第6話「標準語の穀潰し」

哲仁あきひと、待たっしゃい」


 母さんの声を受け、不承不承ふしょうぶしょうに振り返る。


「なに?」

「あんた、夕飯食べたが?」

「あぁ。食べてきた」


 悪臭ナンバーワン決定戦が繰り広げられている我が家では、食べ物が食道を通過するのは困難だ。母さんとカナチャンは鈍感な上に動物好きなので獣臭が充満していようと気にならないのかもしれないが、生き物が苦手な俺には罰ゲーム以外のなにものでもない。ついでに、俺はデリケートだ。


 およそ一年前、婆ちゃんが死んだ矢先に母さんが犬を飼い始めてから、俺は家で食事をとらなくなった。

 朝飯は、購買部の焼きそばパンかおにぎり。晩飯は通学途中にあるファミマのイートインコーナーか、学校から自転車で十分――家と反対方向なのがツラい――の場所にあるびっくりドンキーで食べるか。悲しいかな、主たる選択肢は以上。こういうとき、俺は都会暮らしに憧れを感じる。

 最近のブームは、ファミマのバターチキンカレーにファミチキのトッピング。今日で十日連続同じメニューだ。


「そう思って、食後のおやつを作ったのよ。よかったら食べてくれる?」


 タオルで手を拭きながら、カナチャンが言った。

 俺や母さんは家では主に富山弁だが、カナチャンは常に標準語でしゃべる。富山弁が嫌いなのか、あるいは十年近く東京で暮らしている間にこっちの方言を忘れたのかは知らない。


「いらんで」

「そんな、見てもないのに断るのはよせっしゃい」


 母さんが、マルチーズの頭をでながら俺をたしなめる。


「おはぎ作ったのよ。アキくん好きでしょ? 粒あんと白あんときなこの三種類」


 カナチャンが、器を持って近寄ってくる。

 優勝候補との間合いが縮まり、大脳が緊急事態宣言を発令した。しかし、母さんがいる前で逃亡するのも気まずい。


「なしてまた、急におやつ作りなんてしたが?」


 油と埃をミックスしたような臭いをまともに喰らい、じわりと眉をひそめながら尋ねる。


「いやぁね、アキくんやお母さんにはいっつも迷惑かけちゃってるから、たまには恩返ししないとなぁって思って。こんなことしか、思いつかなかったけど」


 不衛生な見た目――週に一回、多くても二回程度しか風呂に入っていない――にそぐわないぶりっ子じみたしゃべり方に、俺はますます苛立いらだちを募らせる。

 確かにおはぎは好物だが、カナちゃんの手作りなんて欲しくない。思わず、ため息がこぼれ落ちる。


「恩返しとかいいさかい、少しは社会の生産活動に戻るための努力をしたらどうやけ? ハローワーク行くとか、それが無理ならまず精神科デイケア通ってみるとか、いろいろ出来ることあるて思うけど?」

「哲仁!」


 右奥のソファーから、すぐさま声が飛んできた。


「アンタ、カナチャンの気持ち考えたことあるが? 障害抱えた人の大変さや苦しさを考えたことあっけ?」

「母さんだって障害者でないんやさかい、気持ちなんてわからんやろ」

「そういうことを言うとるんでない!」


 普段、感情が顔や口調に表れることの少ない母さんがわかりやすく怒っていることを珍しく思った。


「新宿のデパートで働きながら編集者目指しとったけど、職場で嫌がらせにあって辞めたんやろ。知っとるで。それからしばらく閉鎖病棟にぶちこまれとったことも知っとる。気の毒やとは思うけど、いつまで甘えとるがや?」


 俺の言葉を受け、カナチャンの表情が曇っていく。


「俺だって学校で嫌なこといろいろあるけど辞めんで通っとるし、母さんだって仕事大変やろうけど頑張って続けとる。障害を言い訳にして家でずっとダラダラ過ごして、珍しゅう部屋から出る気になったさかいってのんきにおやつなんて作られても、えらい食べる気になんてならんで」


 泣き出すかと思ったが、意外なことにカナチャンは笑った。


 いや、もちろん純粋な笑顔ではなく半笑いのような顔だが、これだけ言われてなお表情をつくろえるとは思っていなかったし、カナチャンなら遠慮会釈なく泣くだろうと思った。

 ばあちゃんが亡くなったときも、俺と母さんのせいだと責め立てながら泣きわめいていた。自分は閉鎖病棟に入っていて役立たずだったくせに。


 カナチャンの言葉を待っていると、母さんがマルチーズを置いてつかつかとやってきて、俺の頬をはたいた。母さんは、いまにも泣きそうな顔をしている。


「そんな、お姉ちゃん。いいんですよ。本当のことですから」


 いつもの媚びた口調とは異なる、年相応の落ち着いた口調で言った。


「アキくん、ごめんなさいね。もう、余計なことしないから」


 そう言って、カナチャンは二階の自室へと上がっていった。

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