第5話「キッチン」

 コイツは……まさか……


 体内に蓄積された物質が、門戸開放宣言を唱えているさまを感知した。


 俺の場合、放出の間隔はおよそ一日に一回。たまに多いときで二回。特に多すぎるわけでも少なすぎるわけでもないだろう。

 富岡第一高校に入学して七ヶ月半。よくよく考えれば、まだ学校内で個室を利用したことは一度もなかった。夕食後――だいたい食後二、三時間経ってから――にぶっぱなす確率が最も高く、次いで起床後。たとえぼっち飯をたらふく食っても、昼間に催すというのは俺の体に関していえば皆無に等しい。少なくとも、これまでの人生ではそうだった。


 それなのに、なぜ……? まだ昼飯も食べていないというのに……。ぼさっと突っ立ったまま、俺は夕べから今朝にかけての記憶をたどる。


「もしや昨日の!」


 人のまばらになった教室で、俺は声を大にして叫んだ。


 * *

 

「ただいま」


 玄関からリビングダイニングに上がり、携帯をいじくりながら機械的な挨拶をする。


「お帰り哲仁あきひと

「あっ、アキくんお帰りぃ」


 すぐさま、二種類の声が飛んできた。

 無機質に近く感情の読み取りづらい声と、かん高くて無意味にびを売るような声。


 視線を向けると、ソファーで雑種犬たちに餌をやっている母さんと、エプロンと三角巾をつけたカナチャンの姿があった。俺は何事かと思って怖気おじけづく。

 いや、母さんについてはいつものことだ。相変わらず獣臭はキツいが、今さら驚きもしない。しかし、カナチャンがキッチンに立っているのはどういうことだろう。


 カナチャンは母さんの妹で、二十代半ばに統合失調症の診断を受けて以降、ずっとここに居候している穀潰ごくつぶしだ。言い方が悪いかもしれないが、実際そうだから仕方ない。確か、今年で三十六歳。

 肩書きは家事手伝いらしく、婆ちゃんが亡くなるまではたまに夕飯を作ったりしていたが、最近はほとんど自室に引きこもっている。

 寂しさを紛らすために二、三日に一度、姉である母さんの部屋に行って世間話をするぐらいのカナちゃんが、キッチンでなにやら料理らしきことをしているだと……? ディベート勝負を二回こなして疲労した脳では冷静な思考もままならず、俺はあきれたように半笑いを浮かべた。


「なにしとるが?」


 驚きと困惑と怒りをないまぜにしたようなトーンでいた。


「彼女、最近お料理の本をよう読んどって、久しぶりに作ってみたくなったんやと」


 なぜか母さんが答えると、カナチャンは脂ギッシュな丸い顔を歪めて微笑む。


「そんなばやくな台所で料理なんかしとったら駄目やがいね」

「もちろん、片付けたちゃ。二人で協力して」


 やはり、母さんが代わりに答える。

 よく見ると、キッチンの脇にはごみ袋が二つと、掃除に使ったのであろう雑巾や軍手も確認できた。どうやら本当に使える状態に戻ったらしい。


「あっそ」


 にべもなく答え、くるりと背中を向けた。

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