加えてしばらく煮立たせれば、今回の鍋は清々しい空の色を呈していた。

 成功だ。おそらく。

 リィシェはパッと顔を輝かせて、鍋ごとアロイシウスに駆け寄った。


「お師匠さま、お師匠さま! 見てください、熱さまし、うまくできたと思うんですけど!」

「落ち着け」


 アロイシウスはちらっとリィシェを見て、手早く自分の作業を切り上げ、リィシェの作った熱さましの薬を検分した。

 少量をガラスの皿にとりわけて匂いを嗅ぎ、いくつかの試薬を加えて反応を見、頷く。


「そうだな、熱さましは合格だ。これなら納めてもいい」

「本当ですか!」

「そろそろまた、薬を交換する季節だ。お前の薬を納めてもいい」

「やった!」

「嬉しいのはわかるが、危険だから鍋を置け」


 商品としての品質があると太鼓判を押されて、リィシェは素直に声を弾ませた。アロイシウスに窘められてようやく、鍋を下げる。

 冷めるのを待って、先の窄まった玉杓子で小瓶に移していく。青い液体がとろりとガラスに流れる。


「一本、記念に取っておいてもいいですか?」

「……常備薬にか? 使わなければ傷むぞ」

「そうじゃなくて、部屋に飾るんです。こういうのは気持ちが大事なんです」

「まあ、一本くらいなら、好きにしろ」

「ありがとうございます!」


 ようやく成功したそれが全て手元から離れてしまうのが惜しくて、リィシェはアロイシウスを窺った。怪訝な顔をされたものの、無事に許可が出る。

 日の当たるところではすぐに色がくすんでしまうだろう。リィシェは置く場所を考えながら、成功の手応えを忘れないうちに熱さましの薬の量産にかかった。




 竜の島全体が赤みを帯びはじめた頃、リィシェはトランクリュと一緒に二度目の薬売りに出かけた。

 自分で作った薬が多いこともあり、その足取りは軽い。前回のように島の住民たちそれぞれに長々と捕まることもなく、リィシェは順調に薬を配っていた。

 けれど、おしゃべりなエルマのところはそうもいかないだろう。あの長広舌と美味しいお菓子振る舞われるに違いない。

 リィシェはしかし、それを楽しみにしていた。エルマはきっとリィシェの話を聞いてくれるだろうから。エルマの家には料理を教わるためによく来ているが、今日はいっとう扉を叩く音が高い。


「エルマさん、こんにちは! 竜の尾の『薬屋』です!」

「いらっしゃい。よくきたね! そう名乗るってことは、今日はただのリィシェちゃんじゃないんだね? いつにも増してご機嫌だけれど、何があったんだい? この花束おばばに教えておくれ」


 迎え入れられたドアの奥からバターと小麦の香りが漂ってくる。また焼きすぎたらしい。

 今では第二の実家のように慣れた様子で、リィシェはエルマの家に上がった。


「実はですね、今日から納める薬の一部は、私が作ったものなんですよ!」

「そりゃあすごいね! リィシェちゃんがこの島にきてまだ三ヶ月かそこらだろう? ずいぶん上達が早いじゃないか」


 リィシェはさっそくそう言って、来客用の椅子に座った。トランクリュはエルマに見えないのを良いことに隙間を探しにいった。彼は狭いところが好きなのだ。

 目の前に出てきたおやつはそぼろ状のクッキークラムを乗せたアップルパイで、さらにキャラメルソースまでかかっていた。ザクザクの生地にトロトロの林檎、香ばしい香りのそれをぺろりと平らげる。

 エルマは褒められて自慢げなリィシェを見守っていた。


「うちの娘も精霊薬師だったけれど、あの子はまともな薬を作れるようになるまでかなりかかってね、夜な夜な泣いていたものさ。独り立ちしても、とった弟子の方が優秀だってんでこっそり泣いていたりしてね。まあ次の日には忘れてケロッとしているような子だったけど」

「娘さんも精霊薬師だったんですか?」


 懐かしげな口ぶりは、リィシェが初めて聞くものだ。

 飲んでいたハーブティーをテーブルに置いて、リィシェはまじまじとエルマを見つめた。


「若先生から聞いてないかい? 十五年くらい前に、あたしや旦那を置いて眠っちまったバカ娘さ。まあ、若先生を可愛がっていたからねえ、守って逝ったなら、幸せだったんじゃないかね」


 とても聞き覚えのある話に、リィシェは丸い目をさらに丸くした。


「もしかして、もしかしなくても、ミシェーレさんですか?」

「そうだよ。なんだ、聞いているのかい。若先生が話すなんてどういう風の吹き回しだろう。若先生は自分のせいだって相当思い詰めていたからね、気にするなって伝えたんだけど、ポヤポヤしているようで、抱えこむお人だから。てっきりリィシェちゃんには話していないと思ったよ」

「……ミシェーレさんってどんな人だったんですか? お師匠さまはあんまり話してくれなくて」


 ミシェーレがエルマの娘だとは。縁は案外近いところで繋がっているらしい。

 リィシェがミシェーレについて知っているのは、アロイシウスの師であり命の恩人であること、メモ魔であること、エルマは知らないようだけど、竜の肋骨で祈り続けていること。

 そこにエルマの娘という情報がつけくわわる。

 アロイシウスの生乾きの記憶と違って、エルマは懐かしむ余裕がある。リィシェはおずおずとミシェーレについて尋ねた。


「そうだねえ。ミシェーレは、リィシェちゃんにちょっと似ていたかね。元気でよく働く。ああでも、小さいころから物忘れが多くてね。習ったことや気づいたことは全部メモにしていたから、部屋中紙だらけでね。

 メモしたところでどこに書いたかも、書いた事実も忘れているんだから、意味があったのやら。昔もわからなかったけれど、今でもわからないよ。

 そのくせ、薬師になるんだって家を飛び出して……、まあ坂一つしか離れてない近所だけれどね、薬師なんてやたら覚えることが多いんだから、まさか本当になれるとは思ってなかったんだけど、まあ、うまくやったもんさ」

「そんなに忘れっぽかったんですか?」


 メモ魔であったのは、どうやら忘れもの対策だったらしい。道理で書く必要のなさそうなものまで書いてあったわけである。

 つらつらと滑らかに引き出されるミシェーレのひととなりを聞いていると、「そこまで自分と似てないのでは?」と思ったけれど、リィシェは賢くも相槌を打つに留めた。


「そうさ。ちょうど精霊と契約したとかなんとか……、その頃から物忘れがひどくなったね。

 何度も同じ場所に行ったり、同じことを繰り返したり。若いのにボケたのかと思って、先先代のジジイのところに殴りこんだりもしたよ、『うちのミシェーレになにしたんだい!』ってね。あの頃はあたしも若かった」


 エルマは、ミシェーレを透かすように、リィシェを見る。代わりにされているわけではないが、記憶の引き出しの取っ手にされている。

 リィシェはスカートの裾を直すふりをして、椅子に座り直した。少し、居心地が悪かったのである。


「何年もかけてようやくまともな薬を作れるようになって、ミシェーレもリィシェちゃんみたいに誇らしげな顔をしていたよ。あの子が最初に作ったのはのど飴でね。咳止め用の。

 あの子の一番得意なものもずっとのど飴で、機会があると作ってくれたけれど、最初のはもったいなくて、食べないまま残ってるんだ。長くおいた分だけ、捨てるに捨てられなくなるのさ。

 ほら、あれ。あの棚の上にある、黒スグリみたいなのが詰まってる瓶がそうさ。あれがあの子の初めて作った薬」


 実際のところ、エルマがミシェーレについて語り出したきっかけは、やはり、リィシェの言動であった。ミシェーレはともかく、初めて作った薬をとっておくというエルマの行動に身に覚えがありすぎて、似ていないと否定するのも少し難しい。

 諦めて、エルマの指の先を見る。


「なんというか、黒いですね……」

「まあ、かれこれ三十年は経ってるからね。仕方ないよ。娘や旦那を待たせてるからね、 あたしもそろそろ、だねえ」


 どうにも色以外の感想を言いあぐねるリィシェを、エルマはケラケラと笑った。続いた言葉は、リィシェにとっては笑いごとではなかったけれど。

 三十年。ミシェーレがいなくなってから十五年経っている。

 エルマも歳だ。ここ数年は精霊病による花化も著しく、普通の食事を取ることはできなくなっていると聞いていた。


「リィシェちゃんは竜の島の葬式を見たことはあるかい? そう、ないだろうね。最近は誰も眠っていないからね。この島では眠ったら、花なんかと一緒に小舟に乗せられて海に流される。舟葬っていうんだ。海を寝床にする……」


 唇を噛むリィシェに、エルマはあやすように優しく語りかける。

 眠り薬はどの家にも必ず人数分あったのは、そう言うことだったのか。なにも知らずに薬を売っていたのだと突きつけられたような気がして恥ずかしかった。

 エルマの声は料理を教えてくれる時と、なんら変わりがない。それが無性に寂しかった。


「旦那は海の精霊病だったから、最後はほとんど塩の塊だった。夏に眠ったから、満開の花と綺麗な貝殻を島のみんなで拾ってきて、眠る旦那を飾ったものさ。

 ミシェーレを送ったときは、精霊士は体が残らないって聞いていたからね。逝ったって聞いたときは実感が湧かなくて、とにかく小舟に代わりに花をありったけ積んで……まあ冬だったからね、そんなに花を集めることはできなかったけれど、あの子の好きだって言ってた常緑樹の枝なんかを乗せてね、海に送ったよ。

 そうして、それからあの子が全然うちに帰ってこないから、ようやく、居ないんだってぼんやり感じたんだ。

 あたしはもう、あの子の顔なんか思い出せなくて、波に攫われて遠くにいった小舟の影しか思い出せないんだ。薄情だと思うかい?」

「……、わからないです。わからないです……。でも、エルマさんが食べないのに、作るお菓子の量が多いのって、そういうことなんだと思います」


 エルマはもう、逝く覚悟を決めている。家族に会う気でいる。

 リィシェは家族を見送った経験はない。生きたいとしか願ったことがない。エルマのことを理解わかりたいのに理解わかりたくない。

 透明な声でなんでもないように言わないで欲しい。ぼたぼたと机に涙が落ちる。


「泣かれると、嬉しいものだね。惜しまれるってのは贅沢だね。クセになりそうだ。あたしを送るときも泣いておくれよ」


 ヘタクソに泣くリィシェに、ふわふわのタオルを差し出したその手はもう、花の根を紡いだもののように見えた。


「……今までふんぎりがつかないでいたけど、リィシェちゃんを見ていたら、やっぱり娘に直接会いたくなったのさ。あたしはけっこう、波に眠るのを楽しみにしてるんだ。だからそんなに泣かないどくれよ。綺麗な目が融けてしまうよ」

「融゛けません゛……っズビ。エルマさん、意地悪です。もうちょっとくらい、生きてくれたっていいじゃないですか」


 タオルは依然として重くなるばかり。恨みがましくエルマを見つめても、その意思が翻る様子はなかった。

 悪びれもせず、リィシェに願いを重ねる。


「あたしは悪い大人だから、ついでにひとつ頼まれちゃくれないかい。リィシェちゃんに、あたし用の眠り薬を作ってほしいんだ。本当なら、娘に作ってもらうつもりだったんだけどねえ。あたしより先に逝っちまったからね」


 残酷な人だ。リィシェに自殺用の薬を作らせようというのだから。

 けれどそれに応えなければ。精霊薬師になろうとしているなら、断ってはいけないと奮い立った。

 リィシェは涙を乱暴に拭って、エルマに約束する。


「必ず。でも、エルマさん、せめて、春までは。春までは眠らないでください」


 ミシェーレはまだ島にいる。エルマがこのまま逝っても、きっと会えない。

 時の精霊から彼女の時間を取り戻すか、奪われるか。どちらに転んでも、春すぎならきっと、エルマの願いは叶うだろう。

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