第24話 ラビリンス 其の一
ラビリンスに通じる洞窟の両側に、大きな松明が焚かれていた。松明の炎は、揺れ、伸び縮みして、洞窟を閉じている鋼鉄の二枚扉に浮き彫りになっている牛頭人身の怪物の姿をことさらに大きく不気味に見せている。
暗い森の奥で梟が鳴いた。
今夜、月はない。灰色の雲が所々夜空を覆いながら、ゆっくりと動いている。上空には風があるのだろう。時々、雲が切れて砂を撒いたような星空が現れるが、すぐにまた隠れてしまう。
洞窟を半円形に囲むように並んだ兵士たちは、彫像のように無言で微動もしない。彼らの前には、これから生贄となる若者と乙女たちが後ろ手に縛られ、数珠繋ぎになって立ち尽くしている。彼らの顔は見えない。そろいの長衣だけが、夜の中でほの白く浮かび上がって見える。
九年前には、もっと大勢の人々が儀式を見守っていた。クレタの貴族たち、ポントウス将軍、アテネから来たオノリウス。だが、今年は、護衛の兵士たちの他には、ミノス王と、近くの潅木の陰に屈みこんで聞き耳をたてている俺しかいない。クレタの貴族たちは、王の代理として、アテネ人たちが帰国の船に乗り込むのを見送りに港に行っている。アテネの若者たちは、クレタに到着してからずっと、谷に閉じ込められていたから、クレタ貴族の中で、彼らをよく知る者はいない。船に乗るのが王の用意した替え玉だと気付かれる心配はない。
危険があるとしたら、ポントウス将軍だった。もし、将軍が港にいたら、トーナメントの好敵手であったテセウスと、一言、別れの挨拶を交わそうとしただろう。そうなれば、すべてはあらわれる。曲がったことの大嫌いな将軍は、王の破約に激怒して、ラビリンスにやってきたに違いない。だが、将軍は試合の時の傷がまだ癒えず、ベッドから起き上がれずにいる。将軍が起きてきた時には、すべては終わっている。
オノリウスは、トーナメントが終了した午後、谷で俺が見たのが最後で、それ以来姿を消している。おそらく、王が何かの手をまわしたのだろう。何もかも、ミノス王が計画した通りになろうとしている。王はさぞかし満足だろう。
王は静々とラビリンスの扉の前に歩み出ると、迷宮の神へ短い祈祷を捧げた。それが終わると、二人の屈強の兵士が進み出て、ラビリンスの扉を大きく両側に開いた。
九年ぶりに、ラビリンスは生贄を飲み込むためにその顎を開いた。
半円状に並んでいた兵が、槍を構え、無言のまま、貢物となる若者と乙女たちをラビリンスに向かって追い立てていく。アテネの七人の若者と七人の乙女たちは、縛られたまま、転びそうになりながら、少しずつ、暗黒の入口に近づいていく。
ふと、俺はおかしなことに気がついた。
追い立てられているのは、十四人ではなかった。十六人いる。最後尾の一人は目立って小さい。そしてその小さな貢物を兵士の槍から必死でかばっているのは、すらりとしたアテネの乙女ではない。牝牛を思わせる鈍重な体型の、中年の女ではないか。
小さな貢物が転んだ。
兵士が、槍を突きつけようとする。
俺は、潅木の陰から飛び出した。
「イカロス!」
息子の身体を抱えて、兵士の槍をかわそうと、横に倒れた。兵は驚いて、刹那、槍を引いたが、すぐにまた構え直して、俺を突こうとした。
俺は覚悟を決めて目を閉じたが、その時、よせ、という落ち着いた王の声が聞こえた。
俺は目を開いた。
「どうした、耳?」
ミノス王が俺の前に立っていた。
「王。なぜ、息子がここにいるのです? 息子はアテネ人ではありません。何かの間違いがあったに違いない」
「おお、その病気の奴隷はお前の息子か? すると、その女奴隷はお前の女房か。ずるい奴だ。他人の色事は報告するくせに、自分のみそかごとは黙っておったな」
王は愉快でたまらないように笑った。俺には、何がおかしいのかさっぱりわからなかった。
「王、息子は病気です。夜風にさらしたくはございません。家に連れ帰ることをお許しください」
「それはならんぞ」
王の声が一変して冷たくなった。
「その奴隷は直らぬ病気だ。奴隷商人を呼んだが、寝込んでばかりいる奴隷は要らぬと言って売れぬ、どうしたらよかろうか、と家令が言ってきたので、海へ放り込む代わりに、ここへ連れてきた。ミノタウロスの贄となって、クレタの繁栄に貢献する方が、魚の餌になるよりましだろう。その女奴隷は息子にしがみついて離れぬので、一緒に連れてきた。さあ、わかったら、そいつから離れろ」
離れるものか。
俺はイカロスを助け起こしてやった。しがみついてくる女房を抱きしめてやった。こんなにしっかりと抱き合ったのは、何年ぶりだろうと思いながら、さあ、行こう、と耳元でささやいた。
俺たち三人は、よろよろとラビリンスの入口に向かって歩き出した。
「耳。お前は役に立つ奴隷だ。一緒に行くことはないぞ」
王の声が聞こえたが、俺には蝿の羽音ほども気にならなかった。
ラビリンスの入口で、テセウスが待っていた。彼の右腕にはまだ、白い包帯が厚く巻かれている。それで剣が振るえるのか、怪物と戦って勝てるのか、俺にはわからない。だが、ラビリンスの外にいる怪物よりも、中にいる怪物の方がずっとましな気がする。
テセウスの目は星のように光っていた。
「耳役殿。あんたは確かに人間だ。心配するな。わたしは人間を守る」
俺は微笑んでアテネ人の勇者を見た。荒野よりも町を選んだ男。この若者に俺は全てを賭けることになった。
俺とテセウスがラビリンスの敷居を越えて中に入ると、兵士がゆっくりと鉄の扉を押して閉めていった。最後の瞬間に、一人の兵が、俺に松明の火を渡してくれた。俺はその兵の顔を知っていた。ロードス人は、俺に向かって軽くうなずいた。それが、俺の見た最後の光景だった。
重苦しい音をたてて、扉が閉まった。
「耳役殿」
扉が閉まると、テセウスが言った。
「わたしの包帯の下にナイフが隠してあるから、それでわたしの縛めを切ってくれないか」
自由になると、テセウスは手首を揉みながら、耳役殿がいて助かった、と言った。
「全員縛られていては、ロープを切るのは大変だろうと思っていた。これで随分、時間の節約になった」
アテネ人がお互い同士、ロープを解いている間に、テセウスは松明の光で、洞窟の壁を調べていた。
これは天然の洞窟をそのまま利用した迷宮らしい、とテセウスは言った。九年間、閉めっきりになっていたのに、空気が淀んでいない。どこかから、風が入るに違いない、つまり、とテセウスは確信を込めて言った。
「この扉以外に、出口があるということだ」
俺たちは、松明を持つテセウスの先導に従って、洞窟の奥に進んでいった。
天井は高く、一番背の高いアテネ人でもまっすぐ立って歩けた。足元は乾いた平らな岩盤で歩きやすかったが、通路の幅は、人一人が歩くのにやっとというほど狭かったので、俺たちは一列縦隊で歩いていくしかなかった。先頭はテセウス、最後尾は、病気のイカロスの肩を抱いて歩く女房と、俺だった。
しばらく行くうちに、テセウスが立ち止まった。見ると、通路が二手に分かれている。テセウスが手招きするので、俺はアテネ人の間をすり抜けて傍に寄っていった。
「ここを見てみろ」
テセウスが指差すところを見ると、右の通路の上に赤いペンキで何か書いてある。
「これは、Dと読めないか?」
「おお、確かに」
「Dはダイダロスの頭文字かもしれない。この道を行ってみよう」
俺はテセウスと一緒に先頭に立った。アテネ人の若者の一人―テセウスの戦闘訓練の相手をしていた、名前は確か、エイモスといったーが、最後尾について、イカロスと女房に気をつけてくれることになった。
道は少しずつ、下りになっていくようだ。地底の底へ、底へと導かれるように俺たちは進んで行く。
「テセウス、糸玉を持ってきただろうな?」
「糸玉? 何のことだ?」
ざあっと音を立てて、俺の全身から血の気が引いた。
「……」
気がつくと、テセウスがクックッと笑っている。
なんだ、騙されたのか。
俺は息を吐き出した。いったん止まった心臓がコトコトと動き出す。
「驚いたか? すまない」
テセウスはちらり、と懐から糸玉を出して見せた。
これくらい余裕があるのは頼もしいと言うべきか、とも思って俺はぶん殴るのを思い留まった。
「この道はどこまで続くのだろう?」
「さあな。だが、九年前の連中も、この道をたどってる」
「どうしてわかる?」
テセウスは前方に落ちている女物の櫛を指さした。緑色の石のついた櫛は、おそらく乙女の誰かの髪からすべり落ちたものだろう。テセウスは櫛を拾うと、乙女の一人に渡した。
「持っていてくれ。アテネに戻ったら、持ち主の親族に形見として渡してやろう」
アテネに戻ったら、という言葉だけで、若者と乙女たちの顔が明るくなった。テセウスはアテネに戻るつもりでいる。この人についていけば、自分達はアテネに戻れるのだ。彼らの目がそう言っていた。
道はさらに下っていく。
これは地上に戻る時が大変だな、と俺は思った。ずっと登りになる。イカロスは大丈夫だろうか。
俺は振り返って、イカロスの方を見た。最後尾までは松明の明かりが届かないので、影しか見えない。小さな影は、ちゃんとついてきていた。俺が振り返ったのがわかるのか、手を振ってみせた。
俺はまた、無言のまま、歩き出した。ここでは距離も時間もわからない。無限に歩き続けているようにも思えた頃、テセウスが話しかけてきた。
「おかしいと思わないか?」
「何が?」
「普通、地底深く下れば下るほど、暖かくなるものだ。アテネでは、地面の下には鍛冶師の神の工房があるから、その火のせいで暖かくなるのだ、という。だが、ここは、さっきよりも大分涼しくないか?」
「そう言えば」
なんとなく肌寒い。むき出しの腕を冷気が撫でていくような気がする。
しっ、と俺はテセウスの腕を掴んだ。
「何か聞こえないか?」
俺たちは耳を澄ました。
遠くから、ざわざわという音がかすかに聞こえてくる。聞き覚えのある音だ。
「さすがに耳ざといな」
と、テセウスが言った。「川があるようだ」
歩いていくうちに、水音はどんどん大きくなり、やがて俺たちは大広間のように広い空間に出た。地下を流れる暗い川はかなりの急流で、渦巻き、泡立ちながら大小の石の間を流れていく。水音は高い岩の天井に反響して、耳を聾するようだった。俺は水に手を浸してみた。切るように冷たかった。
「ここで少し休もう」
テセウスの言葉で、俺たちはめいめい、適当な所に腰を下ろした。
俺は女房とイカロスをテーブルのように平たい岩にすわらせた。疲れたか? と聞くと、イカロスは、平気さ、と胸を張って答えたが、唇が白っぽく、から元気なのは明らかだ。俺はテセウスが休憩を取ってくれたのをありがたく思った。
俺はあらためて周りを見回した。大広間は薄ぼんやりとした明るみに包まれている。明かりがどこから来るのかはわからなかった。これもダイダロスの魔術かもしれない。大広間からは幾つもの通路が出ているが、通路の先は真っ暗だった。
女房は、冷たい水にハンカチを濡らしている。イカロスの額の汗を拭いてやるつもりだろう。そうやって水際に屈んでいる女房を見ていると、初めて出会った時のことが思い出されて、なんとなくくすぐったい気持ちになった。
俺は女房に声をかけた。
「水は飲むな。地下水は時々、有毒な成分を含んでいることがある」
女房は振り返ってうなずいた。
テセウスがやってきて、俺の隣にすわった。
「どう思う?」
「ダイダロスの大広間だな。あの通路の先に何があるか……」
テセウスはうなずいた。
「斥候を出してみようと思う。二人ずつ、通路を進めるところまで進んで、先に何があるのか見てみる」
「しかし、トンネルは暗い。迷ったらどうする?」
その時、女房がひどくあわてた様子で戻ってきた。手の平に濡れたハンカチを広げ、俺の鼻先に突きつける。
「なんだ、一体」
俺は腹を立てた。女房は突然に口がきけなくなったようで、ひたすらにハンカチを突きつけてくる。俺はハンカチを払いのけようとした。
待て、とテセウスが言った。
濡れたハンカチの上に、砂が載っている。テセウスはその砂を人差し指の腹ですくい上げ、仔細に観察した。
「これは、金じゃないか?」
砂金だった。若いアテネ人たちも歓声をあげて、暗い水の中に沈んでいる、きらきらと光る貴金属をすくい上げている。俺は、王女がダイダロスに与えた砂金の袋を思い出した。あの出所はここなのだろう。
気がついてみると、岩壁にも金をちりばめた細い糸のような筋が走っている。大広間にぼんやりとした光を与えていたのは、縦横無尽に走る金の鉱脈だった。俺達はみんな、呆然として広間を見回していた。
テセウスはひとり、冷静だった。
「金がいくらあっても、ここから生きて出られなければ、何の役にも立たない」
テセウスは、アテネの若者たちを二人ずつの三組に分けた。最初の一組を送り出す前に、一人に松明を持たせ、もう一人にはさっきまで自分たちが縛られていたロープを持たせた。ロープの一方の端は、トンネルの入口の岩に結びつけた。
「いいか、ロープが尽きたら、戻ってくるんだ。縦穴があるかもしれない。足元には気をつけろ」
二人が出て行くと、テセウスは再び俺の隣にすわった。
「耳役殿。ミノタウロスはどこにいると思う?」
低い声だった。俺にしか聞こえなかったろう。
わからない、と俺は答えた。
「我々にはあまり時間がない。水も食料もない状態で、迷宮の中を何日もうろつくのは、それこそ自殺行為だ。提案なんだが、斥候たちが戻ってきたら、わたしと耳役殿との二人で一番有望なトンネルを行ってみないか? あとの者はここに置いて」
俺はぎょっとしてテセウスを見た。
「少人数の方が動きやすい。それに、彼らにとってもその方が安全だ。我々には松明が一つしかない。それをわたしたちが持って出たとしても、ここには明かりがある。それに広い。何かに襲われたとしても、戦えるだけの空間がある。そしてこの水音だ。我々が迷宮の中で迷ったとしても、流れをたどればここへ帰ってきて皆と合流できる」
俺は黙っていた。
「息子さんのことが心配か? 大丈夫、アテネ人は約束を守る」
最初の組はすぐに戻ってきた。トンネルは浅く、ロープが尽きる前に行き止まりになってしまった、という。横道が何本かあり、入ってみたがどれも行き止まりだった。一本は、ひどく狭く、膝をついても中に入ることができなかったので、調べられなかった、と彼らは報告した。
テセウスは次の組を送り出した。この組は、なかなか戻ってこなかった。ようやく戻って来た時には、青ざめて震えていた。このトンネルも行き止まりだったが、彼らは、横道の一本で一体の人骨を発見した。人骨は破れた長衣を着て、サンダルを履き、地面に長々と横たわっていた。自分らの着ているものと同じような長衣だった、と彼らは言った。
「あれは、九年前の貢物の誰かです」
一人が震えながら言った。
「骨は、ばらばらになってたか?」
と、テセウスが訊ねた。
「いや、ちゃんと人体の格好をしていました。うつ伏せになって、両手を頭上に上げたような格好でした」
テセウスは考え込み、ご苦労だった、と言った。
最後の組が、もっとも有望な情報を持って帰ってきた。彼らは、ロープの長さぎりぎりまで進んだところで、鉄の扉に道をふさがれた、と言った。扉には、牛頭人身の怪物の浮き彫りがあった。おそらく、ここが、ミノタウロスの棲みかだと考えた彼らは、怯えて駆け戻ってきた。ただ、彼らは非常にありがたい土産を持ってきた。扉の横の壁に、松明を差し込むための穴があり、そこにまだ新しい松明がささっていたのだ。ロードス人からもらった松明はもうひどく短くなっていたので、これはありがたかった。テセウスは、早速新しい松明に、火を移した。
「わたしが自分で行ってみてくる。皆はここで待ってろ」
と、テセウスは言って、残留組のリーダーにエイモスを指名した。
「一緒に来るかい、耳役殿」
俺はイカロスの傍に膝をついた。
「お父さんは出口を探しにテセウスと行く。お前はここで待ってるんだ、できるな?」
息子は大丈夫、と言った。
「お母さんを頼むぞ」
イカロスはしっかりとうなずいた。
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