第七話 紅天/堕天の記憶・其の二
菫が子を生んだのは、其れから三日後の事であった。
「可愛いんだ。凄ェ可愛いんだよ。解るか緑仙。解んねェだろ。仕方ねェなよし、今、すぐ、見に来いッ!」
「行かん。全く阿呆の様に浮かれおって。そんなに可愛いのなら真っ直ぐに帰れば良かろうが」
「馬、鹿、野、郎がッ! 其れじゃ自慢出来ねェだろうッ」
呵ッ呵ッ呵ッ、と顔をくしゃくしゃにして笑う紅緒から、この上無く鬱陶しそうに眼を反らす緑仙。脇に座す茜も流石に苦笑していた。
「真面目な話、私は此処の役人には煙たがられているのでな。出向く訳にはいかん。だから、連れてこい。お前をトチ狂わせた魔性の女子、俺も見たくなったぞ」
不敵に笑う緑仙。呆気に取られる紅緒。
合わせて、茜も口を開いた。
「そうですね。お二人の子供ですからそれは可愛いでしょう。菫さんとその辺り、お話したいところですよ」
二人の言葉に、紅緒の頭は一層咲き誇った。
笑うんだか照れるんだか訳が分からず。
また口から訳の解らない音を漏らし続けるので大層気持ち悪い。
どうやら、言葉を忘れたらしい。
「そう言えば……間もなく完成するようだな、紅緒」
唐突に振られた話題に「むう」と首を捻り。
ややあって「おお」と手を打った。
「屋敷の事か。そうなんだ。働いてくれる奴等も一流でよ、歪みの無い立派な面になった。あァ、どのくらい立派かってェとな茜さん」
勿体振る様に話を間延びさせた紅緒は、やがてコイツくれェよ、と緑仙を指差した。
緑仙が珍妙な顔になったのは言うまでもない。
しかし茜には意外と受けが良かったらしく。
「ふっふ、そりゃあ町中の人が夢中になってしまいますね」
口元を隠し紅緒の肩をぺしんと叩く有り様だ。
二人して笑うので、全く居心地の悪くなった緑仙は腕を組み、そっぽを向く。
「なんだァ緑仙。俺は褒めたんだがな?」
「そうですよ緑仙さま。喜ぶ所です」
「戯け共が」
けっ、と言わんばかりに表情を曇らせる緑仙。
相変わらず褒められるのが苦手な男だ、とほくそ笑んで見ていた紅緒は。
しかし其の僅か一瞬に見せた、別の色に気づいた。
「茜、喉が乾いた」
「はい。お茶で良いですね」
「酒が良いな」
「お茶で、良いですね?」
「……うむ」
はいはい、と畳んでいた膝を芍薬宜しく伸ばし、茜は中へ消えていく。
紅緒は先に茜が見せた愛嬌に目を細めつつ、やがて庭へと視線を移し。
「で、茜を払った理由は」
胸中の疑問を緑仙に質す。
「流石よ。能天気に見せて頭が回る。故に余計な世話だと思うのだがな」
緑仙は静かに、しかしはっきりと言葉を紡いでいく。
間違い無く、紅緒へ伝わる様に。
「奴の計らいで立てられた席は近いな、紅緒」
「……ああ、もう数日という所だな」
「出るな」
何の回り道も虚飾も無い。
だから伝わった。緑仙は本気で紅緒を心配している。
以前に話した時の伺いはまるで無い、何かを確信した顔だ。
緑仙は裏を取った。
巷で真しやかに噂されていた侍、行正の真意について。
様々な思いが紅緒の頭を過った。
時には無茶な注文をつけられもした。
腹を立て材木に当たった事もある。
だがそれは、人が持ち家に抱く当然の願望だとも理解している。
だからこそ彼は、彼の持ち得る全てを使い、磨き、今の精悍な屋敷を築くに至った。
故に自分を成長させたのは行正だと言える。
そもそもが滅多に無い貴重な依頼。貴重な経験だった。
仕事を受ける前と今では、実力に雲泥の差が有る事を理解している。
「……話せ、緑仙」
だから其の決断は行正の恩を踏み躙る様で。
彼には酷く、酷く辛かった。
一方で其の様子を見ていた緑仙は、紅緒の様子を冷静に判じていた。
悩んでいたが、話を聞く姿勢は取った。
此方の事を信用している。其れは間違いなかろう。
しかしどうにもお人好しに過ぎる。
人の欲深さ、浅ましさを知らぬ紅緒だ。
話し方を間違えては受け入れず、盲目なまま破滅に足を入れかねない。
緑仙は一切の情を捨て、辛辣に、彼の得た情報を紅緒へ伝えていった。
「……馬鹿な。そんな、馬鹿な事が」
「確かだ紅緒。彼方に居た頃は随分とタガが外れていたらしいな。遺族を探すのは実に容易かった。溜まっておったのだろうよ。話もな、掘らずとも十分に聞けた。其れだけの外道よ」
「信じ、られねェよ……そんなのは信じられねェ」
其れが人の諸行か。其れが俺と同じ形を持つ人か。
そんなのはまるで。まるで――。
「行正は強く参加を迫るぞ。始めは妻を共にと。其れを断りお前だけ参加すると話せば……恐らく了承するだろう」
「……何故だ。狙いは菫じゃねェのか」
「お前だけを呼ぶ意味など、知れていようが」
紅緒が横目に見た緑仙は、酷く冷たい眼をしていた。
察し、紅緒は顔を引き攣らせて項垂れる。
「……そう、か」
「だから、そうなったらこう話せ―――」
緑仙は思い描いた顛末を話す。
彼が此の先も妻と共に暮らす為の計画を。
一方で黙す。
彼が今日までの時間を愛しく感じていた事を。
其れを齎した紅緒への感謝を。己が身に宿る運命を。
其の末に描くべき顛末が、緑仙という人間の幕引きである事を。
「―――良いな、紅緒」
暮れ行く縁側。鳴く鈴虫。
顔も陰り出す誰そ彼刻。
其の只中で些かの感情も。
些かの動揺も見せず。
緑仙は訥々と、其れを話したのだ。
■■■
やがて茜が戻り、彼女と話したが気分は晴れなかった。
出来る限りの平然を取り繕ったが、まるで巧くいった気がしない。
どうにも駄目だった。
紅緒がこんなにも己を律せないのは、此の町に来て初めてだった。
そんな訳はない。そう強く願っている。
けれど緑仙の言葉を無視する事も紅緒には出来ないのだ。
紅緒は彼の聡明さを知っている。
緑仙は裏打ちの無い情報を何より嫌う。
故に其の口から紡ぐのは、何時であっても事実のみだった。
確認という行為を忘れる程の其れは、信頼というよりも盲信に近い。
薄暗い帰り道での考え事は、何時からか闇夜への恐怖に摺り変わっていく。
くらい。こわい。
見えない不安が恐怖を呼ぶ。
何時もの帰り道が、どうにも不気味に見える。
あの曲がり角の先に。
あの繁る樹の上に。
あの民家の闇に。
高い塀の上に。
小川の中に。
坂の上に。
背後に。
何か
居るんじゃないのか?
「どうしたのですか、そんなに慌てて」
身を縮めながら歩き、走り、やがて家の戸を開き。
其処に妻の変わらない姿を見つけた時。
紅緒は安堵しきって、膝から崩れ落ちた。
駄目だ。駄目だ。今日はもう寝ちまおう。
そう言い聞かせて。
紅緒はその日を『何事も無く』乗り切った。
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