第五話 洛連/末期の眼・其の弐
「……妙だな」
千湖の家へ戻る紅天は、襤褸屋が見えた瞬間に足を止めた。
目を細め周囲を見渡す。
何が己の足を止めさせたのか、紅天にも判らない。
風景か。臭いか。気配か。
何れにせよ彼の鋭敏な感覚が訴えている。
「何かがおかしい」と。
「流石は歴戦の悪鬼。察せられるとは思わなんだ」
洛連は紅天の様子から奇襲を無駄だと察し、小屋の影から姿を現した。
紅天は其れを訝しげに、刺す様に睨み付ける。
「……老体には堪えるぜ、此奴は」
堪らず一歩引きかけた洛連を、誰も攻められはしない。
常人なら腰を抜かし、恐怖に息を詰まらせる睨みである。
紅天は一方で奇妙な感覚に襲われていた。
心中を掻き乱すような疼き。既視感もある。
何だ――俺はあの爺に、見覚えがある?
幾分悩んだ後に、口を開く。
「千湖はどうなった」
洛連が目を見開いたのは言わずもがな。
瞬間、彼に沸き上がっていた恐怖は、胸から込み上げた何かに溶けて消えた。
「……馬鹿者め。何故に墜ちた」
独りごちた言葉は、夕闇に霞み紅天へは届かない。
答える様子の無い洛連に眉を寄せていた紅天は腕を組み、口を開く。
「……良い。戻りゃ解る。
して要件はなんだ坊主。昼間の俺に気付いて、正義や義務から殺しに来たか? 余り勧められねぇ話だが、今生に未練が無ぇなら介添えも已む無し、付き合ってやらねェ事も無い……丁度、腹も減ったしなァ」
鬼の言葉を受けた洛連は、何かを覚悟する様に深く息を吸い込み、脚に絡まる不可視の楔を砕く。威嚇を兼ねた錫杖を突き出す構えも然もありなん。
彼の発する気配、見えぬ強靭な覚悟を感じ、紅天の顔付きが変わる。
厄介だと察した。
あの顔をした人間は、未来と引き換えに実力以上の結果を出す。
苦痛を与えても、絶望を見せつけても、全てを燃料にして動きやがる。
アレも同じだ。焚きついている。
「お前、誰の命令で此処に要る。恨みは手当たり次第買ったがよ……どうにも、お前はそういった手合いにゃ見えねェよな」
訝しげに問う紅天は、受けた洛連が静かに口角を上げたのを見た。
「呵ッ呵ッ呵、鬼の癖に良い目をしてやがる。そうさ、こうも心穏やかな祓い物なぞ初めてよ。……あの子には感謝が尽きん。俺も漸く人に成れた心地だ。あの子の笑顔の為なら、命を捧げても良いのさ。俺は今が一番、幸せだ。なあ……」
――お前だって、そうだろう?
紅天の身体が固まる。
眼が見開かれる。
「……何を、抜かしてやがる」
金縛りにあった心地だが、頭は其れすら理解していなかった。
紅天はひたすら、答えの出ている問いに矛盾を探す。
「何、答える必要は無いぞ鬼。お前の反応で確信を得た。……疑う余地も無ぇよな」
しゃらん。
洛連は錫杖を地面に突き立てた。
紅天は頭を切り替える。
目眩の渦巻く心地だが、今は敵と対峙している。
殺られる訳にはいかないのだ。
「……」
でも……其れは、何の為に?
「呆けるか鬼よ。先までの鋭い洞察はどうした、と煽りたいが……気持ちは察するぞ。俺がお前でも、やはり直視には堪えかねんよ。怖い物は、怖いのさ」
だが、と小さく言葉を切る。
視線を反らした洛連は何事かを考え、然る後に再び紅天を見据える。
其の瞳に最早、迷いは無い。
「――俺は、あの子を幸せにするぞ」
瞳に決意が燃える。
来るか、と膝を落とす紅天。
「何をする気か知らねェがな爺よ」
紅天の困惑が掻き消える。何を迷うことがあろうか。
今はただ、この爺を、殺せば良いのだ。
「俺ァ甘ったるい戯言は、吐き気がッ、する程ッ……嫌ェなんだッ!!」
覇気とでも呼ぼうか。
洛連は紅天から吹き出した圧力にたじろいだ。
だが引いてはならない。引けはしない。
引かぬ覚悟が、彼には在る。
「――陰破、魔を縛り祓い賜え――!!」
懐から取り出すは三枚の符。
洛連は其を手裏剣の如く、鋭く紅天へ投擲する。
「破ァッ!」
彼の放った符は紅天を貫かんと矢の様に疾駆した。
「洒落臭ぇ!」
紅天は其れを右手の一薙ぎで叩き落とす。
拵えるのに二晩を要する其れは、本来であれば並の鬼を滅すに十分な呪符である。
洛連は大したもんだと一笑に伏す。
反応は其れだけだ。
紅天には解せない態度だった。
「さあ鬼よ、まだまだあるぞ。受けきれるかよッ!!」
重ねて投じられる呪符。
紅天は其の体躯に合わぬ俊敏な動きで避け、撃ち落とす。
一方で疑心は募った。
確かにこの呪符は鬼を仕留めるに十分な威力だ。
だが紅天を相手にしては話が違う。
幾ら優れた退魔符とて、彼を祓うには直撃でも数十枚を要するだろう。
其れは洛連にも解っている筈だ。判らない筈が無い。
だのに、彼は策を講じる風でもなく黙々と符を投げるだけ。
初めは驚く様な顔を見せたが、其れも大した動揺ではない。
何を狙ってやがる。
符を豪快に打ち払いながら、呵呵と大笑しながら。
一方で紅天は極めて冷静に観察していた。
「詰まらねえな坊主! 手前ェの技はそれだけか!」
「堅実さが取り柄でな。詰まらぬならそら、二つ三つ受けてくれて構わんぞ!」
「はッ。生憎、こちとら気が短ェんでな!」
紅天は吠える。だが冷静だ。
敵は何かを企んでいる。間違い無い。
では、何を?
紅天は考えた。奴が同じことを繰り返して得る物は何か。
高齢なれど、符を投げ続ければ奇跡が起こる等と耄碌もしていまい。
ならば奴が繰り返す理由は絞られよう。
一つ、焦れを誘っている。
つまり戦略的な思考に基づく行動。
この場合、洛連は長期で戦う事を見据え気力も充分である。
下手に手を出せば気力を削られる。
長期の我慢比べとなろう。
一つ、時間を稼いでいる。
此方は寧ろ一撃に賭けた選択と取れる。
機を読めねば、遅延は誘導に転じる。
長引くほど不利であり、短期決戦が望まれる。
行動するにも、先ずは相手の狙いを絞るのが定石。
そう考え紅天は洛連の背後にある襤褸屋を見た。
「……いい加減、飽きたぜ爺」
紅天は駆ける。
判断するにはまだ材料が足りない。
洛連は此れを待っていた可能性もある。
愚策と言って間違い無い。
だが、駆けた。
らしくない行動だった。
行動は豪放磊落、なれど思考は冷静沈着。
其れが紅天の本質であり、其れ故に鬼の身で今日まで生き長らえた。
紅天の強さの芯は、正に此の冷静さに在ったのだ。
だというのに。
「……ああ、進むしか無いだろうよ」
放つ洛連の言葉にも疑問は湧かない。
不可視の焦りが、紅天の四肢を毒の様に侵していく。
「何を、ゴチャゴチャと、抜かしてやがるッ!」
其れは距離を掻き消す様な前進……否、突進だった。
常人離れした洛連の眼にも、紅天が巨大化して見えた。
軌道が見えなかったのである。
だが、彼は怯まない。
親指を立てた右腕をス、と上げて。
「頭が高いな、鬼」
逆さに落とす。
―――『お座り』だ―――
「ぐ おぉおぉおぉあ!!」
洛連へ爪を振り下ろす、正にその瞬間。
突如、紅天は膝を着いた。
腕は鉛の様にどすりと落ちる。
其れは地面にめり込む有り様である。
「んだ、こりゃァ……ッ」
「よぅく、地面に目を向けて見ろ」
紅天が見た其処には、先までは無かった筈の幾何学模様と、華やかな絵画が現れていた。
「外道潰しの曼陀羅よ。仕込みに死ぬ程、手間がかかる分、効果は御覧の通りだ。
……重かろうが、鬼。そいつはなァ、お前の背負ってきた業の重みよ……」
堪える膝がずぶり、と沈み体制が崩れた。
溜まらず足を滑らせた紅天は四つん這いの状態となる。
天下に悪名轟く紅天様が聞いて呆れよう。
何たる愚昧。何たる間抜け。何とも無様極まる姿よ。
自嘲を浮かべ、けれど直ぐに洛連を睨み上げる。
だが苦渋に歪む顔では威厳も威嚇も有りはしない。
洛連には余裕すらある。今や静かに見下ろすのみ。
「は。か。かか。呵呵呵呵。
……此が。此が、都を恐怖に染めた轟魔、紅天の最期か? くかか……」
洛連が見下ろす其処で紅天は諦めた様に顔を下に伏せ。
――た、かと思えば。
勢い良く顔を跳ね上げた。
「クソじゃねェか! カスじゃねェか! 笑えるぜ! こんな虫みてェによ、這いつくばって、潰されてくたばるんだなァ俺は! んは、んはは! 呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵ッ!」
「おうおう、何だ。狂ったかよ」
「気にすンな、元からだ。呵呵……忌々しいクソ坊主がァ……只じゃ死なねェぞ! 手間ェも道連れだァ。死のうが其の喉笛、食い千切ってやるッ! 殺してやるッ! 絶対にだ!」
洛連は一頻り紅天を眺めると、静かに目を閉じた。
鬼が喚く中、考える様な間を置いて、再び目を開ける。
「このまま死ぬのを眺めるのも愉快だがな、一つ教えてやろう鬼よ。
お前は、勝手に潰れているだけなのだ」
どういう意味か、と紅天は絶え絶えに問う。
勝手に潰れている?
骨が軋む程の重圧は笑えない重さだ。
此れを錯覚だとでも言うのか。
「実は俺にもな、重しは掛かっている。一歩間違えば俺とて潰れてしまうのよ」
まさか、と洛連の足元を見れば……僅かに足が沈んでいる。
嘘ではないのだ。
「だが俺は、俺の業を受け入れた。故に耐えられる。意味が解るか鬼」
「ッは、まるで解らねえな。だがお前の首を食めば解るかもしれん。解る気がしてきた。なあ爺。ちょっと、此方に来てみねェか?」
「……、く、呵呵。呵ッ呵。口の減らん鬼よな」
洛連は顔を抑え低く笑う。
紅天は眼を離さず睨み付けた。
何処かに隙はないか。逃げ道はないか。
一撃奴に見舞えば、此れも消えるだろうと考えている。
だが。
「残念な事になァ鬼よ。俺には時間が無いんだ。情けをかける余裕も無い」
洛連は踵を返した。
「故に、お別れだ」
告げて。
洛連は大きく右足を上げ、曼陀羅に叩き下ろす。
途端、紅天を目眩が襲った。
身体中を虫が這い回る様な怖気が走り、頭を掻き回される様な吐き気が襲う。
「此れは、まさか……?!」
「去らばだ鬼よ。過去に殺されるが良い。これで――」
千湖とも、お別れだな。
「ぐ、ぬあ」
紅天に吐き気とは違う何かが込み上げる。
叫ぼうとした。だが叫べない。
体はどうしようもなく重く、思考は吐き気と意味不明な嫌悪感でぐちゃぐちゃだ。
呑まれる。
紅天は塞がっていく視界を感じて、悟った。
意識が闇に呑まれる。
ドロリとした闇だ。眼を背けたくなる闇だ。
既視感を覚えながら、弱っていく意識は勝手に其れを思い出そうとしている。
きっと全てが呑み込まれる刹那。
紅天は思い出した。
不快なナニカ。
吐き気を催すナニカ。
知っているのに思い出せない。
否、思い出したくなかったナニカ。
「糞が……今更……」
其れは、彼が人間だった頃の記憶だった。
■■■
紅天が倒れ伏したのを確認し、洛連は膝を落とした。
口元を何かが伝うのを感じ、舌打ちの後、右の袖で拭う。
甘くなったものだ、と頭の中で自嘲する。
昔を思い出せば舌が出るが、しかし強く在った。
在りし日の洛連は罵声にも、非難にも、曲がらぬ芯が在った。
其れが今は消えたのかとも考えたが、彼は軽く笑って首を振る。
違う。俺は据えるべき芯を変えただけだ。
其れだけだ。
今だって曲がってはいない。
其の証拠に、俺は今の結果を恥じていない。
後悔もない。
やりたかった事はあるし、やるべきだった事もあるが。
……それは。もう俺でなくとも良いのだ。
「なあ、 よ。お前の女房は別嬪だった。羨ましかったぞ」
意識が朦朧としていた。
自分が何を話しているかも解っていなかった。
「……嗚呼。やることは全てやったが。どうにも心残りがあったな」
膝が折れる。体が横に倒れた。
受け身も取れず倒れ込んだというのに、洛連は痛みすら感じない。
ただ訥々と、独り言を繰り返す。
「千湖は……元気になった……かな……」
眼が閉じられる。
舌が止まる。
変わらず在るのは夜の闇。
語り始めるのは藪の虫。
高く柔い鈴の音が森を囃し、いつもの夜が現れる頃。
――洛連は、静かに息を引き取った。
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