第2話 語り部の物語
クレタ島は、多島海で五番目に大きな島でございます。東西に細長く、ギリシア本土からは約八十六海里、順風でも三日はかかりましょう。島の中央は高い山が連なり、深い谷と滝と洞窟が多い景勝の地でございます。一年を通じて温暖で、雨の少ない土地柄でございます。
クレタの漁師は小船で海に出まして、イカ、イワシ、メカジキなどをすなどります。畑では大麦を作り、挽いて焼いてパンにいたします。オリーブと葡萄もよくできまして、オリーブは実を絞ってオイルを取り、葡萄からは良いワインを醸します。山地では羊と山羊を飼い、肉を食べ、乳でチーズを作り、毛を織って身にまといます。
島の暮らしは素朴で、時として退屈でございます。アテネのように華やかな芸術文化のあるわけでなし、それでも人々は、満足して日々を送っておりました。ところがある日のこと、恐ろしい災いがこの平和な島に降りかかってまいったのでございます。
クレタ王ミノス様は、海の神に、ある願掛けをなさいました。何をお願いになったのかは、わかりませぬ。王家のお方のお考えは、下々の者のうかがい知ることのできぬものでございます。ミノス様は、この願いがかなった暁には、島で一番の牡牛を海神に捧げると誓われました。
ほどなく願いは叶えられ、ミノス様は一頭の牡牛を神に捧げられました。しかし……それは島で一番美しい牡牛ではなかったのでございます。
この少し前、クレタ島の海辺を一頭の白い牡牛がさまよっているのが見つかりました。所有者のいない牡牛は、王家のものです。しかし、この見事な牡牛が惜しくなったものか、ミノス様は別の牡牛を神に捧げられました。ここから、クレタ王家に呪いがかかったと申すものもおります。
クレタ王妃のパシファエ様、お美しい、お優しい王妃様が、どうしたわけか、この白い牡牛とつがいたいと、気違いじみた欲望に取りつかれてしまわれたのです。食べ物ものどを通らず、眠ることもできず、王妃様はすっかりやせ衰えてしまわれました。このままでは、お命も危ないと、島で一番、いいえ、全ギリシア一の知恵者であるダイダロスは、がらんどうの牝牛を作り、その中にパシファエ様を隠しました。こうしてパシファエ様の道ならぬ恋はかなえられたのでございます。
つき満ちて、パシファエ様は双子を御産みになり、力尽きたように亡くなられました。一人はアリアドネ様、母上によく似た美しい王女様でございます。もうお一方が、王子、ミノタウロス様。
ミノタウロス様については、色々な噂がございます。牛頭人身の怪物であるとか、逆に人の顔をした牛であるとか。けれども、誰も本当のことは知りませぬ。ミノス王は、出産に携わった奴隷を一人残らず殺めてしまわれました。そして、ダイダロスに命じまして、深い洞窟の奥に、ラビリンスと呼ばれる迷路のような宮殿を築かせ、そこにミノタウロス様をただ一人、閉じ込めてしまわれたからでございます。
別の噂では、ミノス王に神託が下り、九年に一度、七人の若者と七人の乙女をミノタウロス王子に生贄として捧げよ、さすればクレタ王家は子々孫々安泰、と申したといいます。これを聞くなり、ミノス王は海を越えて、アテネに攻め込みました。
クレタは文化的な洗練には欠けておりますが、強兵の国でございます。お上品なアテネ人を散々に打ち破り、講和の条件として、九年に一度、七人の若者と七人の乙女を貢物として差し出すことを求めました。
なぜ、そのような怪物を生かしておくのか、とアテネ人は尋ねました。みすみす怪物の贄にされると知りながら自国の若者を差し出す、彼らの胸のうちは絶望と悔しさで張り裂けんばかりだったのでございましょう。ミノス王は肩をすくめ、イヤならば戦闘を再開するだけだ、とお答え申したそうでございます。アテネは条件を飲み、最初の貢物を送ってよこしました。
それから九年、また、貢納の年がやってまいりました。
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