第三話 千湖/縛る其の名
其の夜はガタンと大きな音が鳴った。
山に住んで以来、聞いた事も無い轟音だ。
幼い千湖【ちこ】は素直に驚いた。釜を混ぜる手を止め扉を見る。客といえば、五日に一度来るじい様くらいなものである。しかし以前来たのは二日前。
では、誰だろう。
誰もが警戒するであろうこの瞬間。千湖はしかし、欠片の恐怖も抱いていなかった。其の幼さ故に、得ている知識も其の限りであり、人は皆優しいのが普通だというのが、千湖の世界だった。
淡い橙に染まる部屋の中。千湖は現れるだろう客人の為に、もう一つ椀を出した。こんな夜更けに訪ねて来たのだ、お腹を空かせた誰かが来たのだろう。
出来上がった味噌汁を自分の碗でよそい、味を見る。申し分なかった。千湖は来客用の碗を手前に用意し、入り口の方をじっと見る。
正直、嬉しかった。人に会うなど、じい様以外には無かった千湖だ。そのうちにふと「もしや、自分の両親ではなかろうか」と思い至り、打ち消す事も出来ず期待してしまう。両親の顔も死に目も知らぬ千湖にしてみれば、期待せずにはいられぬ状況である。
「邪魔するぜ」
野太い声だった。体を震わせ、染みる様な声だった。万人が畏怖を覚える其の声を聞き、千湖は心を躍らせ笑う。
何か気の利いた声を掛けなくては。そう思い至った千湖は、しかしなんと言えば良いのか解らず。
「おかえりなさい」
結局じい様へ駆ける言葉を丁寧に言い変え、お辞儀をした。野太い声は、幼い声に温かく出迎えられる。
だが現れたのは巨大な鬼。腹を空かせに空かせた紅天である。実はじい様が妖物除けにと貼った札も仕事をしていたが、灰と散った。
「……っけ、餓鬼か」
直ぐに腹を満たそうと思っていた紅天だ。眼に飛び込んだ喰いでの無い住人に不満が漏れる。女、であるのは良し。しかしなんだこれは。童ではないか。其れもガリガリにやせ痩けている。一口にしても物足りぬだろうと紅天は思う。人にしてみれば、小さな果実を口に放り込む様なものだ。一部が旨くとも、此れでは欲求不満に終わるのが目に見えている。
一方で、大鬼を目にした千湖といえば。
「こんな夜半、こんな所へ来られるとは、道にお迷いになったのでしょうか」
にこりと柔らかく笑っていた。千湖はじい様以外の人を余り知らない。故に目前の其れが角を生やし、身なりの悪いモノであろうが「人では無い」とは思い至らなかった。逆に紅天は訝しむ。
「手前ェ、何者だ」
自分の身なりに怯まぬ者は居ない。皆、例外なく身を震わせたものだった。醜悪な顔も、角も、躯も。全てが餌を上質に仕立てる自慢の風貌である。だというのに何故、この童は笑っている。
「何者か……? ああ、成程。此れはご無礼を。名乗っておりませんでした」
恥ずかしげに笑い、千湖は顔を再び深々と下げた。
「私、千湖と申します」
「ぐ、ぬ」
無防備に過ぎる其の姿。隙あらば殺そうと構えていた紅天は、ピタリと止まった。余りにも不可解。まさか、罠じゃあるまいな。豪快な性格ながら、彼は慎重に物事を考えた。其れが名のある坊主共を返り討ちにした、彼の真なる強さである。
「千湖……知ら」
思い当たる法力僧の名を巡らせていた、其の時。躯にえもいわれぬ感覚が襲いかかった。
ぐらり。
まるで躯が溶けるような揺れ。締め付けられるような不安感。恐怖でなく、歓喜では有り得ない。余りに未知なる波紋が、紅天の体を駆け巡る。
「なんだ、こりゃあ」
紅天が千湖の名を口に出した瞬間、躯は縛られた様に動かなくなった。
「どう、なされましたか」
対する千湖は紅天を心配している。千湖の見る紅天の表情は曇り、膝が揺らいでいた。何かの病であろうか? 千湖は更に心配を募らせる。病か、怪我か、空腹か。目前で貌を押さえ悶える彼に、自分は何をすべきかと悩む千湖。
「その。何も用意出来ず申し訳ありませんが……」
そうだ。物を食べた時、自分は元気が出る。
千湖は椀に味噌汁をよそい、紅天の前に差し出した。
「少しは、元気が出るやもしれません」
差し出された暖かな椀を前に、けれど紅天は更に疑惑を深めた。やはり此れは何処ぞの某が、自分を退治しようとしているのではないか。此の錯乱じみた揺らぎも、法力の一つなのではないか。
――だが、旨そうだった。
普段は興味すら引かれない液体に、錯乱した頭が深く深く惹かれている。腹が満ちよう筈もない。満足出来よう筈もない。紅天が求めるのは肉、そして血だ。味が付いた只の水が旨いなどと、思える筈が無いのである。
「あ? どうして、体が……!」
だが。腕は椀へ伸びていた。抗っても抗っても、頭が欲している。まるで血肉を前にした様な。何故だ。何故だ。喰いたくて喰いたくて堪らない!
「何の、真似だ。童」
紅天は苦し紛れにそう問うた。
「は、え……苦しそうでしたので、何か食べれば、元気が出るかと」
呆け、次いで呵呵と笑う紅天。千湖は何か悪い事をしてしまったかと怯え始めた。
「面白い事を云うな、この餓鬼は」
いよいよ耐えきれなくなった。腕は椀を掴み、顔へ寄ってくる。顔にぶちまけて恥を晒すよりはと、意を決して自ら碗を空けた。滅多な毒は効かぬ紅天だが、此の不可思議な現象の前には死を覚悟した。
「……お口には合いましたか」
飲んだまま固まっている紅天に、彼女は小さな声で尋ねる。紅天はゆっくりと顔を下げ、いきなり吠える。
「地獄見ちまう位に美味かったぜ、糞ったれ!」
毒づき碗を投げ捨てる。千湖は思わず身を竦めた。
「戒めも解けた……全く解らねェが、こんな場所にゃ居られねェ」
「……もう、お帰りですか」
「帰る。帰るぜ。とんでもねえ襤褸屋もあったもんだ」
立ち上がり背を向ける紅天。躯に違和は無い。まるで妖物に化かされたようであった。こんな気味の悪い場所はさっさと去るに限る。しかし紅天が肝を冷やすなど、果たして幾年振りの事になろうか。食欲なぞすっかり失せていた。
「い、行かないで下さいまし」
千湖は寂しさ故に、縋る様に声を掛ける。乱暴な客ではあるが、自分と話をしてくれた。碗を空けてくれた。何故だか其れだけで癒されて、救われて。もっと居たい、話したいと焦がれてしまう程に、彼が愛しい。故に引き止めずにはいられなかった。
「……」
元来、人の願いなど鼻で笑い飛ばす鬼は、しかし立ち止まる。
否、動かなかったのである。
「またか、糞が……ッ」
千湖は紅天が「私の為に止まった」と、そう受け止めた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」
千湖は背を向けたままの紅天へ、見えもしないのに頭を下げた。何度も何度も、涙が出そうになる程下げた。
「巫山戯た話だ。退治するでもねェ。使うでもねェ。ただ居てくれ、とは」
彼女は愚図り、鼻を啜りながら頭を下げていた。紅天は諦めてしまった。何が目的かは解らぬ。解らぬが、死ぬ事も無さそうだと察した。同時に逃げられないとも。何故かは解らないが、童は紅天の動きを縛る。或いは生まれ付いて法力を備えていたのか。若しくは鬼へ相剋を持つ、異端児かも知れぬ。
だが何方にせよ餓鬼。例え好き勝手に扱われようが程度が知れる。隙を見て殺せば万事解決、自由の身だ。そう紅天が結論付けた瞬間――木の戸が派手に吹き飛んだ。
「きゃあ!」
「ぐ、ぬぅ!」
千湖へ吹き飛んだ破片は、無意識に紅天が躯で防いだ。じろりと千湖を睨む紅天。だが、肝心の原因は頭を抱えて縮まっている。舌打ちを一つし、今は無い戸に目を移す。
「何を愚図愚図しているかと思えば」
其処には緑天が立っていた。待つ事に飽きてしまったのだろう。其の顔は実に気怠そうである。
「して、今度は何の遊びだ紅……」
「来るんじゃねえ!」
緑天は紅天の声に動きを止める。やがて踏み出した一歩を地に着けぬまま、後ろへ下げた。緑天の顔が冷たく引き締まる。
「……童か?」
緑天と千湖の眼が合ったのはその時だ。先の紅天は幾分かまともに入ったが、緑天は戸を吹き飛ばした。千湖は流石に怯えている。
「今は退け緑天。此の餓鬼、鬼を縛る」
緑天の米噛が微動する。暫く黙り込んだ緑天は不意にどれ、と呟き、長い袖を千湖に振った。袖の中より小石が矢の如く飛ぶ。
「……成る程」
的確に千湖の額を狙った其れは、紅天の硬い掌にめり込んでいた。
「年端もいかぬ童女が鬼を魅せるか。大した妖女が居たものよ」
愉快に話す緑天は、しかし突き刺すような殺気を放ち続けている。悲鳴を漏らす千湖。紅天が体で覆い視線を遮った。彼の眼には怒気が孕んでいる。
「大した下男振りだな紅天」
「手前ェの身を案じてんだ、阿呆が」
場は沈黙する。
鬼と鬼の睨み合いは千湖の息を止めさせる程に冷たく、辛辣で、恐ろしい。
「……良かろう」
緑天が目を瞑る。殺気が消えた。漸く千湖が息を吸い込み、ややしくじって咳き込んだ。
「宛は有るのだな?」
緑天の問いに視線で答える紅天。無論とすら言わぬ彼の自信を受け。
「加村にて待つ」
一言だけ残し、緑天は音も無く夜の闇に溶けた。闇を睨んだまま佇む紅天へ、千湖は恐る恐る質問する。
「あの、今の方は」
紅天は問いに答えず、吹っ飛んだ戸をはめ直した。其れからゆっくり振り返ると、巨体を屈ませ、囲炉裏の前にどっかと座る。千湖は口をぽかんと空けた。目の前の鬼は、なんと頭を下げていたのだ。しばらくして、鬼は口を開いた。
「いいか童。俺は好きなように使ってくれて構わん。だが、緑天には手を出すな」
「え、いえ」
戸惑う千湖。手を出すなとはつまり何を指すのか。彼女に何かをした覚えはなく、どう答えれば良いか分からない。
「と、とりあえず、今日は寝る事に致しましょう。寝床を用意致しますゆえ」
紅天は頭を上げる。
「言え。手を出さねェと。でなければ、俺が死のうが……お前を殺すぜ」
やってきた瞬間よりも更に強く濃い、刃じみた殺気を放たれる。爆ぜる様な勢いに押され、千湖は「出しませぬ」と言った。無論、其の意味など解ってはいない。
「良し。破るなよ」
確かめるように言うと、紅天は床に転がった。
「あの、そのままでは」
「構わん」
一蹴され、千湖は悩む。悩んだ結果、自分も何も掛けずに寝ることにした。目の前には大きな背中。其れがどうしようもなく、千湖を安心させる。
「お休みなさいませ」
声をかけるも返事はない。家は少しばかり寒いが、気持ちは何時よりも温かい。
「へくしっ」
其の次の日、千湖は風邪をひいた。
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