第3話「金言と原点」

 授業終了のチャイムが、俺を現実へと引き戻した。


 いつの間にか爆睡していたらしく、左頬にふれると机の跡が付いているとおぼしき感触を覚えた。

 大半の授業を睡眠時間と見なし、夜更かしによる眠気を相殺せんとする俺にとってはいつものことだった。座学の授業でまともに受けているのは、檜山先生の古典ぐらいだ。


 特に檜山先生の授業は面白く、先月は、黒ひげ危機一髪で当たりを引いた生徒に先生役を任せるという斬新なアイデアに教室が沸いた。

 いつもの湿った雰囲気は鳴りをひそめ、適度な緊張感と期待感が織りまざった五十分間は眠気にとらわれることなどなかった。不慣れな教師と、それに対してツッコミ――しかも、わりと容赦がない――をいれる生徒たちのやり取りは珍妙で、みんな普段よりも生き生きとしているように見えた。実際、俺も楽しかった。


 それに比べて、平井の授業は面白みに欠ける。

 いや、つまらない授業をするという点では大半の教員が当てはまるのだが、平井の場合は暗記しろ反復しろとそればかり繰り返しのたまい、それを生徒に強要するように課題を振りかけてきたりするから、たちの悪いことこの上ない。“生徒の自主性を重んじる”スタンスの檜山先生とは対照的だ。暗記が大事なのはわかるが、あんなふうに押しつけられるとモチベーションががれる。


「他人になにか依頼したり力を借りたりしようとするとき、大切なのは、なにを伝えるかではなくどう伝えるか。頼むときの些細な振る舞いや言葉ひとつで、形勢は有利にも不利にも動く」


 中三のときに亡くなったばあちゃんの言葉だ。

 内容自体は真新しいものではないが、形勢の有利不利と勝負事にたとえているのが婆ちゃんらしく――ばあちゃんは囲碁が好きで、六段の腕前と言っていた――、妙に記憶に残っている。平井にも聞かせてやりたいぜ。

 むろん、俺は課題をまともに提出したことは一度もない。そのせいでクラスメイト全員の前で土下座を余儀なくされた経験を、俺はデビュー戦――夏合宿で行ったニクラス合同による詩のボクシング大会――でぶちかました。

 屈辱から矜持きょうじへの昇華。いや、そんなたいそうなものではまるでなく、むしろポエムの質としては荒削りにすら至らない乱暴なものだったが、あの試合が自分の原点であるという揺るぎない事実は、いまだに俺の背中を押してくれている。あのときの平井の面食らった顔といったらもう。


 今日に関しては、ハナっから眠っていたわけではない。ノートを開くと、一ページの半分ほどはまともに板書ばんしょを写していた。半分を過ぎたあたりから、もともと綺麗とは言えない字はあからさまに汚くなり、ページの終盤はナメクジが這ったような痕跡が散見された。

 

「アイ・アム・ア・ナメクジボーイ」


 真顔で呟き、ノートと筆記用具を鞄にしまった。

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