第7話 気持ちの悪い絡み方
あまりに訳の分からないことを言われると、人は冷静に戻るらしい。
馬鹿らしいと思って、冷静に戻ってしまうのか、脳の処理が追いつかなくなって、回路を遮断した結果、冷静に戻るのか……
時と場合によると思うが、私の場合は後述の方であろう。何しろ記憶に欠損があるのは間違いが無い。馬鹿らしいと思える状況ではないのは確かだ。
–––– 対価として思い出を支払った?
そんな疑問は、脳内を流れ終える前に遮断され、思考とは隔絶された状態で疑問だけが真空に浮く。隔絶された以外のおおよその私の思考は冷静に戻った。
冷静になって見ると、店内には程良い感じに観葉植物が並んでおり、それはテーブルとテーブルの視線を遮るようにある。その計算された観葉植物の配置から『Olvido』は雰囲気はオープンながらも、他人の耳目を気にする事なく話せるスペースを、意図して作り出した店である事が分かる。
「——なので、安心して下さい。貴方は病気を抱えていますが、色々な事が思い出せないのは、……それは、決して病気ではありません」
話しを続けながら、佐藤が時計を左手に付け替える。
「少し記憶をお返ししましょう。私が貴方を救いたいと思っているのは本当ですが、私の性格が悪いのも事実です。烏滸がましいですが、ブラック・……黒い医師のようなものですよ。法外な費用を請求する時があるでしょう?」
そうして、佐藤は風防を撫でた。
* * *
「私が知りたいのは、貴方が本当に困っている事で、貴方が本当に大切にしている思い出です」
立ち尽くす私の後ろから、急に声をかけて来た男は熱っぽくそう語った。
名前も分からないその男は、小綺麗で、白いカラーシャツの上に黒のカーディガンを羽織り、濃いグレーのパンツを穿いていて…… そして、なぜか紙袋に入った大量のとまと。それを今は隣の、空いた椅子の上に置いていた。
その男に会ったのは、ほんの数分前、きっと10分も経っていないと思う。
私は通い慣れた道で『全療診』の看板に目を引き付けられ、立ち止まっていた。それは、本当に引き付けられると言う感覚で、上手く言えないが、看板には小さな希望が宿っているように見えたのかもしれない。
–––– 今まであんな看板あっただろうか?
私が『全療診』の看板を見つめていると、背後からやって来た その男は「なにかお困り事が、お有りですか?」並んで看板『全療診』を見上げながら、私に声をかけた。
私が何と答えれば良いか、戸惑っていると、
「あれは私がやっている診療所なんですよ。今日は休診日ですが、良かったらお話しをお伺いしますよ?」
そう言って、喫茶店へ連れて来られたのだった。
男は席に着くと、あらためて困っている事は何かを訊ねると同時に、私にとっての大切な思い出は何かも、問いかけて来る。
見ず知らずの男に、–––– しかも、連れて来られたのは、診療所ではなく、喫茶店だった。本当に診療所の人間か怪しいものだ。–––– 本当の悩みを打ち明けたら、付け入られそうな気がして、警戒心が働いた。
私は適当に「趣味で小説を書いているのですが、上手く書けなくて……」そう答えると、
「–––– まさか! まさか! 小説が上手く書けない? それしきの事でウチの『全療診』の看板が見えるはずが無い! 私が知りたいのは、貴方が本当に困っている事で、貴方が本当に大切にしている思い出です」
–––– 物語を紡ぐ、全ての者たちに怒られてしまえ。
小柄な男は、創作者に対して、非常に冒涜的なことを口走ったが、
「これは、これは、すいません。私とした事が失言でした。失言なので、既に失っているものは取り返せませんが、お詫びに…… 分かりました。小説のネタを提供して差し上げましょう」
そう言って、紙袋からとまとを取りだし、テーブルの上に並べて行く。そのテーブルの天板は無垢材で、磨き抜かれた厚い一枚板の、木目の模様が美しいものだった。
「いいですか? 『小説が上手く書けない』なんて、甘ちゃんなことを言っているのだから、どうせ下手の横好きの素人なのでしょう? 素人はいきなり大勢を楽しませようとするのではなくて、少ない人数を楽しませることから考えて下さい。一人の他人を楽しますことが出来ないなら、大勢を楽しませることなど、出来ないでしょう」
爪を綺麗に切り揃えた男は、とまと を九つ並べた。
「はい。では、この九つの とまと を楽しませて下さい」
すこぶる失礼なことを言われた気がしたが、
–––– とまと を楽しませる?
そのお題に困惑して 気を奪われている内に、佐藤から与えられた無礼への苛立ちは、失礼しますと、声も掛けずに立ち去った。
「間違えました、間違えました。最も重要なのは、この本物の とまと を楽しませることです。まぁ、全て本物 とまと ですがね」
そう言って、10個目の とまと を置く。最後に置いた とまと は、表面の赤さにムラがあり、その濃淡は人の顔のように見えた。
「まっ、最悪、楽しませなくてもいいでしょう。怖がらせたとしても、人の心を動かしたのなら、それはそれで、及第点と言えるでしょう」
男は腕時計を右手に巻き替え、風防を撫でる。
「ちゃんと一個一個の とまと を使って下さいね? それと、慈善事業ではないので、対価は頂きますよ?」
そちらを見ながら、ニンマリと笑った。
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