第四話 洛連/末期の眼

 翌朝。紅天は千湖の咳き込む声で目を覚ました。

 むくりと起き上がり、固まった体を伸ばして解す。


「……」


 感覚が、妙に鋭い。


 鬼を含む妖物の体は、闇でこそ輪郭を保つ。

 物は光を当てれば見え、闇に置けば見えない。

 しかし彼らは真逆。闇に置く事で姿を現す。故に屋内の影に在るとはいえ、体は酷く薄い筈なのだ。


「消えてねェのか」


 開いた手は、平時と変わらぬ密度を保っている。

 此れも童のせいかと横を見る。襤褸い服を開けさせた千湖は、大きく咳き込んだ。


「ぬ、う」


 瞬間、心臓を鷲掴みにされた様な怖気が襲う。

 紅天は狼狽えた。


「まさか」


 この童が死ぬと、自分も死んでしまうのか?

 ならば「千湖を殺せば解放される」という考えは間違っていた事になる。


 忌々しいが、今は千湖を救わねばならない。


「……チ、緑天は居ねェしな。どうしたもんか」


 紅天は昔、緑天が野草を煎じて法師を眠らせた事を思い出す。

 奴なら薬を煎じる事も出来たのだろう。しかし今居るのは紅天のみ。紅天に出来る事など力技しかない。


「……仕方無ェ」


 思いついた案。其れは人間に憑き、薬を手に入れるというもの。人間に憑くのは姿が朧な朝しか出来ない。しかし今は例外。出来るかどうか。


「面倒な事だ、糞が」


 悪態を吐き、のっそりと立ち上がる。千湖を見下ろすと、彼女は赤い顔で穏やかに笑っていた。紅天は部屋の端にあった藁を彼女に掛けて、家を出た。


「ぬ……」


 朝日を浴びた紅天の体は、何時もの様に透けていく。屋内が暗かったせいかもしれん、と紅天は考えた。


 辺りを見渡す。うっすらと木々の影が地面に映り、鳥の声が響いた。空は快晴。清々しい朝であるが、紅天の胸には響かない。


 道を見つけるとのっそり歩き、人里へ向かう。

 途中で一度、後ろを振り返った。道を逆に辿れば、緑天が待っている。だがまだ行けそうにない。


 舌打ちを一つ、紅天は再び歩き出す。


 道すがら紅天は考えた。先ずは体を手に入れなくてはならないが、人選は大切だ。子供では話が通じぬし、爺、或いは欠陥のある人間では面倒だ。出来れば権力のある男が好ましい。


 里へ入った紅天は視界に入る人間を吟味した。

 童。婆。爺。みすぼらしい農夫。そんなものだった。若い男の姿が全く無い。紅天は歩を進める。

 狙うは大きな屋敷の類だ。


「在るじゃねェか」


 口を吊り上げ屋敷へ真っ直ぐ向かった。

 文字通り真っ直ぐだ。

 塀も壁も真っ直ぐ突き進み、中へ入った。


 すると屋敷の主らしき構えの人間が、袈裟姿の坊主と庭で話し込んでいた。

 坊主を見て紅天は驚いたが一時のみ。

 坊主が妖物に手を出せるのは、妖物が姿を作る闇の中だけなのだ。

 しかし取り憑き、実体を持てば話は別になる。

 慎重に動くに越した事は無い。

 紅天は二人の傍らに腰を下ろし、話に耳を傾ける事にした。


「土産とは。有難いです洛連さま」


「どうせ貰い物よ。嵩張るばかりだ。遠慮無く受け取ってくれ」


 洛連という名の坊主は砕けた話し方をした。

 紅天の知る坊主はもっと威張り散らす。其れが普通だ。

 変な奴も居るものだと頬杖を付く紅天。


「薬師の無い我が村へ薬を運んで下さるだけでも、十分な土産ですのに」


「ええい、よせ。俺は世辞やら気遣いが苦手なのだ」


 ばたばたと大ざっぱに手を振る洛連。

 対して屋敷の主は「そういえば、存じ上げておりました」と笑った。


 紅天は指に顎を乗せる。コイツが薬師。村唯一の。だが坊主だ。

 屋敷の主に取り憑けば千湖は助かるだろう。代わりに紅天は危うい。

 こんな物、天秤に掛ける迄も無い。


「では、失礼しようか」


 筈だったのに。


「あ? ぉあ、が、ぐ」


 紅天は意せずして動いた。

 このままでは、このままでは、と何かが頭を揺らした。

 気が付けば紅天は男に憑いている。


「ら。ア……洛ゥ連、さま。最後に一つ、お頼みが、御座います」


 先とは打って変わった窪んだ眼。

 現を見ない虚ろな視線。呂律の回らぬ胡乱な言葉。

 其れを見た洛連は一瞬だけ固まり、そして再び座した。


「おや、まだ何か」


 洛連が座り直した事に紅天は安堵する。

 男は「へえ」と下男の如く応じ、鬼の願いを口にした。


「実は一 人村に病を患った、娘が、お ります。洛連さまに、娘を看て頂き たい」


 洛連は先よりも長く、目に見えて固まった。

 目は零れんばかりに見開いている。


「どうか、ご慈悲を。手前の財産など は全て差し上げ、てもいい。どうか、どうか」


 男は頭を床に擦り付ける。

 此れは紅天の行動だ。彼は首を飛ばされる覚悟で頭を下げた。

 視界は真っ暗である。恐ろしい。坊主が恐ろしい。

 けれど其れ以上に千湖の苦しむ姿が、何故だか酷く恐ろしい。


「案内しなさい」


 二、三度言葉を反芻し、紅天は顔を上げる。

 「宜しいので」と問えば、洛連は「仕方あるまい」と苦そうに言った。


 洛連は年を重ねているが、足には自信があった。

 常に旅をしている事もあり、健脚では若い者にも遅れを取らないと自負していた。

 だというのに。


「さあ。早く。早く」


 明らかに自らに劣るあの領主が、自分を急かしてくる。

 人らしからぬ速度で、此方を見たまま奇妙に歩いている。


「……分かっている。急かすな」


 聞いた男は頷くが、しかし歩を緩めはしなかった。

 滑るように移動する姿は余りに不気味だ。


「さあ、此方へ」


 隣町へ向かう山道の狭間。

 其処へふと現れる獣道を進み、進み、進み。

 紅天は千湖の襤褸屋へ帰ってきた。


「早く。早く。早く」


「分かっている」


 促す男に従い、洛連は中へ入る。

 紅天は其の瞬間に身体を捨てた。

 洛連は中で千湖を診ている。最早、生身は必要ない。

 漸く村の屋敷から終始、耳を叩いていた鼓動が消えた。

 紅天は死の恐怖から逃れたのだ。


「……う、え? 此処は……私は何故?」


「戻ったか」


 洛連は其れだけを呟き、振り返る事もしなかった。

 男は首を動かし続けている。

 屋敷に居た筈が、瞬間に見慣れぬ襤褸小屋である。

 男は埃が喉に絡まり、堪らず咳き込んだ。

 暫くの倒錯の後、洛連を見つけた男は事情を訊こうとし。


「ら、洛連さま、これは一た……っひい!?」


 彼の前に横たわる千湖を見て、豚の様な悲鳴を上げる。


「災禍の童……っ、ひ、ひい、あぁあ」


 よろめき、よろめき、壁に当たる。

 男は千湖を遠ざける様に、顔前に手で壁を作った。

 男は外へ転がる様に逃げていく。


「……ふん」


 洛連は初めて入り口を一瞥し、落胆しきった顔で鼻を鳴らす。


 其の時、紅天は怒りに満ちていた。

 男の千湖への態度に、腸が煮えくり返っていた。

 実体が在れば迷わず男を引き裂いただろう。

 眼は飛び出す程に見開かれ、砕けんばかりに歯を鳴らす。

 なのに紅天は如何して自分が怒っているのか、まるで解らない。


『収まらねェ。収まらねェよなァ。呵々……呵呵呵』


 ふらり、と小屋を出る紅天。

 気づいた洛連は漸く、緊張を弛ませた。


「……情けない。老いたもんだ」


 右手は拳を作っている。

 解けば、指を開き切るのに数秒を要した。

 湿りも酷い。此処まで緊張したのは何時以来か。

 人に憑く程度の妖物にこうも狼狽えるとは、と洛連は千湖を眺め思う。


「まあ良い。今はやることがある」


 素早く用意した薬を片手に、洛連は千湖の名前を呼ぶ。

 優しく、本当の孫を愛でる様に優しく。


「…………じい様」


「おう。ただいま、千湖や」


 おかえり。


 ふにゃっと、赤い顔で無垢に笑う千湖を見ると、洛連は酷く胸が痛んだ。

 もう少し早く帰っていれば、苦しませる時間も少なかったろうに。


「風邪なんてひきおって。……ほら薬だ。飲みなさい」


 ん、と小さく頷いて起き上がり、千湖は自分が藁を被っていた事に気付いた。

 昨日は何も被っていなかった。朝も。

 ならば此れは。


「どうしたんだ千湖、藁を抱えたりして」


「……ううん、何でもない」


 微笑み首を振る。そうか、やっぱり。

 千湖は洛連の薬を受け取り、口へ流し込み、水を飲んだ。

 薬は粉末だ。洛連は千湖が飲み易い様に、丸薬を砕いて与える。


「苦い」


「ああ、良い薬だからな」


 くしゃ、と頭を撫でて、洛連は押し入れから布団を用意し千湖を寝かせる。

 見た目は襤褸いが、此処には色々な物が揃っている。

 布団も枕も、茶碗や服も、実は逸品である。


 元々は洛連の隠れ家だった。

 若い時分に実力で勝ち取った品が、此処には多々ある。

 今は忘れたい品々だが、千湖に使って貰うと報われる様な錯覚をした。


 だから自由に使えと言ってあるが、千湖はなかなか使わない。

 私には勿体無い、と美しい着物は使わず、同じ服を着回して襤褸にする子だ。


 洛連は、そんな千湖が大好きだった。


 最初は『災いを呼ぶ子』を押し付けられ渋っていた。

 だがやがて彼女の純真無垢さに心を打たれ、洛連は改心した。


 此処へ引き取ってから、もう十年は経とうか。

 寝静まった千湖を眺め洛連はふと思う。

 千湖も両親を知りたいと考えているだろうか。


「……何を、馬鹿な」


 子供だ。思わない筈が無い。

 

 洛連は知っている。彼女の両親を。

 彼女がどうして独りになり、忌み嫌われたのかを。

 だから未だに言えないでいる。 

 千湖から教えてと言われるまでは、と逃げている。


 しかし何れは千湖も此処を離れるだろう。

 ならば自ずと知ってしまう。

 他人から揶揄と侮蔑と、恐怖と敵意を添え、真実を投げつけられる。

 其れは余りにも残酷だ。


 祈る様に顔を上げた洛連は偶々、部屋の隅を見た。

 瞬間、息を呑む。


「札が……無い」


 一点だけでは無い。

 部屋の四方に張り付けていた札が全て消えている。

 千湖には「お守り」だと、剥がしてはいけないと言い含めていた。

 千湖ではない。


 洛連は立ち上がり、札があった場所に眼を凝らす。

 木の壁には黒ずみがあった。


「呪が負けたのか?」


 洛連の札は其処らの妖物なら近づく事も出来ない、強力な物だ。

 破るとなれば上位の妖物……『鬼』位な物。

 しかし都から遠く離れた此の場所に、鬼なぞ来るものか?

 こんな村外れの襤褸屋に。


「……まさか」


 直感を理性が否定する。

 しかし、そうでなければ鬼が来る理由なんて。


「確かめなくては」


 洛連の顔から表情が消えた。

 千湖が無事なのは、理由の裏付けに思えてならないのだ。

 確かめねばならない。千湖の為にも。


 立ち上がった洛連は扉へ身体を向けたが、やや間を置き、再び千湖を見た。

 予感は確信に近い。

 このまま家を出たらと考えたら足は、身体は、自ずと彼女へ向かっていた。


「伝えたい事が沢山あった。伝えなきゃいけない事は、其れ以上に、沢山……」


 顔は赤いが、千湖の寝息は落ち着いている。

 一晩過ぎれば元気になるだろう。

 だがまだ体は弱っている。

 彼女が次に洛連の顔を見るには、もうしばらく夢が必要だ。

 穏やかな夢が。


「……所詮、破戒僧の戯言だ。聞いてくれるな千湖や」


 しゃがみこんだ洛連。千湖の顔がより近くなる。

 手を伸ばし、頭を撫でてやりたい。

 しかし洛連は其れをしなかった。

 其れをすべきは最早、自分ではないのだ。


「すまなかったな。……すまなかった。お前に、人並みの暮らしをさせられんかった俺を、恨んでくれて構わん。金剛三師と祭り上げられた男なんざ、こんなモンだ。鬼は祓えても、子供一人幸せに出来ん。実に情けない男だった」


 話す洛連の右手は、自分の弱さを潰すように握られる。


「こんな俺をな、心から大好きだと、慕ってくれたのは……お前だけだったよ、千湖」


 小さく。本当に小さく、千湖が声を上げる。

 洛連は滲んだ視界で其れを捉えた。

 見守る様にじっと見つめた洛連は、其の声を聴き笑った。

 涙は零れるままに、緩く首を振る。


「俺では駄目なのだ。――待っていろ千湖。明日はきっと良い日になるぞ。お前が待ち望んでいた、最高の日になる」


■■■


 凄惨な有り様に、狼は満足そうに遠吠えた。

 数刻前に仕留めた獲物を森へ引込み、日が暮れるまで楽しんだ。

 結果肉が、骨が、臓物が、絵画の如く森へ拡げられている。


 此の場は今や、動物達の晩餐会の体を成していた。

 各々が食事に夢中になる中、其を眺める目は二対。

 先の狼と、其の傍らに鎮座する、領主の生首だ。


 ぐがっ、ぐがっ、ぐがっ。


 奇妙な声を上げる狼は、不気味な迄に開口し眼を細めている。

 其れは決して獣が見せぬ、愉悦の笑み。


 やがて陽もとっぷりと暮れ、森が闇に包まれた頃。

 狼の奇声はぴたりと止まり、倒れこんだ。

 其の体からゆらり、闇より深い影が立ち上る。

 狼から萌芽した其れは、やがて禍々しい鬼の形を成した。

 紅天である。

 彼は大きく息を吸い込み、山一帯に響き渡く大声で笑った。


 呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵!!!!!


 やがて満足した様に目を細め、狂気の相貌を潜める。


「さて、あの坊主は上手くやったか……」


 口にしたのは千湖の安否。

 踵を返し襤褸屋の方角を見定めた紅天。

 彼は自らの言動に全く違和を感じていなかった。


 傲岸不遜。唯我独尊。厚顔無恥にして悪逆無道。

 其れが鬼である。


 ならば今、紅天の胸中に渦巻くのは――。


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