第8話 地の文
「トマトを楽しませる?」
バカにされているようだった。
「安心して下さい。治療の一環です。私は表向きは臨床心理士ですが、実はこう言う事もやっていまして」
普通の名刺を渡される。そこには『佐藤すずき』と書かれてあった。あからさまな偽名に、これ以上 話しても意味がない事を悟り、私は店を出ようとする。
「お待ち下さい。出て行っても貴方、何処に行けばいいか、分からないでしょう?」
子供ではないのだ、いや、子供でも分かるようなことだ。
憤慨して大人気ない行動をとる前に、店を出るつもりだったが、偽名であろう佐藤に、大人を呼び止めるには あまりにも稚拙な質問で呼び止められて、私はその稚拙な質問に対して答える事が出来ずに立ち止まってしまった。
「貴方、これから何処へ行くのです? それとも帰るのですか?」
——そんなのっ、
狼狽した私は立ち眩む。
「少し落ち着いて下さい」
佐藤はそう言って、佐藤の対面にある、2人掛けの椅子を指差して、座ることを促して来た。
その椅子は茶屋などに置かれている長椅子に似たような物で、テーブルはそれに合わせた和風な物が置かれてある。その事に今更ながらに気が付いた。
「良い色のテーブルでしょう? 柿の木で出来ているのですよ。柿の木はマホガニーなどと比べて肌目が緻密なので、私は気に入っています。テーブルの高さも苦労しました。この椅子の高さに合わせるのがね」
佐藤は伸ばした中指で、繊細にテーブルの表面をなぞる。私は自分の背中をなぞられているようで、怖気が走った。——怖気が走ったのは、佐藤の指使いが気持ち悪かっただけではない。——何かをされた。けれど、何をされたかが分からない。
記憶を弄られた。と言う発想はしたが、それすらも掻き消され、後に残っているのは、2階に物を取りに来たけれど、何を取りに来たか忘れてしまっている感覚に似た何かだった。
それも得体の知れないモノによってもたらされた…… いや、得体の知れないモノに、何かを持ち去られてしまった後に、引き換えとして気持ち悪い手応えのある虚無が私の中に植え付けられた。
「貴方が今、苦しんで悩んでおられるのは、苦しい思い出があるのが原因でしょう? 仕込みは済んでいます。ひとまず、そこに貴方は座る。
その声は佐藤が話しているはずなのに、佐藤が話しているのでは無いような、まるで地の文が私に命じているような、そんな感覚に陥いらせる。
人生が一冊の本になり、地の文にそう書かれているのではどうにもならない。
私は思わず佐藤に言われるがまま、席についてしまった。
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