第八話 紅天/堕天の記憶・其の三

 行正は完成した屋敷を、其れは隅々まで見て回った。

 眼を輝かせては感嘆の息を漏らす彼を、紅緒は複雑な心境で見守っている。


「素晴らしい。素晴らしい。こんな立派な物は貴族でもそう持てる物ではないぞ」


「有難うございます」


 畏まり頭を下げる紅緒は、しかしまるで言葉を理解できなかった。

 口を吐いたのは反射だ。頭にはずっと別の物がこびり付いている。


 ――何時、其れを口に出すのか。


 そんな恐怖が頭を離れない。


「身に余るか。この屋敷こそ私の身に余ろう」


 本当に嬉しそうだった。

 紅緒は無邪気に喜ぶ行正の背中にそんな感想を抱く。

 緑仙の話を聞いておきながら何を、自分を戒めた。

 しかし……こんな姿を見せられては警戒心が緩むのも当然だろう。


「やはり此れだけのものだ、褒美を取らせねばな」


 故に。其の言葉を聞いた瞬間、紅緒は背筋を凍らせた。


「お前と、お前を支えた作業員やその家族全てを労いたい。準備はしてある。明日、皆を誘って屋敷へ来てくれ」


「あァ、いや、しかし」


「心配するな。其れくらいで私の懐は痛まん。遠慮せずお前も家族を連れて来い」


 語る行正の背から眼を反らす。

 僅かに弛んでいた気持ちが怯えに引き締まる。


 そうら見たことかと、耳の奥で緑仙が笑っていた。


 此処でどんな言い訳をしようが無駄だと緑仙は語った。

 行正は其の日に叶わぬならば新たに仕事を作り、紅緒を町に留める。

 そうしてより確実な手で菫を手に入れようとするだろう。


「わかり、ました」


「うむ。仲間には此方で連絡をしよう。楽しくなりそうだな」


「行正殿」


「ん、どうした」


「私を支えてくれたのは作業員や妻ばかりではありません。故に……厚かましいとは存じ上げますが、私の友もまた、招いては頂けませんか」


 ほう、と顎に手を当てて行正は振り返る。

 向けられた目に色がない。探りを入れている観察の眼差し。

 紅緒は爆発しそうな胸を掴みながら、精一杯の無垢を演じた。


「――ああ、良いとも。勿論だ。沢山呼んで、愉快な席にしようじゃないか」


 気取られないように息を吐き、紅緒は胸元を掴んでいた指を解く。

 緑仙の読みは的中している。


「では、そうだな……昼からにしよう。ちゃんと来てくれよ。しっかりと、準備しておくのでな」


 行正は別れ際までずっと、楽しみだと紅緒に話した。


 屋敷を出て、街を歩く。

 何も知らなければ、アレは純粋な気持ちに見えなくもない。

 念願の屋敷が完成したのだ。しかも其れは紅緒の渾身にして会心の出来である。

 だが――。


「む……?」


 俯き歩く紅緒の耳に町人の声が飛び込んだ。

 出来れば別の事を考えたかった紅緒は、招かれる様に近づいていく。

 

 こわいねえ。いやだねえ。どうしてこんな町で。かわいそうにねえ。わかいのにねえ。むごいねえ。でもだれだいあれは。見たことがないね。あたしもだ。あたしもだ。あたしもだ。あたしもだ。いや。あたしは、見たことがあるよ。あれは―――。


「   さん、だ」


 ひク、という音が聞こえた。可笑しな音が聞こえるもんだと思った紅緒は、最後まで其れが自分の声だと気づかなかった。ただ足が動いた。人垣を掻き分けた。そんな筈はない。そんな訳はない。だって。昨日は。昨日はあんなに。絶対に、聞き間違いだ。


 彼は頭の中でそんな筈はないと連呼する。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。一つ否定する度に視線は下がる。体温が下がる。周囲の音量が下がる。歩幅は狭くなり、心中の嘘を追い立てる様に心臓は早鐘を鳴らす。


 群衆を弱々しく掻き分け、いよいよ耳鳴りすら聞こえ始めた真っ白な心境の中。

 辿り着いた先に見たのは。


「ぅ……あァぁ……」


 民家の壁に打ち止められ だらしなく口を開き 首を手を足を投げ出して 伽藍堂の瞳を彼方に向け 全身の刃傷で血塗れになった


「あぁあああああああああああああああああ!!」


 茜 だった。


 紅緒は吐いた。群衆を背負いながら吐いた。

 あんまりにも、あんまりにも感情が沸き立ち暴走して。

 いよいよ身の内に抑えきれなくなって、吐いた。


 どうしてとも今は考えられない。圧倒的な死の実感が彼の脳を掻き乱した。恐ろしい温度で焼き付いた「  」に精神が喘ぎ悶えている。


 気持ち悪い。目が回る。立ってなど居られない。倒れる様に膝を着き蹲った。吐けるモノはもう胃液しかなかった。喉が焼ける。涙が出る。其れでも嗚咽は止まらない。


 えっへ。えっへ。えっへえ。


 笑い声にすら聞こえる其れに群衆は身体を引いた。誰も手を差し伸べない。逃げていった。やがて紅緒は其の場にたった一人、残される。


 顔を上げれば、茜の無惨な姿が見えてしまう。そう考えると動けなくなってしまい、役人達が死体の処理を終えるまで、彼はずっとずっと蹲っていた。


「――――――」


 そういえば。

 此処は『昨日通った帰り道だった』と気づき。

 彼が其の心臓を再び凍らせるのは、その直ぐ後だった。


■■■


 縁側で煙管をくわえ、呆、と目に空を映している様を見た。


 瞬間、紅緒は膝から崩れる。常に枯れることの無かった杯が今日は底を見せている。見れば緑仙は時折、思い出したかの様に隣を見やる。紅緒は視界が揺れるのを感じた。


 いや。泣くべきは俺では無い。


 紅緒は両手で頬を叩き喝を入れた。惨い現実を前に泣き崩れるのは女子供に任せて良い。男ならば例え辛くとも危機を直視し、生きる者を守らねばなるまい。


「邪魔をするぞ、緑仙」


 かけた声に鈍重な動きで振り返る緑仙。


「待っていたぞ紅緒……そろそろだと、思っていた」


 彼は地に眼を逃がしながら、小さく口を開いた。気持ちを入れ替えた筈の紅緒だが、緑仙のその姿を見て心が揺らいだ。しかし固く拳を握り耐える。


「茜が、死んだそうだな」


「……其の様だな」


 緑仙の言葉を最後に二人は沈黙した。茜の死には緑仙の意思が絡んでいる。

 紅緒は其れを確信していた。彼の隣に腰を掛ける事無く、真っ直ぐに立ち見つめる。現実を受け入れた紅緒だが、まだ気を抜ける程の余裕は無かった。


「……茜、はな」


 やがて緑仙が口を開いた時、紅緒は再び拳を握った。今から語られるのは、きっと知らずにいた事実だ。其れはきっと緑仙にとっても、紅緒にとっても、辛い物だと察していた。


「茜は、隠密よ」


「……あの茜が、か」


 隠密は、つまり暗殺者である。慈悲も無く情も無く、ただ主の命に忠実に対象を殺す装置。紅緒の抱いていた茜の印象は『天真爛漫にしてお節介物』である。余りにも意外だった。


「爺いが使っていた一族の一人でな、此方に来る際に……」


 其処で大きく煙管を吸い、噛み締める様にゆっくりと吐く。


「―――護身にとな、付けられた」


 懐かしむ様に話す横顔は柔らかく、口元は僅かに上がっている様だった。

 紅緒は眼を反らし眉を寄せる。


「然し此れが、小さい上に無口でな。近づいても来ない。笑いもせん」


 出会ったのは緑仙が十五、茜が十三の時だったという。

 その頃の緑仙にとって、彼女の人形然とした在り方は衝撃だった。


 緑仙の回りにはあらゆる意味で剥き出しの人間が多かった。彼等は忍耐や我慢や誠実という言葉と無縁であり、衝動に従順で目の当てられない行動は幼い緑仙を苦しめる。やがて彼が幼くして「此れが人間なのだ」と理解した時、周りの人間は全て『他人』になった。


 其れからは人間を傍観した。

 両親も例外では無い。行動の理由を推察し、検証し、其の人間の欲するモノを見抜こうとした。他人との軋轢を避ける為に自然と身に付いた其れは、けれど緑仙の才覚と相まって尋常ならざる技術として昇華する。


 刺を見せず。不快を与えず。避けられなければ、他人に擦り付ける。感情の機微を的確に見抜く彼に敵は居らず、故に―――。


「茜は全く、扱いに困った」


 自らを他人に委ねる彼女は正に、緑仙にとって天敵だった。

 緑仙と茜が出会い、そしてお互いを意識し、お互いを変えていった日々は。

 しかし最早、誰にも語られない。


「あの日はな……いや『あの日も』か。茜には、お前の護衛をさせていたのだ」


「護衛? 何でそんな事を」


「馬鹿め。菫を手に入れるには、お前を殺すのが一番、容易かろうが」


「!?」


 人の悲しみに付け入る術は総じて下種だが、絶えぬのは総じて『簡単』だからである。緑仙の意図が解らぬ紅緒ではない。震えを抑える様に指を絡める。地面が消えた心地だった。


「屋敷が完成する迄は手を出さんと思っていたが……念の為、以前から茜は付けていた」


「……そう、だったのか」


「解っているだろうがな紅緒、茜を付けたのは俺の判断だ。アレの死はお前の責ではない」


 紅緒は静かに唇を噛む。本当は言いたい言葉があった。掛けたい気持ちがあった。だが今紡ぐべき言葉は別に有る。


「緑仙。茜をやったのは……行正か」


「手を下したのは側近だ」


 紅緒は呟き、ばしんと顔を叩く。

 覗く眼は鋭く、虚空を睨み付けていた。


「緑仙よ。俺はどうしたら良い? 俺には解らねェ。俺ァ頭が悪ィ。だが収まらねえ気持ちが有る。此れを巧く燃やすには、どうしたら良いんだ?」


 握る拳は固く。歯は砕けんばかりに軋みを上げる。

 緑仙の眼には、紅緒の姿が揺らぐ様に映った。


「お前は馬鹿だな紅緒。馬鹿だ。馬鹿が過ぎる。どうしようも無い」


 緑仙は右手の煙管を二度回し。

 其れを前方の庭へと投げ捨てた。


「慣れない事はするものではないな。煙管を加えても噎せはせなんだが……どうやら俺は、紫煙に頭をやられたらしい」


 立ち上がる緑仙。紅緒は笑う。


「策はあるのか?」


「あるぞ。正面突破だ」


 良い淀む事も、抑揚を変える事も無く。

 冷静に放った其の言葉に、紅緒は全力で笑った。


「呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ! 初めてだな意見が合ったのは。馬鹿野郎め」


「付き合う必要は無い。付き合うな。俺に守る者は無いが、お前には家族が居る」


「親友の女を殺されて縮こまるなんてのは『紅緒』じゃねェ。そんな男に菫は惚れちゃ居ねェんだよ。菫が惚れたのはな……底抜けの大馬鹿野郎よ」


 其れは激情に任せた刹那的な行動だ。後を考えない愚か者の選択だ。誰しもがそう放つであろう紅緒の見得に、しかし緑仙は静かに頭を下げた。


「すまない紅緒」


「なんだよ。らしくねェぜ緑仙、らしくねェ科白回しだ」


 フン、と鼻で笑うと、緑仙は紅緒に背を向けて歩き出す。

 心中で紅緒は菫に謝る。しかし後悔は覚えなかった。

 やはり紅緒は馬鹿だったのだろう。


■■■


 緑仙が行正の屋敷にやって来た頃には帳が落ちていた。


「此れはまた立派な屋敷よ」


 素材は緑仙の屋敷と同じくしながら、造り手の意識一つでこうも風格が変わる物かよと、緑仙は場違いにも感心し嘆息する。


「汚すのは忍びないが……まあ許せよ紅緒、気遣いという奴だ」


 言って失笑する。

 そんな事を言って茜に散々怒られたなと、不意に思い出した。


 僅かに眼を閉じ、緑仙は門に手を掛ける。ぐっと体重を掛けて押せば、意外にも素直に開いた。閉じていないのか。笑う緑仙。次の瞬間に腰の鞘に右手を伸ばし。


「血の気の多い」


 僅か人一人程度の隙間から降ってきた刀を、すかさず抜いた脇差しで受け止める。

 頭上の金属音に鳥肌が立った。


 ―――命を狙われる感覚。死の淵に立つ錯覚。


 其れが埃の被っていた記憶を、経験を蘇らせた。


「温いな」


 力のこもった刃を緑仙は左に流した。

 其のまま合口を逆手に持ち、男の腹に突き立てる。


「はぁ、あ」


 脱力した男の身体を脇へ蹴り、再び門へ意識を飛ばす。

 砂利が小刻みに鳴いている。音は近い。

 門の影へと身体を回し、同時に合口を収め刀を抜く。

 間も無く、鋭く延びてきた刃と腕が二対。

 緑仙は抜いた刀を振り上げ、


「―――んッ!」


 二対の腕を叩き斬る。しゃいん、という空気の悲鳴に遅れ、ぼたり、ぼたりと、毛深く太い腕が地面に撒き散らかった。


 緑仙は門の狭間で呻いている男達を蹴り込み門を開いた。周囲を見渡せば、朧に見える敵の数は凡そ六。行正の姿は無い。


「中か」


 姿勢を崩さず真っ直ぐに屋敷へと歩いて行く緑仙。其の余りにも悠然とした歩みに、一部の兵は鑪を踏んだ。しかし見過ごす訳には行かない。


「おぉ……おぉおおおおぁ!」


 侵入者は切り捨てろ。そう言い含められている。仕事を果たさねば後が無い身だ。相手が何であろうと斬らねばならない。大丈夫。此方は数で大きく勝っているのだ。同時に掛かれば防ぎきれる道理は無い。そんな理屈を着込み、男達は次々に緑仙へと襲いかかった。


「実に温い」


 緑仙は一際迫っていた男に素早く肉薄し、其の首を落とした。

 見た数人は小さく悲鳴を上げ足を止める。次は其の足を止めた人間に走り込む。緑仙の殺意に怯んだ彼らの動きは、総じて鈍重だ。一部は刃を振る事も無く斬られていった。


 刃を振る度、駆ける度に、其の身に纏う黒衣がふわりと舞う。

 闇夜に溶けては唐突に現れ、鮮やかに命を散らす様は正に死神である。


「相変わらず……出来の悪い身体だな」


 重みを感じる四肢。騒ぎ立てる心臓。其れほど全力を出した訳でも無いのに、緑仙の身体は悲鳴を上げていた。乱れた息を整える。


 庭の私兵を片付けるのにそう時間はかからなかった。全てを斬り捨てた緑仙は鋭く刃を振り、屋敷の中へ歩みを進める。此処まで手練れと呼べる人間は居なかった。茜を手に掛けた奴は恐らく、行正の近くに控えて居るのだろう。


 滑る様に移動する緑仙。気配を消して屋敷内を進む。

 周囲は闇。故に目は捨て耳を澄ませて歩く。

 ――気配は、近かった。


 話し声が聞こえる。当たりを付けた緑仙は気を張ったまま進んだ。何時襲われても対処できるように、右に刀、左に合口を逆手に構える。呼吸は浅く。歩幅は狭く。


 ――眼に映る者は須く、殺せ。


 頭の芯に意志を固定し、感情は悉く棄却する。

 その時、脳裏に誰かの声が駆け抜けた。緑仙の舌はそれをなぞる。


 我ハ殺ス為二在リ。

 我ガ刃ハ折レズ。

 我ガ刃ハ曇ラズ。

 故ニ我ガ刃ハ必殺。


 其れは茜の一族が用いた暗示。自らを“殺人機”へと変える転身の言霊だ。

 だが本質は反復による刷り込みである。緑仙には茜仕込みの術はあっても“殺人機”としての経験は全く無い。つまり此れは気休めであり、誓いの言葉であった。


「……ぅ……すか」


「あ……ァ、た……ん」


 段々はっきりと聞こえてきた声に、緑仙は知らず眉間に力を込めた。

 一つは、行正である。

 以前、噂を聞きつけ顔を見に行った際に確認した肉声の其れに間違いない。では。


「ぃ……ぁ……、……め」


 もう一つ聞こえる。


「ば……だ。も……う……い」


 此の高く、くぐもった。


「ぁ…………あ、……ん」


 耐える意を伝える此の声は―――誰だ?


「……」


 耐えきれず喉を鳴らす。口の中はカラカラで、整えた筈の息は乱れ、胸は動悸し、体は冷え、肌には気味の悪い汗が伝うのに……今は其れを意識出来ない。足が……体が重い。巨大な蜘蛛の巣を突き進んでいる様な……不快で奇妙な感覚。


 滑る柄をぐっと握る。頭を小さく振る。視界を再び定め、忘れろと戒める。迷いは捨てろ。目的を忘れるな。考える必要は無い。ただ望むべき結果を成す。其れだけで良い。自戒は揺らいだ心をゆっくりと鎮めていった。凍らせていった。


 何を見ても動じるな。何をされても動じるな。

 必ず行正を、殺せ。


「……―――」


 部屋は目前。音は聞こえているが解さない。状況を捉えても解さない。理解は要らないのだ。結果こそが重要なのだから、理解と予測は其の後で問題無い。


「往くぞ」


 大きく息を吸い止める。

 緑仙は力強く紅葉柄の襖を破った。

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