第23話 迷い谷 其の六
谷は、闇に包まれていた。
番兵屯所の明かりだけが、煌々と輝いている。番兵長は、俺がまたやってきたことに驚いたようだった。
「こんな遅くまでお仕事ですか?」
「そちらもご同様でしょう」
俺は、結界をはずしてくれるように頼んだ。
「できません」
「何?」
「谷には誰も入れるな、という宮殿からの命令です」
「だが、俺は王の耳だ」
「知ってます。だが、命令は命令です」
しばらく押し問答したが、番兵長は譲らない。どうしても結界の内に入りたいなら、王と一緒に来い、という始末だ。
あまり強情を張って疑われても良くない。俺は宮殿に帰ると見せかけて、屯所の近くの藪にひそんだ。チャンスが訪れるのを待つしかない。
延々と時間が過ぎた。俺が諦めかけた時、知った顔が出てきた。背の高い、がっしりとした番兵だ。非番になったらしく、出口の番兵に声をかけて谷から離れて歩き出した。
屯所から十分に離れてから、俺は声をかけた。
「誰だ?」
さすがに、鍛えられた傭兵だ。男は即座に剣を抜いてこちらを振り返った。
「俺だよ。傭兵殿」
男は闇を透かすようにして俺の顔を見た。
「なんのことだ」
落ち着き払った声が、俺を思い出した証拠だ。
「オノリウスに聞いてないか? 俺は敵じゃない。まず、その剣をしまってくれ」
傭兵は剣を鞘におさめた。
「テセウスに話がある。どうしても、会わなきゃならない」
「王の使いなら、勝手に入ればいいだろう」
「王の使いじゃない。王女の使いだ」
俺は嘘をついた。
「王女からテセウスに渡すものがある。結界を解いて、俺を谷に入れてくれ」
「なぜ、俺がそんなことをしなきゃならない」
「あんたは、オノリウスに雇われたんだろう? 俺はテセウスを助けようとしてるんだぜ」
「……」
「頼む、ロードス人殿」
男の顔がゆがんだ。他の番兵に、オノリウスに雇われていることはもちろん、クレタ人の大嫌いなロードス人であることがばれたら、ただではすまない。
「結界の傍で待ってろ」
男はうなる様に言って、屯所に戻っていった。
谷の結界はダイダロスが考案したと聞いている。大人の握りこぶしぐらいの大きさのハリネズミの形をしているのだ。材質は石だ。この石のハリネズミが、谷の周囲の草むらの陰に、一定の間隔を置いて配置されている。どういう仕掛けになっているのか俺にも、他の誰にも見当がつかないのだが、もしかしたら、あのオートマトンと同じ、オリハルコンが入っているのかもしれない。屯所にあるスイッチを入れると、このハリネズミの目が赤く光る。これでハリネズミとハリネズミの間に目に見えない結界が張られたことになる。知らずに結界を越えようとすると、ハリネズミはキイキイと大声で鳴きわめき、周囲に警報を鳴らす。テセウスはこれにひっかかったのだ。
俺はアテネ人が到着した夜に潜んだ場所に隠れた。そこからハリネズミの赤い目が光っているのを確認した。まだ、ダメだ。うまくやってくれよ、ロードス人!
ふっとハリネズミの目の光が消えた。
いまだ。
俺は素早く結界を越えて、反対側の藪の中に飛び込んだ。今にもハリネズミが叫びだすかと、身が縮んだが何もおきなかった。どこかでこおろぎが鳴いているだけで、谷は静けさに包まれている。俺は大きく安堵の息を吐いた。
だが、これからだ。番兵長は、警戒が厳重になったとこぼしていた。林の中を蔵に向かって走りながら、俺は周囲の気配に耳をすませた。
確かに、谷は異常に緊張している。俺は二回、林の中を巡回する番兵の松明の光を見て地に伏せた。ようやく見えた蔵の入口には、番兵が二人、歩哨に立っている。
どうする?
俺は蔵の裏手にまわると、音を立てないように慎重に屋根によじ登った。そこから、蔵の明り取りの窓まで這って進み、窓から中を覗き込んだ。
アテネの若者たちが、黒い影法師のように見えた。壁に寄り掛かって足を投げ出している者、膝を抱えて胎児のように背を丸めている者、頭を抱えてうつむいている者。
俺が昼間見た、喜びに顔を輝かし、あけっぴろげに笑っていた同じ若者たちとはとても思えなかった。客の待遇をする、という見せ掛けをかなぐり捨てて、牙をむき出した残酷で醜悪な現実に押しつぶされ、打ちひしがれているように見えた。
テセウスはどこだ?
テセウスだけは、絶望で心を閉じているような、あんな姿であってほしくない。それでは、俺にも希望がない。俺は目をこらした。
暗くて顔がわからない。腹を決めて、そっと窓を叩いた。
彼らは動かない。
俺は焦れた。戸口の歩哨に気付かれるような、大きな音を立てるわけにはいかないのだ。
俺は爪の先で、とんとん、とんとん、と微かなノックの音をたて続けた。
ようやく、膝を抱えていた若者が聞きつけたようだ。あたりを見回すような仕草をして、天井の方を見上げた。窓の外から覗き込んでいる俺の影を見たとたんに、ぎょっとしたように立ち上がった。俺はあわてて、唇に指をあてて見せた。若者はうなずくと、壁際に横たわっていた男を揺すぶり起こした。
テセウスは俺の方を見上げた。
俺は入口の歩哨の方を指さして、手刀で首をかき切る仕草をして見せた。テセウスはうなずいた。
ほどなく、蔵の入口で押し殺した格闘の物音が聞こえた。屋根から見下ろすと、二人のアテネ人の若者が、地面に押し倒した歩哨を縛り上げ、猿轡をかませているところだった。俺は屋根から下りた。
アテネ人の若者は歩哨を蔵の中に引きずり込み、身代わりに歩哨として入口に立った。テセウスの指示だろうか、二人とも、歩哨とよく似た身体つきだ。これならば林の中を巡回している番兵も、変事が起きたとは気付かないだろう。
「それで? 王の耳が何の用だ?」
テセウスの声は落ち着いていたが、皮肉の鋭いとげが感じられた。
「俺は王の使いで来たわけじゃない」
「それじゃ、王女の使いか? どっちにせよ、もう、ゲームに付き合うのはごめんだ」
テセウスは、吐き捨てるように言った。俺は必死になった。ここで癇癪を起こされては困る。
「違う。俺は自分の意思で来たんだ」
「奴隷にそんなものがあるか」
「頼むから話を聞いてくれ。あんたにとって悪い話じゃない」
テセウスはまだ、疑いの晴れない目で俺を見ている。
「テセウス。俺は、一人の人間としてここに来たんだ」
テセウスはいきなり、すとんと床にすわった。周りを若者たちが囲む。
「話してみろ」
俺は唇をなめた。テセウスはミノス王の裏切りに腹を立てている。ゲームには付き合わない、と言ったのは本音のはずだ。よほどうまく話さないと、テセウスは背を向けるだろう。彼に見捨てられたら、俺も、イカロスもおしまいだ。
「あんたももう、ミノス王のたくらみには気付いてるだろう? 王はあんたらを、アテネに返すつもりなんかない」
「薄汚い裏切り者の名前は聞きたくないな」
「あさっての夜、あんた達はラビリンスに連れて行かれる。ミノタウロスのもとに」
ミノタウロスの名前が出ただけで、若者たちの間に動揺が走った。テセウスひとり、動じなかった。
「そんなつまらない話をわざわざ言いにきたのか? 帰れ」
「あんた、ミノタウロスを殺す気だろう?」
テセウスは頬にふてぶてしい笑いを浮かべた。
「そのつもりだが、文句があるのか?」
「ない。あんたにしか、ミノタウロスは殺れないと思う」
「ほう。随分と買われたもんだ」
「ミノタウロスを殺った後、あんた、どうやってラビリンスを出るつもりだ?」
「……」
テセウスは無言のまま、目を光らせた。
やった、と俺は思った。こいつはまだ、そこまでの方策をたてていない。興奮を押し殺して、努めて落ち着いた声を出して言った。
「ラビリンスを出る方法を俺は知ってる」
「お前が?」
心底、驚いた声だった。
「ダイダロスに教わった。教えてやってもいい。ただ、条件がある」
テセウスはじっと俺を見つめた。腹の底まで見透かそうとするような目だった。
「言ってみろ」
「あんたがミノタウロスを殺した後、その角を切り取って俺にくれ」
「ミノタウロスの角?」
テセウスは角の薬効の噂を知らないようだった。俺は、どんな病気をも治せる奇蹟の角の話をした。テセウスの口元に薄笑いが浮かんだ。
「なるほど。ミノス王もとんでもない伏兵を持ったものだ」
「角をくれるか?」
「やる。ラビリンスを出る方法を教えてくれ」
「必ず角をくれると誓えるか?」
「くどい! わたしはアテネ人だ。クレタ人の嘘つきとは違う!」
テセウスの怒りは本物だった。俺は、その怒りを信用した。
懐から赤い糸玉を取り出して、テセウスに渡した。
「こいつを持っていけ。これを持っていれば、ラビリンスで迷うことはない」
テセウスは糸玉をしげしげと眺め、手の中でころころと転がした。
「これをどうやって使う?」
「その糸玉のあとをついていけば、出口に出られる」
テセウスは糸玉を懐にしまった。俺はふと、心配になった。
「腕の傷はどうだ? 剣を振るえそうか?」
テセウスは愉快そうに笑った。
「心配無用だ、耳役殿。奇蹟の角はちゃんとお前の手元に届けてやる」
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