第7話「長いため息のように」

 カナチャンが立ち去った室内には、悪臭が軽減した代わりに寂寥せきりょう感が押し寄せてきた。

 目障りなのが消えてせいせいしたはずなのに、このモヤモヤした感触はなんだ……? 母さんにはたかれた左頬がジンジンと痛む。


 母さんは、ソファーに戻ってマルチーズに顔をうずめている。見ているだけでえずきそうだ。


「あんなのずっと置いとくと、この家がダメになる。ばあちゃんだってあの世で悲しむよ、きっと」


 すっかり憔悴しょうすいしている母さんにダメ押しとばかりに捨て台詞を吐き、リビングダイニングを後にした。



「はぁ」


 玄関に出て、壁にもたれながらため息をつく。

 家にいてもイライラするので自転車でひと走りしてこようかと思い、下駄箱に手をかけた。


「とりあえずションベンすっか」


 そういえばしばらく排泄していなかったことを思い出し、奥のトイレに入る。


 膀胱ぼうこうを空にしてすっきりしたところで、ひとまず二階の自室に戻ることにした。


 俺の部屋は二階の奥で、手前にはカナチャンの部屋がある。

 普段なら、帰宅した際に足音を聞きつけて扉を開け、例のかん高く媚びた声で俺の精神をぎにくるのだが、今日は物音ひとつしない。いつも律儀に悪臭を携えて登場するのでうんざりしていたが、こんなふうに静寂に支配されているのもそれはそれで居心地が悪かった。カナチャンの部屋の前で数秒立ち止まったのち、自室に入って施錠する。


 鞄を放り投げ、学生服のままでベッドに飛び込む。そろそろ寿命なのか、あるいは俺の体重の問題か分からないが、ベッドはみしみしと耳障りな音を立てて俺の精神に擦り傷をつけた。


「はぁ」


 仰向けになって、ため息をひとつ。ブレザーのポケットから携帯を取り出して芸能ニュースなど眺めてみるが、少しも楽しくない。なぁにが"篠原涼子、今年のクリスマスの予定は!?"だ。知るか勝手に過ごしてろボケ。


 隣の様子が気になり、体を起こして壁際に移動する。

 壁に耳をあててみると、カナチャンがすすり泣く声がきこえた。俺は、思わず頭をぼりぼりとく。なんだよやっぱり泣きたいんじゃん。無理しちゃってさ。まあ、あの場で泣かれてもそれはそれでうざかっただろうけど。


 どうしたものかと思いながら、もう一度ベッドに寝転がる。相変わらずみしみしとうるさい。


「はぁ~」


 もはやため息しか出てこない。明日は一、二限から体育でハードな日だっていうのに、余計なエネルギー消費してどうするんだ。


 音楽でも聴くかと思い、寝転がったまま鞄に手を伸ばし、iPodを取り出す。カナル型のイヤフォンを装着してシャッフル再生すると、the brilliant greenの『長いため息のように』が流れた。

 なんてタイムリーな曲……じゃねえ! 無意識にため息を連発している俺への嫌がらせか? iPodを投げつけてやりたい衝動に駆られながらも、川瀬智子かわせともこの可愛らしい声がきこえると気持ちが落ち着いてきた。カナチャンの代わりに川瀬智子がおはぎ作ってくれねえかな。


 the brilliant greenは、リョウエイに薦められて聴くようになった。

 俺たちが生まれた年にデビューしたバンドなので世代ではないが、彼はなぜか古い曲をよく知っている。合唱部所属だから歌も上手く、カラオケではLIVE DAMの精密採点DXで軽く九十点台を出せるほどだ。


 “時々 この世の何もかもが いまいましくて 後悔にもれた 私の言葉

掃き捨てる場所 見つけ出せたら”


 サビに入る前のフレーズを聴き、先ほどのシーンを思い出す。

 カナチャンに投げつけた言葉。泣きたいのをこらえてつくったのであろう半笑い。母さんのうるんだ瞳。

 後悔しているのかどうか、自分でもよく分からない。俺は、間違ったことは言っていないと思う。


 それでも、このモヤモヤした気持ちをどこかに掃き捨てたく感じていると、続いて柴咲コウの『wish』が再生された。

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