第6話 伏線
「おや? だいぶ照れ屋のようだ。私がそちらを見ると、明らかに、視線を外してしまう。どうやら、調子に乗って少し喋り過ぎてしまいました。ここからは、やはり 相談主の貴方に語ってもらいましょう」
佐藤が身を引くと、不思議なことにそれだけで圧迫感から解放された。
佐藤は決して大柄な男ではない。むしろ男にしては小柄で、ショートカットの女性のようにも見える。黙っていると、外観的な特徴もないし、その存在は希薄だ。だが、喋り始めると圧迫感があった。押し退けようと思えば、押し退けられそうなのに、なぜか、それが出来ない圧迫感は、不愉快さを伴っていた。–––––解放されて、不愉快さが伴っていた事に、漸く気が付いたと言った方が良い。
肺の中で変換されていた溜息を、やっと出す。
「語るといっても…… その、……」
指を軽く折って、自分の爪先を見ていた佐藤は、––––あ、そうだった–––– と ここに来てから、初めて素の表情らしきものを、その白い小顔の上に浮かべた。
「そうでした、忘れていました。名刺を見てください」
–––– 名刺?
『Olvido』に入ってからすぐに、名刺を渡された事を思い出す。先刻の事なのに
名刺を貰っていた事を忘れていた私は、コーヒーに波紋が立たないくらいに、静かに動揺する。最初は落ち着いて探していたが、貰ったばかりの名刺が見当たらない。
荷物など持って来ておらず、テーブルの上にはコーヒーしかない。コーヒーカップの後ろに隠れてしまうサイズの名刺ではなかったが、コーヒーカップをどかしてみる。
どかした拍子に、ソーサーの上にコーヒーが溢れてしまったが、今はそんな事は気にして居られない。
どかしてみると、果たしてそこに……
–––– 無い。
私は肩を窄めて、雨に濡れた、哀れな子犬のように佐藤を見た。
佐藤がニンマリと笑う。
「ダメですよ、大切な伏線を忘れてしまっては」
–––– 伏線?
聞き間違いかと思い、佐藤に問いかけようとしたが、質問は声になる前に、佐藤の指先で弾き返された。
佐藤の指先が、打ちっ放しのコンクリートの床を差している。
見ると名刺が落ちていた。
私は申し訳ない気持ちと、感謝を伝えるために、佐藤を見る。すると佐藤があのニンマリとした笑いを浮かべていた。
–––– 名刺が落ちるのを 見ていたのか。それで『伏線』なんて気になる言い方をして、更に慌てさせようと言う魂胆か。……捻じれてるな。
出かかった謝辞も感謝も消えて、代わりに無表情になった私は、それでも佐藤に一礼してから。床に落ちた名刺を拾う。
拾う時に、テーブルに手をついて立ち上がり、椅子を引いたが、コーヒーの表面は微動だにしない。
拾い上げた名刺を改めて見ると、
『リフレクソロジー・全療診
臨床心理士・佐藤 すずき
TEL ––––––––––
e-mail address –––––––@ ––.––』
と、書かれてある。特に何の変哲もない。
–––– これがどうかしたのか?
目で佐藤に訴えると。
「裏ですよ、裏」
–––– 裏?
名刺をひっくり返すと、そこにはこう書かれてあった。
『思い出のお医者さん』
「思い出のお医者さん?」
きっと、これが普通の小説などであれば、編集によって削除されているだろう。それ位、ヒネリも意味も無い一言だ。私はただ単に、書いてある言葉を読み上げただけの描写をしているに過ぎないのだから。–––– 強いて言えば、疑問系にして。
佐藤を見ると、佐藤は微笑んでいる。
「実は治療はもう始まっていて、対価は、もう貰っているのです」
–––– いいですか? そう言ってから一呼吸置いて、佐藤は時計の風防を撫でる。
「対価として、貴方の思い出を頂きました」
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