その6

根岸の里は、こぎれいな家が立ち並び、そこにいるだけで幸せな気持ちになる町だ。

どの家も手入れの行き届いた生垣に囲まれ、庭ではいつも季節の花が咲き乱れている。

桐野新左エ門の妾宅の小さな池では菖蒲が咲いていた。

「お勤めごくろうさまです」

お北は、井戸で冷やしたという冷茶を出した。

浮多郎はどのように話を切り出そうか考えたが、うまいことばが見つからない。

「あちきが落籍された事情はお聞きになられたのでしょう」

聞きにくいことを、お北がみずから口にした。

美しい女だ。

それにも増して、長くお職女郎をつとめただけあって、どことなく凛としたたたずまいがあった。

「丸源の旦那さまに無理をお願いして、桐野さまのお側にお仕えさせていただくことになりました」

丸源とは神田明神下の札差の屋号だ。

「女郎が客に惚れたというで?」

「・・・・・」

女は微かに微笑んだが、膝の上の手が小刻み震えていた。

進んで妾になった相手が殺されたのだ。

「あの夜は、ここをお出になられたのはいつごろでしょう?」

「・・・六ツ半過ぎでしょうか。お酒をいただきすぎて寝過ごされました。あのとき無理にでもお起こしすれば、辻斬りなどに遭わずに済んだものを。悔やんでも悔やみきれません」

お北は袖の端で目頭を押さえた。


「さっき丑松が来たぜ」

泪橋に帰ると、養父の政五郎が吐き捨てるように言った。

「なんでも、花川戸の兼吉という奴が教勝寺に怒鳴り込んできていたらしい。そいつをお前に伝えてくれと言うなり風のように消えたな」

神田明神下の岡っ引き丑松は、町内のささいな諍い事をほじり出しては奉行所の佐々同心にタレこむので、蛇蝎のごとく嫌われていた。

「兼吉がいつ怒鳴り込んだかは言ってやしませんでしたか?」

「さあなあ」

兼吉が教勝寺に怒鳴り込んだのが住職が殺される前なら、殺す動機にはなる。

しかし、住職は吉原をひと回りしてから、北角楼の格子で振袖新造女郎のみはるを気に入って、登楼したはず。

「丑松は、質屋の娘を大川に投げ込んだなどと奉行所に訴え出て、兼吉を冤罪に陥れた奴。口から出まかせに決まってますぜ」

浮多郎が口を尖らせると、

「丑松の奴、その一件であやうく十手を取り上げられそうになったそうじゃねえか。二度も三度も同じ手を使うかねえ」

政五郎は腕組みして考えこんだ。

「吉原細見に、その振新のみはるとやらは載っているのかねえ?」

「さあ」

「載っているとすれば、住職は下見したのかも。あの夜はみはるに登楼すると決めていたが、万一外れると嫌なので、念押しでひと回り見て回ったかもしれない」

吉原で遊ぶにはそれなりの金がかかる。ケチな客はババをつかまないようないよう、あらかじめ女郎を吟味してから登楼する、という政五郎の意見はその通りかもしれない。

「みはるを見る住職に何かを感じた兼吉が、あとをつけて教勝寺に怒鳴り込んだということで」

丑松の鬼瓦のような顔を拝む前に、教勝寺の副住職の勝栄坊に確かめたほうが、それこそ外れがない。

それか、当の兼吉に確かめたほうが早いか?


その前に、浮多郎は岡埜同心に三ノ輪に呼び出された。

岡埜は例によって吉田屋の二階で、ひとり手酌で呑んでいた。

顔はさほど赤くない。

まだ酒量が上がっていないのか、何か心配事でもあるのか?

「札差の源太郎なあ、桐野に上客を紹介してもらって悪どく稼いでいたようだ。貧乏旗本だけが相手ではないぞ。大名筋などにも手を伸ばしていた。それで吉原の女郎を妾に当てがった」

岡埜は羨ましそうに言った。

「どうも丸源が落籍したのは、お北のたっての頼みだそうです。年季明けの近いお北を落籍するのにさほどの大金はかからなかったと北角楼の番頭が言ってました」

「女郎が客に惚れたのか。それにしてもなあ・・・」

岡埜は、浮多郎がお北に言ったと同じ台詞を口にした。

金がうなるほどあり、女郎に惚れられ、・・・これほど羨ましい人生もない。

しかし、桐野は惨死した。

「丸源にも、女にも桐野さまを殺す動機は見当たらないようで」

「ああ。あとは同僚の嫉みか。単なる辻斬りか?」

岡埜はひとごとのように言ってから、大きなあくびをした。

侍のことは、町方では調べようがない。

「教勝寺の住職殺しと桐野さまの辻斬りとの間に、ひとつ接点があります」

「何だ?」

「住職が殺された夜に登楼した相方が、北角楼のみはる。進んで桐野さまの妾になったのが、同じ北角楼のお職女郎のお北。お北が落籍されたのが、この二月です。お北はみはるを妹のように可愛がっていて、じぶんの代替わりとしてみはるを振袖新造にしたようで・・・」

盃を宙に止め、浮多郎の口説を黙って聞いていた岡埜は、

「くだらん!」

と一喝すると、ぐいと盃を呑み干し、けたたましい音をたてて階段を降りていった。

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