第九話 紅天/堕天の記憶・其の四

 眼を醒ますと直ぐに外へ飛び出した。嘘みたいに穏やかな鈴虫が紅緒の拍動を追い立てる。

 日が没していた。


「緑仙は……緑仙ッ!!」


 動かずには居られない。先まで間抜けに寝転がっていた座敷へ駆け戻り。縋る様に、屋敷内で人影を探すが――勿論、誰も居ない。


「あの……ッ、馬鹿野郎ォ!」


 腹の底から叫び、急ぎ緑仙の屋敷を出た紅緒。其のまま自分の住む長屋へ走った。出来ることならば行正には挑まず、菫を逃がす方向に動いていて欲しかった。


 だが、長屋に居たのは。


「誰だ……此れは」


 派手に背中を斬られ倒れる、見知らぬ男だけだった。


「菫が居ねえ……まさか、行正か……?」


 考えずに直ぐ走った。行正の屋敷は遠くない。薄闇を必死に、必死に走る。拍動が耳に痛い。息が詰まる。長く走った事ばかりが原因ではない。思考を止めようが、無意識は答えを見つけていた。彼の望まざる最悪で、しかし現実的な答えを。


■■■


「なん……ッ……」


 辿り着いた紅緒を迎えたのは、またも倒れ伏した男達だった。見えるだけで五、六人は居る。此れを細身の緑仙がやったのかと思えば、まさかとしか言えないが……今は、考えている暇が無い。動かない彼等を踏まない様に、紅緒は屋敷の中へ駆けていく。


 屋敷の部屋は開けた物が多い。行正が菫を連れ込むのならば、使う部屋は絞られる。中でも有力な二ヶ所に当たりを付けた紅緒は、最短距離を土足で駆けた。闇の中であろうが、造ったのは他ならぬ紅緒である。距離も構造も頭に染み付いている。


 やがて候補の一つに近付いた時、確信を持った。

 灯りがある。物音がする。

 そして部屋の襖が破れていた。


「――――――ん」


 不意にくぐもった声が聞こえた瞬間、紅緒の足は凍った。

 酷く眼が乾いた。

 息が止まっていた事に遅れて気づいた。

 周りの音が消えて。

 鼓膜に自分の拍動が喧しく響く。


「…………、何を、してる」


 声は三種。


 男の声――笑っている。

 男の声――呻いている。

 女の声―――■■■いる。


「何ヲシテヤガルルルァアア、行正ァア゙ァア゙ァア゙ァア゙ァア゙ァア゙ァア゙!」


 形振り構わず飛び込んだ。

 その先に―――五つの杭で壁に打ち付けられ。腕を削がれ、足を削がれ。ハラワタを刀に掻き乱され、其れでも尚、鬼の形相で歯を剥く――緑仙と。――下卑た表情でケタケタ笑い、蛆虫の様に舌を動かし、裸体を欲望のままに動かす……行正と――そして。嗚呼そして。



「―――――――――――――――――――――――――――――」



 その時。紅緒は憎悪に果てが無い事を知った。


 何時までも何時までも落ちている。何処までも何処までも落ちて行く。暗く暗く暗く、魂までも灰にせんとする業火が、此の胸から吹き出して止まらない。殴りつけても厭き足りぬ。四肢を殺いでも厭き足りぬ。無惨に殺しても、厭き足りぬ!!!


 心中に氾濫する混沌のままに、紅緒は大きく口を開け。

 感情を叩き付けようと息を呑み込み、


「―――    



    ―――あ゙?」


 そして物影から音もなく首を落とされた。


 ごてんと何かが畳に落ちた。視界が沈んだ。ぐらりと揺らいだ。甲高く煩い音が耳を刺した。ああ、喉を絞っているのに声が出ない。声が。アイツに声を。声を―――!


 不意にぱたりと、組み敷かれぐったりと横たわる  の顔が此方に倒れた。そして其の朧だった眼がはっきりと紅緒を見た。


「……………………ぁ。あぁあぁ、あぁあぁあぁああぁあぁあぁああぁあぁあぁあ……」


 其れは声ではなかった。低く間延びした呻きだ。紅緒の変わり果てた姿は、あらゆるものを削がれた彼女から決定的に、彼女自信を奪った。


「む……、む……、む……ぅ? どうした事だ。女が動かんぞ」


「行正殿、此れは残念でありましたな。女は夫の死に様を見て壊れた様だ」


「なァにィ? ……、オイ、オイ起きろ。此の糞女がッ、まだ始めたばかりではないかッ! 起きんかッ! 殺すぞッ!!」


 紅緒は見ていた。女が上に股がる男に頬を打たれ殴られ。其れでもぴくりとも動かず、為すがままである所を。霞行く眼前の光景を、紅緒はひたすらに憎み、恨んだ。


 何と非情で 不浄で 不条理な世界だ。

 俺が何をしたと言うのだ。

 緑仙が何をしたと言うのだ。

 菫が何をしたと言うのだ。


 厄を受けるのは俺達では無いだろう。

 あの悪辣で醜悪な下種ではないのか。

 其の横で笑う、あの侍ではないのか。


 間違っている。

 此の世界は間違っている人間は間違っている。

 何もかもが不条理だ。


 ――ああ。そうか。生きる事は……此の現世に命を賜る事は罰なのだ。此岸に生きる人間は皆、咎人で。世界は人に罰を与えんとしている。つまり、嗚呼つまり此の世界は。


 地獄だった。


「良いではないですか行正殿。そちらの襤褸屑でまた遊べば良い。そうら―――まだ動く。斯くもしぶといと人形遊びに気合いも入る。実に実に実に実に愉快だあ」


 この世が地獄ならば。


「男に興味など無いわ。全く、私がヒトデナシならお前は鬼畜だな……と、ふむ。此れは此れで良いかも知れん……ぉお?」


 奴等を食む【鬼】だって。

 居ても良いだろう。


「心外ですな。命を玩ぶのは人にのみ与えられた快楽ですぞ。平常で残虐を行えるのは、目的の無い殺戮を行えるのは、麗しき我ら人という動物のみなのです。故に私はこの上無い程、立派に人間なのですよ」


「ハッハ。戯言だな。お前の言う立派な人間という奴が世に溢れたなら、其れは地獄だ」


「現実はこんなものですよ。死に際が美しくなる事は、悲しいかな、余りにも稀だ。そら其処の男……も? うん? はて?」


「何を間抜けな声を出している……ん、お、ぉお。やはり悪くない。良いぞ。ぉお、良いぞ!」


「……いや、此処に首が在ったと思っ」


 何時の間にか動ける事に気づいた紅緒は、直ぐ様己の衝動のままに動いた。

 其の新しい身体は異様に軽く。放った拳はどういう訳か侍を壁に叩き付けた。


「がッあ゛…………ア゙」


 派手な音を出し、白眼を剥いてずり落ちる侍。

 行正は振り返った。


「何を、している」


 阿呆な顔で問う行正。紅緒は嘲る様に鼻を鳴らし低く笑った。

 余りに可笑しくて、もう堪えきれなかった。


「呵ッ呵ッ…………ッつあ、全くよォ……酷ェもんだ。酷ェ。酷ェなァ。なあ。そうは思わねェかよ、行正殿ォ……?」


 行正はゼンマイ仕掛けの首を、闇の中で笑う紅緒へ向ける。

 ――ひ、と。彼は闇から覗く気味の悪い手を見て悲鳴を上げた。紅緒は燭台に僅か照らされる己の手を、まじまじと眺めている。


 大きく歪だった。以前の日に焼けた肌色は見る影も無く、其の肌はどす黒い灰色になり、石を寄せ集めた様な指には、刃の様な爪を備えている。


「醜ェ姿だ。情け無ェ姿だ! 此れが友を守れず、妻を守れず、何も出来ず容易く殺されちまった男の末路だッ!」


「止めろ……何をする気だ」


 紅緒がゆっくりと、灯の中に姿を現す。行正は尻餅を付いた。歯の根は合っていない。先まで蜜を食む虫の如くしがみついていたソレを投げ出し、水に落ちた蟻の如く一心不乱に藻掻く。


「……」


 身の内で膨らみ続ける残虐に耐えながら、紅緒は愛しい女へ歩み寄る。眼に映る其れは糸の切れた人形を思わせた。バラバラに投げ出された四肢は痣だらけ。彼が見た事の無い空虚で、弛みきった表情は――余りにも惨い。


「お前だけは、お前だけには。生きていて欲しかったのに」


 歪な腕をそっと頬に重ね。

 小さく  と呟く。


「……に、お」


 小さな口から僅かに言葉が漏れた。

 だが零れかけた情を喉を閉めて押さえ込み。口内で噛み殺して。


「愛しているぞ。菫」


 振り上げた其の怪腕で。

 出来うる限りの全力で。

 紅緒は、菫の頭蓋を、叩き潰した。


「ッひぃいぃいぃ」


 白く艶やかな肢体がびくんと跳ねる。叫びを上げたのは行正だけ。紅緒は何も口にしなかった。例え其の顔がどんなに歪もうとも、泣き言を口にはしなかった。愛していた。心の底から惚れていた。芯の通ったしなやかさを持ち、慈愛に満ちた菫という人格を愛していた。尊敬していた。彼女は誰より紅緒を理解してくれた。紅緒も誰より菫を理解した。何をされても其の絆を絶つ事は出来なかっただろう。心を壊されても必ずや蘇らせただろう。


 死が二人を別つ迄は。


「――さて」


 生物は死ねば蘇らない。其れは紅緒も例外では無い。つまり此の場で妻を手に掛けたのは紅緒ではなく、紅緒の形をした別物。


 即ち鬼である。


「鬼畜が果たす義理に、意味なんか無ェだろうが、まァ……腹に入りゃァ、何でも良いか……!!」


「く、来るな。来るなぁ……」


 静かな夜に、高く、細く。泡の様な悲鳴が響く。

 やがて雑な食事を終えると、傍らの鬼も遊びを止めた。


「食わねェのかよ、趣味が悪ィ」


「……確かにそうだな。何故こんな事をしたのか、自分でも解らん」


 腸を投げ捨て、一角の鬼は感情を交えず呟いた。目の前には腹を裂かれ、腕をもがれ、散々悲鳴を上げ痛みに逝った侍が一人。


「如何せん、腹が満ちんなァ……もう少し喰い漁ろうか」


「何を言っている。足元にまだ在るだろう。上手そうな女が……ッあ」


 何気なく話した一角の鬼の首を、二角の鬼が強く掴む。


「何を、言ってるんだ。お前は」


「―――ッカ、あ」


 気管を潰す勢いで締め上げられた鬼に、声など出せる訳もない。死を覗いた一角の鬼は、喰わないという意思を首を横に振る事で伝えた。


「ッかは……。全く、お互いに厄介な種床へ芽吹いたものよ」


「……、女には手を出すなよ。お前を殺しかねん」


「為らば町を襲うか。数もあろう。腹は膨れる」


「異論は無ェぜ」


 二匹の鬼は町へ出る。女の死体と艶美な屋敷には手を触れず、町人を漏らさず喰らい家屋を破壊し、やりたい事をやりたいだけ、欲望のままに行なった。


 こうして大鬼紅天と、大鬼緑天は、大災厄として世に放たれたのだ。

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