第9話「夜空のオーディエンス」

 外に出ると、空はすっぽりと濃紺のフードをまとっていた。


 まばらな街灯と家々の明かりによってひらかれた道を、ゆっくりと歩く。

 歩きながら、俺はひとつ深呼吸をした。この時間の住宅地には澄んだ空気が漂っている。

 朝や昼、太陽が出しゃばっている時間帯に漂う気ぜわしさや騒がしさや虚しさといった負の要素を、夜はごっそり取り払ってくれるのである。家と銭湯の往復は多少面倒ではあるものの、外側の清潔を保つだけでなく、屋内で濁った肺をこうしてクリーニングすることもできるのでけっこう気に入っていた。


 家から二百メートルほど先の公園で足を止めた。

 近頃は、休日の昼間さえもあまり人の集まらないこのショボいスペースを果たして公園と言ってよいのか微妙なところだが、小さな砂場と傷だらけの木製シーソーとさびた滑り台という遊具たちの存在を看過するのは可哀想で、確かに公園だ。

 かくいう俺は、幼少期によくここで遊んでいた。当時はシーソーも滑り台も綺麗で、母さんや近所の子どもたちとはしゃいだものだった。

 

 滑り台のスロープ部分にふれると、むろんひんやりとした。

 しかし表面温度のみならず、内部にくすぶる虚無感のような冷たさも含んでいた。夜気にもまぎれない虚しさは、かつてのように頻繁に使われなくなったことを嘆いているようにみえた。


 シーソーの上にビニールバッグを置き、俺は滑り台に手をかけて上った。

 いい歳した男が暗闇の中ひとりで遊んでいる光景は明らかに怪しいよなと、我ながら思う。誰かに見られたらなどと心配しなくとも、この時間、ほとんど人は通らない。



「かつてはするする滑ってた。でも今すっかりきっちきち! ビッグなヒップにゃハードなワイド!」


 頂上に座ったところで、俺は現状を即興でポエムにする。

 観客が夜空だけというのはやや淋しいが、ぼっちの俺には似合いの姿だ。


「不審者オーライ家族は不快、他人ひとの心は相当難解!」


 客席を仰ぎ、声のボリュームを上げて叫ぶ。


「点数大事さ高校大学、稼ぎはお幾ら会社のslaveスレイブ、年金暮らしの気儘きままな老夫婦、どこまでいっても数値がvalueヴァリュー


 そんなもので人生の優劣が付くなど、ばかばかしいことだと思う。だが、まったく無視して生きることはできない。

 

「数字を出せなきゃ社会のお荷物、出すべき努力を怠る家族、それに腹立つそんなに冷酷?」


 客席に問いかけるも、むろん返事はない。


「叔母の温情、知るかよ憫笑びんしょう、いつからこんなに卑小な心!?」


 もう一度叫ぶも、観客は答えない。

 濃厚な沈黙が、公園という名のリングを支配する。


 試合終了のゴングが鳴った気がして、俺は座ったまま一礼した。


 流れに身を任せて下降することはできず、間抜けにも手動で地上に戻る。

 久方ぶりの遊具とのふれあいに童心に帰ったような心地だった……などということはなく、尻に若干の痛みを覚えただけだった。


 やれやれと呟きながらも、今度はシーソーに腰かけてみる。こちらは体型に関係なく乗れるのでひと安心。表面はあちこち傷ついているが、座面はまだ比較的綺麗だった。木製のなめらかさが心地よい。

 しかし、当然ながらひとりでは沈むだけだ。向かいにカナチャンでも乗っていたら浮けただろうな。俺もあまり人のことは言えない体型だが、通学で片道六キロも自転車を漕いでいるのでいくぶんましだ。


 上空を仰ぐと、細身の半月が拍手をしているように見えた。

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