第12話「受容と咀嚼」

 朝。身支度を整えて自室を出た直後、俺はひとつ深呼吸する。

 隣室のドアを、ゆっくりと三回ノックした。


「アキくん」


 数秒の静寂のあと、水玉模様のパジャマを着たカナチャンが現れた。しばらく風呂に入っていないのでやはり臭う。嬉しいとも悲しいともつかない、曖昧な表情をたたえていた。


「あの……えっと……夕べは、すみませんでした」


 軽く頭を下げながら、昨日の発言について謝罪する。

 

 謝ったほうがいいなどと、中島にさとされたわけではない。今後、顔を合わせるたびに気まずい思いをすることが億劫おっくうだったからでもない。中島はそんな押しつけがましい男ではないし、俺もまた左様な理由で簡単に頭を下げたりはしない。


 自分の考えが間違いだったと痛感したからでもない。

 分からないのだ。込み入った物事について、正しいか間違っているか判断できるほど俺は成熟しておらず、知識も経験も足りていない。昨日の中島の話を聴いて思った。


 言葉を受容し、咀嚼する。それができていなかった。

 声と言葉のボクシングでは、対戦相手の放つさまざまな言葉を――たとえどんな色であれ――真正面から受け止める。その上であれこれと意味を探り、対抗策を考えたり、盗める部分を盗んだりする。

 いや、言葉だけではない。視線や表情や声のトーンやジェスチャーやあるいは沈黙でさえ、なにかしらの意味を持つ。リング上でのあらゆる挙動が発言者からのメッセージだ。自身が発表するときもむろん同じ。日常生活でも、たぶん一緒だろう。

 カナチャンが口にした「恩返し」という言葉。母さんが代わりに説明しているときの照れくさそうな微笑。カナチャンにつきまとう、統合失調症という形なき障害。カナチャンを構成するひとつひとつの要素ことばを深く理解しようとせず、表面だけを見て否定した。それが間違いだったことに気づき、俺はこうして謝っている。


「そんな……いいのよ。気にしないで」


 左手を振りながら、カナチャンが笑顔で答える。

 この笑顔の裏に、どのような感情が渦巻いているのだろう。かつてないほどに思いをめぐらせてみるが、深層はつかめない。


「あと……おはぎ、美味しかったです」


 ゆるりと微笑し、数秒の沈黙をかき消す。


「えっ? 食べてくれたの?」


 目を丸くして、カナチャンが言った。あんなに拒絶されたのに、まさか俺が食べたなんて信じられないのだろう。無理もない。


 お世辞ではなく、おはぎは美味しかった。

 コーヒー牛乳――風呂上がりに、いつも不動湯の休憩所で飲んでいる――と掛け合わせても甘ったるくないほどの、絶妙なさじ加減。もっちりとした食感が懐かしく感じた。おそらく、母さんに俺の好みの味を聞きながら丁寧に作ったのだろう。川瀬智子が作るより、きっと美味い。


「はい。また、ときどき作ってください」


 そう言うと、カナチャンは思いきり顔をほころばせた。なんの裏もなければ迷いもない表情だなと思う。


「ありがとう! また今度作る! じゃあ、学校頑張ってねぇ~」


 そっちは入浴を頑張ってくれという言葉を飲み込み、行ってきますと返して出発した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

光の三分間と声と言葉の青春~Color of Words~ サンダルウッド @sandalwood

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ