第11話 ダイダロス

 俺は床に投げ出され、ねずみのように小さくなって震えていた。ダイダロスは椅子にすわったまま、憮然とした顔で俺を見ている。王女はダイダロスの太い樫の杖―杖というより丸太棒だーを持って、俺の前に突っ立っている。今にもその太い樫の杖が、俺の背中に振り下ろされるんじゃないかと、俺は気が気じゃなかった。俺はテセウスのような英雄じゃない。一撃ごとに悲鳴をあげて泣き叫ぶだろう。王女も、俺が相手なら遠慮なく殴りつけるだろう。俺は貢物じゃない。撃ち殺したって、ミノタウロスは困らない。

「王女様、この男は?」

 ダイダロスの声だった。

「王の耳」

 吐き捨てるように王女が答える。

「それは困りました」

と、ダイダロス。「話を全部聞いていたとすると……」

 王女がゆっくりと杖を振り上げた。

「しくじった耳の運命はわかっているな?」

 俺は両腕で頭を抱えて目を閉じた。

「助けて、助けて下さい。お願いします。何でもします。なんでも」

 必死に言い続けた。なんでもします。助けて下さい。殺さないで。助けてください。お願いです。助けて下さい。

「意気地の無い男だ」

 軽蔑しきった王女の声が聞こえた。

「安心しろ。一撃で片をつけてやる」

 助けて、助けて、助けて。俺には女房も子供もいるんです。助けて下さい。

 無駄だと知りながらも、俺は泣きながら命乞いを続けた。とにかく怖かった。王女が足を踏みかえて身構えるのがわかった。今にも樫の棒が俺の頭上に振り下ろされるだろう。頭蓋は卵のように砕けて、中身がどろりとはみ出すに違いない。俺は震えながら打撃を待った。恐ろしさの余り、股間が生暖かく濡れた。

 と、ダイダロスの声が聞こえた。お待ちを、と言った。

「なんだ」

 苛立たしげに王女が言った。

「この者、利用できます。姫様とわたしの間の連絡役に使いましょう」

 王女は黙って、その可能性を考えているようだった。

「信用できるか?」

「質を取ればよいでしょう」

「質?」

「この者の女房と子供です。お前には妻子がいるのだな?」

 ダイダロスに問われて、俺はガタガタ震えながらうなずいた。

「名前は?」

 答えようとしたが、言葉が出なかった。王女は棒を捨てて俺の前にしゃがみこむと、いきなり横面を張った。激しい痛み。だが、おかげで正気が戻ってきた。俺は宮殿で下働きをしている女房の名前を言った。

「ご存知ですか、姫様?」

「女奴隷の名前などいちいち知るか。だが、乳母が以前話していた。王の耳が、洗濯女にちょっかいを出してはらませた、と」

 王女は俺の髪を掴んで自分の方に向かせた。俺の目の前に、王女の灰色の瞳があった。鋼のように冷たく、強く、ゆるぎない意思を伝える瞳。何事も自分の思い通りになると信じ、事実、そうしてきた者の瞳だ。

「お前は今からわたしの耳だ。わたしのために走り、わたしのために聞き、わたしのために沈黙する。いいか」

 俺はうなずいた。

「もし、そむいたら、お前も、お前の女房、子供も死ぬまで鞭で打ってやる。いいな」

 俺は震えながらうなずいた。王女は本当にやるだろう。

 王女はダイダロスの方を振り返った。

「なんか付け加えることがあるか」

「姫様、申し訳ないが、そのひしゃくに水を一杯もらえませんかな」

 王女は黙ったまま、床に落ちていたひしゃくを拾うと、水を汲んだ。

「ありがとうございます。さあ、耳役殿」

 ダイダロスは俺の方に身を屈めて、ひしゃくの水を差し出した。冷たい水が喉を滑り降り、胸を下って、腹にしみわたるようだった。ああ、生きている、と実感した。

「耳役殿、こう言ってはなんだが、さっき、わたしが止めなんだら、お前さんは今頃、冥府の川を渡っておったところだ。そのことを忘れんでくれ」

 ダイダロスの声は穏やかだった。俺は顔を上げて、老人の皺の寄った額の下の茶色の瞳を見た。老人は刺し貫くようにまっすぐ俺を見ていたが、その目には理解と、同情の色があった。

「ここで聞いた話は忘れることだ。これはわしらのためばかりじゃない。お前さんのためでもある。余計な荷物は持たぬにこしたことはない。王女様が島を出たら、お前さんはまた、以前の暮らしに戻るのだから」

 俺はわれ知らず床に頭をこすりつけていた。この老人は王女とは違う。一度はひとを愛し、失うことの痛み、生きることの苦しさを知っている。この人のためならば黙って死ねると思った。ダイダロスは俺の思いを見て取ったのかもしれない。面映い微笑を片頬に浮かべて、王女様、彼は大丈夫です、と言った。

 王女はいつも通り、ぶっきら棒な口調で命令した。

「耳、父上には今まで通り仕えていろ。ただし、父上に報告することはわたしにも知らせろ。今から、お前は父上の耳じゃない。わたしの耳だ。忘れるなよ。行け!」

 俺は飛びあがって逃げ出した。

 ダイダロスの家にいる間に日はかなり西にまわり、家々は、濃い黒い影を通りに落としていた。相変わらずひと気の無い、死んだような通りを、俺は一散に走った。息が切れて走れなくなり、ようやく足を止めた時は、練兵場のすぐ傍まで来ていた。練兵場を囲む樫の並木の一本に寄りかかると、痛む脾腹を押さえて身体を二つに折った。胸がむかむかしたが、口から出るのは黄色い苦い胃液だけだ。考えてみれば、昼飯を食っていなかった。空腹を思い出すと、自分の惨めな姿も見えてきた。ぐっしょりと汗をかき、濡れた股間から異臭を放っている哀れな奴隷、しくじった耳役!

 涙が出てきた。王女の軽蔑の目、ダイダロスの憐れみの目を思い出すと身内にかっと火が燃えた。恥と怒りと悔しさに目が眩んで、俺は冷たい大地に身を伏せると、声を殺して泣いた。

 どれくらいそうしていただろう。夕方の涼しい風が樫の木の梢を揺らし、足元の草の葉を翻らせる頃、俺は立ち上がった。仕方がないじゃないか、と自分に言い聞かせた。俺は奴隷だ。テセウスとは違う。俺は人に売り買いされるモノでしかない。モノには心などない。苦痛を耐える誇りも勇気もない。痛みがあれば悲鳴をあげ、脅されれば身を縮める。俺はモノだから、ただ、役目を果たす。もし、役目が俺の手に余れば、その時はただ、壊れてしまうだけだ。

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