その5
宮仕えの侍ほど窮屈なものはない。
そのひとつに、日が落ちてから無暗に出歩くのはご法度というのがある。
御用でもなく出歩いて、辻斬りに遭って斬り捨てられても言い訳はできない。
旗本の桐野新左エ門は、根岸の里の妾宅で正体をなくすほど酒を呑み、うっかり寝込んでしまった。
気が付いたら、辺りは真の闇。
あわてて、女に提灯を用意させて駿河台の本宅へ急いだ。
御茶の水の坂にさしかったとき、桐野の目の前を鬼火がふわふわと蝶のように舞った。
「妖怪め!」
刀を抜こうしたとき、桐野の背後から斬りかかった者がいた。
もんどりうって倒れるところを、前から匕首で心ノ臓をひと突きにされたので、ひとたまりもなかった。
翌朝、大八車を引いて神田の市場に野菜を卸そうとやって来た百姓が、御茶の水の坂で奇怪なものを見た。
乳色の朝霧の中、侍が大の字に伸びているのを、危うく轢きそうになった。
さらに驚いたのは、その顔の上には、とぐろを巻いたひとかたまりの人糞が載っていたことだった。
「桐野という旗本は、評判の悪い男だぜ」
岡埜同心は、三ノ輪の蕎麦処・吉田屋の二階で、おかめ顔の女将に酌をさせ、朝酒を呷っていた。
下駄のような四角い顔は、すでに赤鬼のように真っ赤だ。
「・・・・・」
下戸の浮多郎は、岡埜の酒に濡れた朱色の唇が動くのをただ見つめていた。
「どう評判が悪いかというと、同僚たちに札差を紹介して高利で金を借りさせ、裏金をこの札差からたんまりもらっていたからだ」
江戸開府から二百年。
長きにわたり戦さも争乱も無いので、もはや無用の長物と化した侍の暮らしぶりは、次第に息苦しいものになっていた。
「あげく、馴染みの吉原女郎を当の札差に落籍せて根岸あたりに囲わせて遊び放題ときたもんだぜ」
「同僚の恨みを買ったのでしょうか?」
「かもしれん。が、貧乏旗本にとって札差は猫に小判。裏金を取っても、金を貸す札差を紹介してくれるのはありがたいとも言える」
浮多郎は、ただうなずくだけだった。
「侍の顔で糞をひねるなどという馬鹿にした殺し方に、お上は怒っておる。われら町方は旗本に手出しはできん。が、奉行所もやれることはやれということだ。われら町方は札差と妾を洗うことになった」
・・・ということで、浮多郎は桐野某の妾を探ることになった。
神田明神下の札差がいったん落籍いてから桐野の妾にした女郎は、半年前まで角町の北角楼のお職女郎をしていたお北だった。
吉原田圃の肥溜めで殺された教勝寺の住職の一件で、すでに番頭と顔見知りとなっていた浮多郎は、すぐに話を引き出すことができた。
「お北さんの馴染みは大勢いましたが、旗本の桐野さまはさほどお北に熱をあげていたとも思えません。札差の旦那と連れ立って現れ、宴会を終えると旦那だけ先に帰って。ええ、いつも揚げ代は旦那持ちです」
番頭はお北が桐野の妾になったのを知らなかった。
じぶんの女房とか妾にするため女郎を落籍くのが当たり前で、いったん落籍いてから別人の妾に押し込むのは、少なくとも吉原では許されなかった。
落籍には大金が必要だった。
お北を桐野の妾にするということは、かの札差は桐野によほど利用価値があると踏んでいたのだろうか。
浮多郎を送りに出た番頭は、暖簾からいったん出した首をあわてて引っ込めた。
「ああ、またあいつが来てやがる」
「えっ、だれです?」
番頭が暖簾の陰から伸ばした指の先に、格子から半間ほど離れて立つ花川戸の兼吉が見えた。
「兼吉がどうかしました?」
「地廻りみてえに格子を回って、気に入った女郎を日がな一日眺めてやがる。どうにも気持ちの悪い奴で」
・・・兼吉の視線の先には、振袖新造のみはるの幼い顔があった。
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