第十話 千湖/泡沫の夢
“鬼”とは、昏き不安と恐怖へ孕み
絶望と憎悪を糧として 死に芽吹く生物である
其の性質は須く凶悪にして人を憎み
そして何故か 苗床の想いを心中に潜ませる
彼等は苗床の気性を基盤に人格を獲得する
其れ故か 個々に独特の拘りを持って行動した
最終的に其れは殺戮や暴食や
残虐非道な行為に帰属するにしても
手段は全くバラバラであった
やがて記憶は消えていき
何故そうしたいのかが解らなくなっても
彼等は永遠に 非道を続ける
まるで何かから 逃げ続ける様に
■■■
やがて紅天が目を覚ますと、辺りは僅かに明るかった。
しん、と静まる森に、澄んだ霧が掛かっている。
遅れて腹の冷えを感じて、うつ伏せの状態から起き上がった。
身体は僅かに透けていた。
何時も通りだ。
紅天の胸中は奇妙に揺らいだ。
見ていた夢が現実の様に鮮明だった為だろうか。
不安と後悔と哀愁をない交ぜにした様な、落ち着かない、けれど新鮮な感覚。
否、其れよりも。
途切れる前の記憶を頼りに探すが、何処にも洛連の姿は無かった。
「……居ねえ……生きていたのか……?」
為らば一体、と考えた所で。
紅天の耳に、何処からか土を掘る音が届いた。
間隔は歪で、手慣れていない事が窺える。
遠く響く様な物でもない。
紅天は立ち上がり、音を辿り歩き出した。
途中で何度か転びそうになった。
まるで他人の身体を使っている様な感覚だ。
木立を二つ程通り過ぎれば、音の原因は直ぐに見つかった。
千湖である。
家の横、畑の前で千湖はせっせと土を掘っていた。
遂に望む深さになったのだろうか。
手を止めた千湖は大きな何かを穴へ引っ張り、丁寧に入れる。
其れをしばらく眺め、予め用意していたらしい小さな野花をそっと、其処に置く。
紅天が近付いて覗いてみれば。
穴の中の洛連は穏やかに、目を閉じていた。
「今朝、起きたら……外に居たんです」
紅天は驚いた。
見えないと思っていた己の姿は、彼女にハッキリと見えるらしい。
千湖は其れ以上を語らず、黙々と鍬で土をかけていく。
紅天は彼女を見ていた。
小さな手は泥にまみれて汚れている。
鍬を強く握る指は、擦れて赤くなっている。
そして、ずっと震えていた。
紅天の知る人間と比べるに、千湖は感情の起伏を上手く表に出せない様だ。
掘るに比べて幾分か楽になる筈の埋める作業も、見れば随分とたどたどしい。
手間取る原因はきっと、肉体的な疲労以外にあった。
紅天は千湖の横にしゃがみ彼女の顔を横目に見た。
口は固く真一文字に結ばれている。
目は堪える様に軽く閉じている。
時折すん、と鼻が鳴った。
見かねて視線を穴へ逃した。
洛連の下半身は、それでも随分と隠れている。
完全に埋まるまで、そう時間はかからないだろう。
ふと、己の取っている鬼らしからぬ行為を意識した。
此奴がやったのはこういう事だったのかと、紅天は理解した。
身体がやけにむず痒い。知らない感覚だった。
昔の紅天であればこんな物が湧いたりしなかっただろう。
此れはどういう物で、どうして抱くのかも解らなかっただろう。
だが今は――。
「馬鹿が。何を堪えてやがるんだ」
何をどう言ったら良いのか解らなかった。
何時も通りの荒々しい口調でしか話せない己を、侮蔑したくなった。
だが其れ以上に、其の言葉を話せた自分に、どうしてか誇らしさを感じている。
紅天の言葉に、千湖は手を止めた。
鍬が土を噛み、動きを止める。
彼女の表情は少しずつ、内に潜む感情を滲ませていた。
「別れは済ませたのか。話したい事は話したのか。未だならば今やっておけ。未練は毒だ。吐き出せる時に、吐き出せるだけ出して……たまに遠くから眺めりゃ良いんだ」
言いながら困惑もする。
人を恐怖に陥れ、壊し、殺した大鬼・紅天。
其れが何という戯言を抜かすのか。
だが……と、眼を落とす。
解らなくなっていた。
何も変わらぬ本来の自分ならば、紅天は此の場で何をしただろうか。
千湖を殺しただろうか。
千湖を喰っただろうか。
――否。其れだけは有り得ないと確信を抱く。
“紅緒”という愚かな男に着床してしまった此の魂が、彼の最も愛していた『娘』を殺す事など、どうして出来ようか。断じて、否である。
此の魂が砕けようとも、出来る訳が無いのだ。
紅天が、紅天で在る限り。
出来よう筈が無い。
「私は、泣いても良いのですか……」
泣かない童が何処に居る。
「泣き言を吐いても、叱られませんか……」
子を慰めない親が、何処に居るというのだ。
「誰も咎め無ェよ。だから、好きにしろ」
心中に真意を抱きつつも、今は未だこんな事しか言えない己である。
しかし何時か、何時かは、きっと。
―――泣き叫ぶ声が、森を渡る。
見苦しい程に顔を崩し、涙を流し、鼻水まで垂れ流して。
千湖は洛連にすがり付いた。
色々な言葉を吐いた。
言えなかった不満も言った。
だけど、最後にはありがとうしか言わなかった。
何度も何度もありがとうを繰り返した。
喉が枯れて涙が流れなくなっても、ありがとうを言い続けた。
永遠に伝わらない感謝は、何度も森に木霊した。
否、其れは岸を渡った彼にも、届いているのだろう。
紅天の胸に、嚥下し難い思いが募る。
悔しいのは当然だ。嫉妬するのも当然だ。
千湖があれ程迄に心を許し、慕う相手は、本来。
「糞坊主が……手前なんか、大嫌いだぜ」
紅天は不安にすら思う。
果たして己が洛連と同じ境遇と出会った時、彼と同じ行動を取れるであろうか。
洛連も千湖を愛していた。己が命よりも深くだ。
だが自分はどうだ?
彼の様に千湖の為に命を捧げ、千湖の幸せを願う事が出来るのか。
そう考えると負けている気がしてならなかった。
己よりも、洛連が傍に居た方が……千湖は、幸せだったのではないか。
らしからぬ弱気に圧され、逃げる様に千湖を見た。
千湖は泣いている。悲しいと叫んでいる。
独りは寂しいと、其の口が助けを求めている。
だから。
「……心配なんかするんじゃねェ。此れからは俺が、傍に居る」
思わず、手が伸びたのだ。
「え……」
頭を撫でる優しい感触。何処か懐かしい音の響き。
千湖は記憶に無い筈の、温かな気持ちを抱き、目を見開いた。
「もう……独りにはさせねェよ」
其れは本心であり、決意であった。
託されたのは紅天である。
今、千湖の隣に居るのは己なのである。
ならば弱音に意味は無い。
必要なのは今、此の胸に沸き上がる決意だけ。
其れを信じ貫く信念だけ。
紅天に最早、迷いなど有りはしなかった。
「……あ」
一方で。千湖の中には、何時か抱いていた一つの希望が蘇っていた。
何処に居るとも知れない私の両親は。
――けれどきっと何時か。私を迎えに来てくれるのだと。
■■■
それから数日は、お互いにぎこちなく過ごした。
「去年はあっちを使ったので、今年は此の辺りを耕したいんです……けど」
「ァん、何を遠慮してやがる。任せろ。お前よりは確実に早ェからよ」
言って千湖の持っている鍬をひったくり――力の強さに驚いて身体が跳ねた彼女から眼を反らし――紅天は全力で、鍬を降り下ろす。
「ふぅ……んぬぉおぉおぉおぉぁあぁあぁあぁッ!」
炸裂する地面。舞い上がる土砂。其れに咳き込む千湖と――そして衝撃で真っ二つに折れた鍬を気まずそうに握る紅天。
「………………チ、安物がァ」
「……ごめんなさい」
「あ、あぁ、いや……」
謝る千湖に紅天は焦る。
気恥ずかしさを誤魔化す言葉が、千湖を責めてしまった。
そんな気は無かった。
勝手に矜持が働いて舌が動いてしまった。
「こほん、こほん」
「なんだ、また風邪か」
「い、いえ。少し埃が入った様です……」
二人して所在無げに黙る。
赤っ恥に目を反らしていた紅天が、ふと千湖を見れば。
千湖は足元に用意していたざる、其の中の種子を黙って見ていた。
其れを見れば、馬鹿でも悟る。
「……が……あ」
此の鍬は、千湖の持っている唯一の農具だったのだ。
其れを失った。では此の先、彼女はどうやって畑を耕すというのか。
知らず、手中の棒っ切れが地面に落ちた。
何を言ったら良い。どうしたら良いのだろう。
どうしたら千湖を笑顔に出来るのだろう。
紅天の頭は策を捻り出す為にぐるぐると回り。
同時に、自分の愚かしさに息が止まった。
地面に転がった柄を見る。
鍬を直すか。
否、紅天にそんな細工は出来ない。
此の沈黙が、あまりにも痛かった。
何を思われているのかと疑心が膨らみ、悪い想像を止められない。
何を言っても逆効果に成りそうで、何も言えない。
せめて何か言って貰えれば。
例え其れが罵倒でも、今よりは確実に気が楽だろうに。
「きょ……今日は、もう暗くなりますし……その、中に……入りませんか」
やがて紅天に届いたのはか細い声。
紅天の顔色を窺いながら、千湖は笑みを作っている。
此処で好意に甘えれば、此の場は何事も無く収まるのだ。
鍬の事は後日考えようとなり、今日の所はお互いに気を使って終わる。
後は時間がささくれを治してくれるだろう。
簡単だ。そして無難である。
「……」
紅天はふと、千湖の優しさを受け入れた姿を思い浮かべる。
――先導する千湖は穏やかに笑いながら、後ろを歩く紅天へ夕飯の話をする。
会話は途絶えない。千湖が途絶えさせまいと気を使うからだ。
気に病む事は無いのだと、私は気にしてはいないと伝える為に。
知らず紅天の歯は鳴った。
「悪ィな……少し風に当たりてェからよ……先に戻っててくれねえか」
顔を伏せ、千湖を見ずに紅天は話した。
言葉に満たない声を出して、何度か視線を泳がせて。
其れでも意を決して、服の裾を掴みながらも口を開くと、
「頼む」
遮る様に、紅天は重ねて言葉を放つ。
流石に其れ以上に粘る事は出来ず。
千湖は「わかりました」と小さく応え、踵を返した。
足音が遠くなった所で、漸く紅天は僅かに目を流す。
千湖の小さな背中を見ると酷く胸が痛むし、不安になった。
そうさせた自分を嫌悪した。
しかし、貫かねばならぬ意地があったのだ。
「娘に甘えるなんざァ……笑い話にもならねェ」
無論、本当の親ではない。
同じ人格を持つだけのまるで違う生き物である。
だが……洛連の呼び戻した記憶は、紅緒の人格をより鮮明に浮かび上げた。
己の出生も、思い出してしまった。
堪らないのだ。
堪らないのだ。
千湖を見ていると鼻が痺れる。
千湖を見ているだけで、胸が騒ぐ。
どうして俺は死んでしまったのだ。
何故あの子を一人にしてしまったのだ。
彼女には菫と共に笑い合う未来こそを、用意せねばならなかったのに。
悔やんでも悔やみきれぬ、死んでも死にきれぬ。
だから―――だから堪らないのだ。
あの子の目の前に、こうして居られる事が。
此の身は人の澱より産まれた汚泥の塊、魂は模倣の贋物である。
だが心だけは、偽りではないと思えてならない。
千湖を愛している。心から。
何よりも、誰よりも大切なのだ。
此の身に代えても、幸せにしなければならないのだ。
「じゃなきゃよ……安心、出来ェよなァ」
小さく呟いた言葉に返す者は誰も居ない。
だが紅天の視線の先には大きな星が二つ、煌々と輝いていた。
■■■
翌朝、千湖は畑を見て目を丸くさせた。
「どうして……?」
畑は見事に耕され、種もしっかりと植えられていたのだ。
透けた体で腕を組む紅天を振り返り、千湖は無言で見つめる。
紅天は何も言わない。
素直に俺がやっておいた、では格好が付くまい。
だが白を切るのも紅天らしからぬ。
「畑はもう大丈夫だろ。他の事をしろ」
悩んだ末に出たのは、何とも曖昧で不細工な言葉だ。
けれど千湖には輝いて見えた。
鍬は壊れたまま畑の横に転がっている。
じゃあ一体どうやって耕したのか。
千湖は紅天の指を見る。
朧で透けてはいたが、其の爪は黒い。
「……と」
胸中を言葉にするのが苦手な彼女だ。
故にそっと、今は触れられぬ紅天の指に手を添える。
紅天は余所見に夢中で気づいて居ない。
「けほん、けほん」
空咳を隠しながら、千湖は朧な紅天を見つめる。
彼女は紅天との間に、確固たる絆を感じていた。
幸せだった。
今まで蔑まれ、虐げられてきた彼女である。
じい様が亡くなった今、紅天以上に親身な存在は無い。
何時でも傍に居てくれる。
何時でも私を、気遣ってくれる。
此れが、きっと……家族という物、なのだろう。
彼女は静かに微笑む。
朧な幸福の手触りを、ゆっくりと確かめながら。
――そして一月後。
千湖は、肺炎で息を引き取った。
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