頭に「半笑い」とついている一連のシリーズ中、主人公が30代へと差し掛かる手前の頃の物語は、世の中を斜めに見ているようで、斜に構えて対処する事もある、実にリアルな一人の男性を描いています。
年相応といえば、世間一般的に考えられている点、現実に存在する点、理想とされる点と、それぞれの視点で違うものですが、本作がリアルだと感じるのは、そういった視点からイメージされるものではない、「この人だから」という人間像を描いている点であると感じています。
シリーズ作を読んでいる読者ならば人間性の変化に容易く気付けるだけでなく、初見の読者も主人公の人柄に独特な点を見つけられるはずです。
かつてトゲトゲしていたであろう人柄が、多少なりともトゲを落して今の主人公になっているけれど、それは「磨かれた」とか「揉まれた」という表現で表せるものではなく、「衝突によってトゲが剥離していった」という表現の方が相応しいように私は思いました。人当たりが良くなってきた印象を受けますが、人格から剥離したトゲは今打周囲に落ちたままとなっており、近づこうものならば踏み付けてしまう事もある、という印象があります。
その変化は、成長したとも見える反面、ただ場当たり的な変化を繰り返してきた過ぎない、作中でよく語られる言葉よるならば逃避癖の結果とも見える、そういった点にこそ、私は惹かれます。
フィクションなのだから、多少なりとも良い格好させたいという気持ちがあってもおかしくない中で、このキャラクターを造形し、ぶれずに発表できる強さが、物語を深く掘り下げてくれているようにも感じます。
主人公の悦弥は、物語の中でよく半笑いを浮かべます。
半笑いとは抑制の表情です。
彼は喜怒哀楽を抑え、日常を生きています。
それでも、淡々とクールに過ごす日々の水面下で、ふつふつと情念は湧き立ちます。
職場や家での生活、そして時々思い起こされる過去。
抑えた感情と情熱は、全て盤上で解き放たれます。
渦を巻き、炸裂する信念。
そこに在るものは、単なるゲームを超えています。
囲碁とは哲学です。
対局の描写が秀逸です。
私は囲碁のルールに詳しくありません。
それでも、盤上でどんな戦いが展開されているのかが、ルールを軽やかに飛び越え、筆致でダイレクトに伝わってくるのです。
そして、切り込むところは深層まで容赦なく切り込む。
書くべきところは一歩も譲らない。
筆者と主人公の信念がここで一致します。
囲碁を打つとはどういうことか。
そして、小説を書くとはどういうことか。
その答えが、この作品にはあります。
囲碁と文学。
いずれかを愛しているのなら、読んで確かめるべきでしょう。
僕は前作『半笑いの情熱』を七周したので、主人公、池原悦也の小学生から大学生までを知っています。なので、前作既読済みの立場でこの作品を紹介します(ちなみに、僕は二〇二〇年一月五日時点で『半笑いの信念』を三周しています)。
主人公は福祉に従事する二十代の男。実家住みで、今の御時世では「子ども部屋おじさん」と揶揄されるのでしょう。
彼は給料の発生しない時間前に出社する同僚に理解を示しません。それどころか、仮病を使い、周囲の目も気にせず平気で仕事を休みます。なぜなら、仕事というのはお金を稼ぐ以上のものではないから。真面目に働くだけで馬鹿を見る世界で、仮病を使って自発的に勝ち取った休日というのは最高ですよね。
彼は仮病を使って得た休日で純喫茶ルノアールに赴き、WALKMANから流れる音楽を聞き、優雅な休日を享受します。
僕が作中で特に共感していることとして、主人公の癖である“ホットで頼んだコーヒーを一度冷ましてから飲む”というのがあります。
実はこの主人公、表面的には一見クールに見えるのですが、実は心の奥底に燃えたぎる埋火があります。作中でも『一度熱したものをあえて冷まして飲むことに冷めた目線で世界を斜めに捉え大抵の物事に対して割り切った態度で挑む自分に重ね合わせる』という心理描写があるほど、社会人生活を通して冷め切っています。しかし、数年ぶりにかかってきた碁(恋愛)のライバルからの電話で火が付き、ライバルと普段からは想像できない、燃えるような戦いを繰り広げます。これが最高に熱い。
そう、冷めた彼にとって唯一火がつくもの。それが碁盤上の勝負だったのです。
作中で語られている『他人よりも自分のほうが勝るといえる何かがたった一つでもあることで、人は今よりも強くなれる』という言葉。この言葉が、彼にとっての信念なのです。
あなたにとって、熱くなれるものは何でしょうか。この作品を読んで、あなたにとっていちばん大切な信念を思いだしてみませんか。
確かな文章で紡がれる、感情と音楽に彩られた世界に、是非一度足を運んでみてください。