第2話 不安の蓄積

 普通、腕時計は左手に巻くため、針を合わせる時に使う竜頭は、右手で操作しやすいように時計の3時の位置にある。

 その一般的な腕時計を右手に巻けば、竜頭は右手の指側には来ない。なのに、佐藤が嵌めている時計は竜頭が右手の指側に来ている。

 

 もちろん世の中にはレフティモデルもあり、それは9時の位置に竜頭が付いているので、佐藤のしている時計が 左利き用の可能性はある。

 佐藤がグラスを支えて、腕を動かさないことをさいわいに文字盤に目を凝らす。

 ——やっぱり逆だ。

Girard Perregauxと刻まれた文字盤には、Ⅻの文字が親指側に、Ⅵの文字が小指側にある。これでは時計を見ようとした場合、逆さまになってしまう。


「奇妙ですか?」

 

 視線に気付いたのか、佐藤は黒い液体を吸い上げるのをやめて 左手の小指で風防をそっと撫でる。


「えぇ、まぁ。……見づらくはありませんか?」

「えぇ、まぁ。……見ることはありませんので」


 完全に真似されて、質問を鸚鵡返しにされれば不愉快になり切ることも出来るだろう。けれど、佐藤の反応は一応 返答にはなっている。微妙なが神経を逆撫でた。

 しかも、返答の「見ることはありませんので」には——

 ——苛立ちの元を見つけるのに、少し時間をかけたが、要するに時計をしている事に「意味がありませんので」、あなたの質問も無意味ですよ。そんな風に言われているようで、それによってピクリと小さな苛立ちが走ったのだ。

 本来であれば、小さく瞬時に駆け抜けていく苛立ちは正体を掴ませず、微細な負の感情だけが気付かぬうちに沈殿して行くのを想像した。

 ——それはそれで、嫌だな。

 そう思ったが、苛立ちの正体が分かるのも、佐藤の目論見通りになっているようで、嫌だった。

 

 佐藤と話し始めて、10分も経っていないはずだが、分かったことがある。

 この男と話していると、結局、不愉快なのだが、それは ある一定のに一気にならず、徐々に不愉快さの加減が上がって行くと言うことだ。

 佐藤は相手に不愉快が蓄積されて行く感覚を、わざわざ味合わせて楽しんでいるようだった。


 いきなり佐藤が、先程 かき回した時の鷹揚さとは打って変わって、アイスコーヒーを、氷がガチャガチャと 音が立つくらい 乱暴にかき回し始める。

 見ていて不愉快になり、眉間に皺を寄せようとした。瞬間に佐藤は掻き回すのをやめる。

 皺を寄せ切れ無かった顔の筋肉は痙攣する事になった。


「あなたも奇妙な人ですよ」


 サファイアクリスタルと思われる風防を小指で撫でつつ佐藤が、あなたもこの腕時計の嵌め方と同じくらい変だ。と、暗に匂わせてくる。


「初対面の人に対して、『奇妙』と言ってしまう佐藤さんほどでは無いですけどね」


 これは一本取られた。そんな風に声も立てずに笑って、佐藤は額を手で押さえる。

 その手の指先には、先程グラスを支えた時についた雫が付着していたのだろう、額を触った時に幾つかの水滴達は、指先から佐藤の白い額の上に移動した。

 佐藤はそれを拭うこともなく、


「失礼、失礼。……でも、あなたここが何処だか分かっています?」


 ––––変なことを聞く男だ。

 けれど、すぐに答えられずに周囲を見回した。

 

 ここは不笹井ふささい市に3つある駅の内の一つ、市庁舎に一番近い『不笹井駅』の近くだ。

 駅前は再開発が進んでいるが、少し路地裏に入ると、バブルの時期に繁殖した建物や店舗の残骸がまだ残っている。

 佐藤には駅前側に新しく出来たビルの、1Fに開店したばかりの喫茶店に連れて来られた。

 ここが何処かすぐに答えられなかったのは、不笹井市と答えれば良いのか、喫茶店……『Olvido』

 ——オルビドと読むのだろうか。

 どちらで答えれば良いのか、分からなかったからである。


「オルビド……ですか?」


 佐藤はニンマリと笑って、こう言った。


「そうです、そうです。少しになって来ましたね。 が良くなっていると思います」


 再び、周囲を見回したが、他の客は居ない。

 ——見ている人?  落ち着き?

 いったい何の事だろう。

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