第9話 王と王女
玉座の間では、陶器の皿や小鉢がぶつかり合う乾いた音がして、ミノス王が王女に葡萄酒を勧める声が聞こえた。昼食を取っているらしい。俺も空腹に気がついたが、腹の虫をなだめて耳をすませた。
「もう十分に頂きました。父上、話というのを聞きましょう」
王女の声が聞こえた。一応、敬語を使ってはいるが、ぶっきら棒な口調でおよそ愛嬌というものが感じられない。対するミノス王の方は、砂糖に蜜をかけたように甘ったるい猫なで声で答えていた。
「まあ、そう言わずにもう一杯ぐらいよかろう」
「いえ、いりません」
「せっかくの祝いの席だというのに」
「祝い?」
王女の声には警戒の響きがあった。
「なんの祝いですか」
「今朝、ポントウス将軍が来てな、わしと久しぶりに腹を割って語り合ったのよ。叔父上も頑固な男だが、この島を愛することにかけては人後に落ちん。それで、この島の将来のことが話題になってな……」
「なんの祝いですか」
王女は無礼にも国王の言葉をさえぎった。語尾が震えているように思ったのは、勘違いだろうか。
「それはもちろん、お前とポントウス将軍の子息との婚約の祝いだ」
死のような沈黙が壁の向こうに下りた。おそらく、王女は怒りで青ざめて、口もきけないでいるに違いない。父王の方は、いつも通り冷静に王女の反応をうかがっているのだろう。
ポントウス将軍には娘が二人と息子が一人いた。息子のコンモドスは、王女より十歳ほど年上のはずだ。軍役にはつかず、島の商取引関係を扱う二十人委員会に名前を連ねている。母親ゆずりの色白で端正な容貌で、貴公子然としているが、性格はおとなしく、どう考えても王女と馬があうとは思えなかった。釣り合っているのは家柄だけという、典型的な政略結婚だ。
「将軍はわしの叔父だ。島で第二の勢力家だ。とりわけ、軍には人気がある。ここで将軍と縁を結んでおけば、クレタ王家の未来になんの心配もない」
王女は無言だった。
「なんだ、ちっとも嬉しそうな顔をせんな。コンモドスは男前だぞ。宮廷の若い娘たちの中には彼に憧れている者が大勢いるそうじゃないか」
王女はまだ無言だ。
「それに、コンモドスは優秀な若者だ。海綿、大麦、羊毛、オリーブオイル、島の産業全般について、若いのによく勉強している。わしはいつも、二十人委員会で彼の報告を聞くたびに感心しておるのだ。こんないい縁組はないぞ」
「あのへなちょこ」
と、いうのが王女の返事だった。
また、しばらく沈黙が降りた。次に王が口を開いた時、王の声音からは甘い蜜はきれいさっぱり消えていた。
「アリアドネ。わしは今まで、大概のことについて、お前が好きにするのを認めてきた。家庭教師をすっぽかそうが、宮廷の姫たちと喧嘩してぶん殴ろうが、酒場に入りびたろうが、勝手にさせてきた。だがな、この事だけはわしの思い通りにする。お前はクレタ王家のたった一人の王女だ。ふさわしい相手と結婚し、王家の跡継ぎを生むのがお前に定められた使命だ。それさえ果たしてくれれば、わしは何も言わない。博打を打とうが、野良犬のように山野をほっつき歩こうが勝手にするがいい」
クックックッと含み笑いが聞こえた。おかしくもないのに、無理に笑っているような陰気な笑い声だった。
「コンモドスはどうなのです? わたしが、彼の妻にふさわしい女だとそう思っているのですか?」
「思っておらんだろうな」
「そうでしょうね。へなちょこでも馬鹿ではない」
「だが、承知する。父親に逆らうような息子ではない」
「へなちょこ」
「アリアドネ!」
ミノス王の声はけわしかった。王女はへいちゃらだ。
「この縁組は父上の方から持ち出したものなのですか?」
「そうだ」
「それでは大叔父上はお断りになれますまい。お気の毒に、大事な一人息子を、わたしなんぞと結婚させるとは思ってもおられなかったでしょう」
「ポントウスはクレタ島のためなら命も惜しくないという男だ。お前がどこかのならず者をくわえこんで、王家の婿だと言い張るような事態だけは避けたいと考えたようだ。それよりは、自分のとこのへなちょ……息子と結婚させて、義理の父としてしっかり見守っていきたい、とそう思っておるようだな。将軍はわしとは違う。お前も少し身を慎んだ方がよいぞ」
王女は答えなかった。やがて、椅子を引いて立ち上がる音が聞こえた。
「お話はそれだけですか?」
「もう一つ。今度のトーナメントの前夜祭で、お前とコンモドスの婚約の披露をするからな。お前の乳母に申し付けておいたから、ふさわしい衣装を新調しろ。装身具やら何やらもだ。さっきから、仕立て屋が来て待っておる」
王女は一言も言わずに、玉座の間を出ていった。
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