第六話 紅天/堕天の記憶

 夢を見ている。


 今ではない。

 昔の夢。


 舞台は都。秋の時分。

 主役はとある宮大工。

 腕を見込まれ。胸膨らませ。

 さる侍の屋敷を手掛ける、幸福だった誰かの。


 ――不幸な夢だ。


■■■


 行って来る。

 男は意気揚々と妻へ声を掛けた。振り返れば、都に於いてもくすむ事の無い、美しい妻の笑顔。


 くれぐれも身体には気を付けてと、彼女はお腹を擦りながら旦那を気遣う。


 快晴の空に負けない笑顔で。

 朝の空気に負けない清々しさで。

 男は今日も仕事に向かう。


 不安だらけだった都の仕事も、随分と慣れた。

 間も無く施工は終わる。


 田舎から駆り出された時は早く帰りたいと愚痴っていたが、いざ離れるとなれば色々と脳裏を過り、寂しくもなるのだから、都合の良い事だと男は自嘲する。


 町を歩けば幾人と挨拶を交わす。

 仕事が終わったら飲みに行こうやと誘われる。また今度と流し、町に馴染んでいる自分に気づく。


 まあ、しかし。

 仕事が終われば今の家には居られない。

 此方で別の仕事を持っている訳でも無し。

 残る事で発生する様々な手間を考えれば、帰るに越した事はないのだ。


 未練がましい事を延々と考え続けている内に、仕事は終った。男は経過を依頼主へ伝えに行く。


「……そうか。もう直ぐか」


 依頼主の行正は男の話を聞き、満足そうに頷いた。

 整髪された頭や、綺麗な身なりを裏切らず、彼の身分はとても高い。そんな彼から与えられた言葉に、男は安堵と充実感を覚える。


 此れがあるから仕事を続けられるのだと、その都度に染々と想う物だ。


「此れが終われば、お前も彼方に帰るのだったな。寂しくなる」


「は、勿体無いお言葉であります」


 頭を深く垂れる男へ、行正は柔い笑みを向けた。


「このまま帰って終わりでは寂しい。どうだ。お前の部下や妻を誘い、宴を開かないか」


「其れは有難い。きっと皆も喜びましょう」


 そうか、と行正は嬉しそうに歯を見せて笑った。

 宴は施工の終了から数日を置いた日にやろうかと話し、其の日は帰る事にした。


「いや、楽しみだな」


 子供の様に笑う行正を後に、彼は屋敷を後にした。

 帰り際に屋敷の女性に会釈をした。

 彼女はしかし、どうにも暗い面持ちであった。此方が不安になる、何か可哀想なモノを見るような目だ。


 男は気味が悪くなって、逃げるように門を潜った。


 気づけば空は赤らんでいた。

 此れは良い時間だと、男は帰り道を曲げて、とある男の屋敷へ足を伸ばす。


 向かう先はとある公家の屋敷だ。

 本人曰く、力は弱いし、賢くもない落ち零れ。

 だがそんな言に男は全く耳を貸さなかった。


 彼は物腰が柔らかく、態度は冷たい様に見えるが照れ隠しで、その実は仲間想い。何より―――。


「なんだ、また来たのか。暇なのだなお前は」


 男を見つけ、小憎たらしい言葉を吐いたその顔は、しかし言葉とは裏腹に綻んでいた。


「暇じゃあねぇさ。忙しい。忙しいが、其れでも足を運ばずにはいられねェんだ」


 男は穏やかな笑みを浮かべ、彼……緑仙の隣に腰を掛けた。


「いらっしゃい、紅緒さん」


「おお、茜ちゃん。こんばんは。今日も別嬪だねェ」


「あら嬉しい。お茶でも出してあげましょうか?」


「そうしてやれ。どうせもう見られなくなる顔だ」


 悪態をしれっと吐き、緑仙は傍らの琵琶を膝に置く。其れを気にするでもなく、茜は笑い奥へ消えた。紅緒もまた何を言うでもなく、ただ穏やかな顔で胡座を組み、目を閉じた。其れが始まりの合図である。


 緑仙もまた眼を閉じ、静かに息を吸う。


 「――――――――」


 奏でられるは澄徹、艶美の極み。


 控え目な鈴虫の背景に朱が混じり、帳がゆらり下りる其の中で。緑仙は緩やかに。艶やかに。しなやかな指で琴を愛で、花鳥風月を歌い上げる。


 朗らかに高く。

 淑やかに優しく。

 憂う様に切なく。


 其れは耳に染み入り、心に響き、聞く者全てに心地好く落涙を促した。


 初めて聴いたとき、紅緒はしばらく動けなかった物だ。心に余る衝撃は身を痺れさせ、阿呆の様に立ち尽くした。


 其は真に美声――否、魔声であろう。


 緑仙は自身の才能を世に出すべきでは無いと自覚している。幼い頃から彼の奏でる歌は例外無く他人を魅了した。其れは余りに異質だ。


 人の心は無闇に奪える物ではない――否、奪えてはならない。異質なモノは環境に不和を引き起こす。故に緑仙が人前で歌い続ければ、必ず不幸が生まれる。


 其れを彼は悟っていた。


 また、彼は恐くもあった。人を魅了する事には快楽が伴う。中毒性も強い。続けていれば何時か、緑仙という人間が歪むという確信があった。


 だから彼は、人前で歌う事は滅多にしない。其れでも止めるに至らないのは、きっと――此の友人のせいなのだ。


「……はぁああ」


 やがて歌が終わり、間を随分と置いて、紅緒は大きく息を吐いた。


「いやはや、恐ろしいもんだ」


 琵琶を退けた緑仙は呆然とし、後に吹き出した。


「ふ、ははっ。私の歌を聴いた感想が『恐ろしい』か。ふふ……ふははは。解っておるな。解っておる。流石は我が友よ」


 笑う緑仙を一瞥し、庭へ目を戻した紅緒は顎を擦る。おかしいな、俺は今貶したとも取れる言を発した筈だが……はて。


 素直な感想ではあったが、振り返れば的外れな言葉を選んだ、と思った紅緒である。緑仙の葛藤を知らぬが故に、其れが身を穿たんばかりの、鋭い発言だったとは露程にも思わなかった。


「此方に失礼しますよ」


 悩む紅緒と笑う緑仙の間に膝を畳み、茜が緑茶を置く。「ああ、すまない」と同時に発した二人を笑うと、茜はそのまま緑仙の隣に座った。


 りりり、と鈴虫が鳴いている。


「――ああ、そういえばな」


 紅緒は一口茶を啜ると、湯飲みを両手で包んだまま今日の話……行正から宴に誘われた事を緑仙に話した。彼にしてみれば何て事の無い、世間話である。


「……奥方も、か」


 些か渋い顔をした緑仙に、反射的に紅緒はどうしたと問う。緑仙は横目に茜を見てから、億劫そうに舌を動かした。


「行正には、悪い噂があってな……」


 口調には迷いが見て取れる。

 日頃暇を持て余している彼は、都の様々な事情に詳しく、噂屋なんて真しやかな商売をしているそうだが……これもその商品の一端だろうかと、紅緒は軽く受け止めた。


「悪い噂、というと?」


「……うむ。知っての通り奴は三須峰から此方に越してきた。表向きはこの都の管理にという事だったが、奴の位を考えるとどうにも胡散臭い。三須峰は此処より大きな都だ、幕府にも近い。逆に此処は辺境とも言える端の街よ。此方に来たという事がどういう意味か、お前とて解らん訳ではあるまい」


 紅緒はまあ、と曖昧に返事をした。解るが、しかし解ったところで其れをほじくるのは野暮だと、そう思った。人には誰しも聞かれたく無い事が一つや二つある物だ。


「そんな渋い顔をするな。日和見な貴様の事だ、言いたいことは解る。しかし知るに越したことはない。こんな世だ。火種の少ない此処等でも、ふと何が降りかかるか解らん。保険は掛けるべきだし、心配はするに越した事は無い」


 伏し目がちな緑仙。紅緒は其れを見ていられず、傍らのお茶に目を移した。


「良いな。聞け。奴の異動の理由で有力な噂は―――」


「嗚呼、止めろ止めろ。野暮な事はしたかねェ!」


 深く息を吐くと、緑仙は一層、鋭い眼差しで紅緒を見る。


「そうだな。其れは美徳だ紅緒。疑うは恥よ。間違うてるのは私だろう。しかし……いや全くな、何を言おうが聞かんな……お前は」


 言葉の中でも思考を重ねたのであろう。緑仙は曖昧に舌の上で言を転がし、最後には忠告を止めた。


「此れだから、頑固者は、面倒なのだ」


 ふてくされるように胡座をかき、肘の上に顎を置く。傍らの紅緒と茜は、其れを微笑ましく見ていた。


「お前は口が悪い。然して根は誰よりも優しい。俺はお前の楽が好きだが、其れ以上に、お前という人間が好きなのだ。茜さんも、だからお前の元に居るのだろう?」


「良い事を言います。聞きましたか緑仙さま。その通りなのですよ」


 喧しい、と目を泳がせた緑仙を二人が笑う。

 気づけば帳もすっかり下りようとしている。

 綺麗に設えられた庭園、其の小川には、チカチカと光が灯り始めていた。


「そろそろ帰るか」


「気をつけて帰れよ」


 立ち上がった紅緒に声をかける緑仙。茜もまた見送る素振りは見せない。前に紅緒が嫌がった事もあるが、何より二人は彼を対等な存在として見ていた。


「じゃあ、また来る」


「ああ。そろそろ満月だ。次は奥方も連れてこい。酒席を開こうぞ」


「そりゃ良い!」


 呵呵っと笑い、紅緒は屋敷を後にした。


 夜の郊外は暗く不安を誘うが、紅緒の胸中には来る酒席への期待が渦巻いており、例え視界が通らなくとも心を乱すことはなかった。


 それから数日は平穏だった。

 紅緒は仕事をし、報告し、時間のある日は緑仙の家へ遊びに行った。

 満月の夜には早めに仕事を切り上げ、妻を連れて緑仙の屋敷で酒席を開いた。


 初顔合わせとなった紅緒の妻、菫(すみれ)は、大きなお腹を抱えているとは思えない、しなやかな動きで二人に挨拶をする。


「……」


 其の振る舞いが余りにも、様になっていた。

 茜は盆を持ったまま固まり。縁側に座す緑仙は盃を落とす、なんて粗相をした程だ。


 切れ長の艶美な瞳。綺麗に通った鼻筋。張りのある小さな唇。長く真っ直ぐに流れる黒髪。其れでいて驕りを見せない、柔和な笑みを浮かべる人柄。

 

 何だこれは。緑仙にそう思わせた菫は、平民らしからぬ気品に溢れている。


「なあ、紅緒よ」


「なんだよ」


「貴様、何処の貴族を拐かしたのだ?」


 瞬間、紅緒が大笑したのは言うまでもない。笑い声で我に返った緑仙は、不貞腐れる様に低い声で抗議した。


「笑うがな紅緒よ。事実、奥方は類い稀な美人だぞ。私も立場上、様々な美人に合うて来たが……こう、眼が覚めた心地だ」


「呵呵呵。良いのか緑仙、そんな事を言ってよ。茜に睨まれても知らねェぞ?」


「私は其処まで自信家じゃありませんよ。敵いません。菫さんは本当にお綺麗ですもの」


 菫は手放しの褒め言葉に堪えかねたのか、姿勢は真っ直ぐなまま僅かに顔だけ伏せて、か細く「滅相も御座いません」と漏らした。


 其れが、茜には酷く効いたらしい。


「~~~っ」


「え、や、わっ」


「おいおい、何をしている茜」


 緑仙が半眼で胡散臭い物を見るように表情を濁す。

 視線の先で受け止めた茜は、しかし止めることはなかった。

 むしろ一層強く菫に抱きつく。


「これは愛い過ぎます。外見に似合わずなんて初な!」


 子供の様にはしゃぐ茜に呆れを見せると、緑仙は盃を広って手酌する。

 くい、と一杯傾けつつ、呵呵呵と笑う紅緒を流し見た。


「……良いのか紅緒。お前の妻が遊ばれておるぞ?」


「あァ良い良い。アレはアレで嬉しそうだ、っと」


 紅緒はもつれ合う二人を余所に、緑仙の横に片膝を立て座る。

 緑仙はゆったりと眼を流し、盃を転がしながら庭を見やった。


「落ち着く頃にゃァ、仲良くお喋りしてるだろう」


 聞いた緑仙はぺしん、と顔を覆った。


「……解せんな、女は」


「なァに。男が単純過ぎるから、複雑に見えんのさ。まあ例えば……」


 紅緒は嘯きつつ置いてあった盃を拾い、慇懃無礼な所作で緑仙へ差し出す。


「男は美味そうな酒が有れば、呑まずには居れんだろう?」


 クックッ、と低く、けれど大きく身体を揺らし笑う緑仙。

 やがて横目に酌をした。


「乱暴な説破だが成る程。全く得心が行く。真に其の通りよ」


 ニイ、と笑い合うと、二人はお互いの速さで盃を傾ける。


 通して見れば、二人の間に明確な話題が有る訳でもなく。

 盃の中身と共に、流れる緩やかな時を味わい、彼等は宴を楽しんだ。


 会話に花を咲かせたのは、むしろ茜と菫の方である。存分に菫を愛でた茜が興奮の覚めた頃には、菫も茜という人物を理解して警戒を止め、素直に言葉を交わしていた。


 二人の話題は専ら紅緒と緑仙の事で、聞かれては気まずいと座敷へ入って密談に耽った。やがて勢いづいた会話は密談等とは世辞にも言えない開けっ広げな声量となり、二人の耳にも届いていたのだが、余りにも愉しそうなので彼等は口を挟む事はしなかった。


 隣に居てくれる女が、己について愉しげに話している。

 彼等には其の事実を確認出来ただけで、満足だったのだ。

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